『キホーテ神父』 グレアム・グリーン


とっても素晴らしい作品。以前、雑誌の記事か何かで、さる現代作家の女性が「日本では純文学とエンターテイメントを分けたがるけれど、サマセット・モームの作品を読むと、そんな区別は必要ないということがわかる」という種のコメントをされていたのが印象的だったが、グレアム・グリーンにも、まさにこのコメントがあてはまると思う。『情事の終わり』もそうだが、エンターテイメントとして読者を絶対に飽きさせない文章とストーリー展開の巧みさが、主題の深さと見事に両立している。

『キホーテ神父』はその名の通り、あの名作「ドン・キホーテ」にちなんだ作品で、かの有名な騎士の末裔であるキホーテ神父が主人公である。「ドン・キホーテ」のパロディ版とも言えるが、私は「ドン・キホーテ」をちゃんと読んだことはないにも関らず、十分楽しめた。スペインの片田舎で神父を務める主人公の「キホーテ氏」は、彼が愛してやまない老朽車の小型フィアット「ロシナンテ」に乗り、彼の親友なのにコミュニストである元市長の「サンチョ」と共に、あてどもない遍歴の旅に出る・・・「ドン・キホーテ」自体がある種のパロディなのに、さらにそれをパロディにしているだけあって、全編、笑う場所には事欠ない。根っから真面目なカトリック信徒のキホーテ神父が、根っからのコミュニストのサンチョと繰り広げる問答は、ぴりっと辛らつなユーモアが効いていて、カトリック信者もコミュニストも読んだら苦笑せざるを得ないであろう。そして、悪気は無いのにどこかずれているキホーテ神父が、サンチョに騙されて泊まった売春宿でコンドームを風船みたいに膨らますシーンや、「処女の祈り」というタイトルを信じ込んでポルノ映画館に入ってしまうシーンなど、抱腹絶倒のエピソードが続く。
それでも、そういうドタバタの中で、キホーテ神父と町長サンチョが交わす会話には、時々深遠なテーマが顔を覗かせる。

ですから、あなたもときには疑惑を抱いてみることです。疑う者こそ人間なんです。」
「わたしは疑うまいと努めている」町長は言った。
「わたしもそうです。そのように努めてはいます。その点、わたしとあなたの考えは一致しましたね」
町長は少しのあいだ、キホーテ神父の肩に手をおいていた。それで神父は、体内を町長の心遣いが電流のように走り抜けるのを感じた。おかしな現象だなと考えながら、とりわけ慎重に、ロシナンテにカーブを切らせた。たしかに、疑惑の意識を共通に持つのが、信仰を分けあうよりも、人の心を近づけるとは奇妙な現象である。おそらく、その理由はこうであろう。すなわち、信仰に熱心な者は、同じ信仰仲間と熱心さを競いあうことになるが、それに疑いを感じるときは、おのれ自身と闘わねばならぬのである。

信じているものがカトリックにせよ、(ある意味で20世紀最大の宗教とも言える)共産主義にせよ、ここには「信仰」というものを問い直す真摯な姿がある。

「・・・あなたと一緒だと、自分ひとりのときよりも自由を感じることができるのです。自分ひとりだと、もっぱら読書に集中して、神学書のなかに埋没してしまいます。もちろん、神学書のなかに、わたしよりはるかに優れた人たちの信仰を見出します。・・・さらには、わたしの信仰なるものは、本来のそれとは違っているのではないかと考えるようになったのです。わたしの信仰自体がそのように考えさせるのです-言い換えますと、それはわたしより優れた人たちの信仰かも知れない。はたして、わたし自身の信仰といえるのか。ひょっとして、聖フランソワ・ド・サールがそのように信じていただけのことではないのか、とです。それが、サンチョ、あなたと一緒だと、このような悩みから解放されます。・・・」
「ところで、神父、わしがエル・トボーソで、とくべつあんたに惹きつけられた理由を知ってるかね?・・・わしはあんたが懐疑を知らぬところに魅了された。羨望の気持ちからと言ってもよい。」
「大へんな思い違いですよ、サンチョ。わたしは懐疑で悩みぬいています。確信を持てることが何もないのです。神の存在でさえ、例外ではありません。ですが、懐疑はあなたたちコミュニストが考えるような裏切り行為ではなくて、それこそ人間的であると言えるのです。もちろんわたしは、すべてが真実と信じようと希っています。・・・」

物語は、「風車」との戦いに傷つき病に臥したキホーテ神父が、錯乱した状態のまま、町長サンチョに聖体拝領を施して息絶える、という結末を迎える。キホーテ神父の遺体を残して旅立つサンチョの最後の姿が印象的だ。
《疑うことにのみ、人間らしさがあると、キホーテ神父がいった。だが、懐疑こそ、行動の自由を失う原因だと、彼自身は考えた。人間は懐疑によって、二つの行動のあいだに往きつ戻りつする。ニュートンが重力の法則を発見し、マルクスが資本主義の将来を予見したのは、懐疑によるものではなかった。》
《彼の頭脳には、きわめて異常な考えが宿っていた。人間への憎悪は、たとえその相手がフランコ総統のような男であっても、その男の死亡とともに消滅するのに、愛は---彼がいま、キホーテ神父に感じはじめている愛は---いつまでも存続して、死による別れを告げ、最終的な沈黙に隔てられたのちまでも、消え失せることがないのはなぜなのか。愛はいつまで継続するのか、そしてその行き着く先は、と彼は、恐怖のおもいで考えていた。》
「信仰」とは本質的・絶対的にプライベートなものでありながら、それを一つの「宗教」として統一してしまうことのパラドックスが、キホーテ神父の姿を通して見事に描かれている。信仰と自由の問題、カトリック教における「地獄」とは、そして「愛」の姿とは・・・とてもブログの一記事では扱いきれない壮大なテーマを秘めている。
でも、この作品の醍醐味は、小難しいテーマを唸って考えるのではなく、キホーテ神父と町長サンチョのユーモア溢れる会話やエピソードを楽しむところにあるのかもしれない。そして、この作品のもう一つの楽しみは、スペインの芳醇なワインを浴びるほど飲みながら、キホーテ神父と町長サンチョと一緒にスペイン全土を放浪しているような気分が味わえるところである。特に、主人公たちの(著者の)ワインへの愛情が溢れていて、お酒を全く飲めない私でも、ワインを飲みながらスペインを旅してみたい気分にさせられた。こういうロードムービーがあったら観てみたい・・・やっぱりグリーンは最上級のエンターテイメントをつくる天才である。

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