書評 『バロックの光と闇』 高階 秀爾 ②


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バロックを反「古典主義的なもの」と定義し、その対比から特質を捉えることは《便利》だが、一方で、ヴェルフリンのような概念化は《うっかりすると図式化する危険性がある》。実際のバロックは、反古典的様式という概念には収まりきらない、豊穣で複雑なものをもっているのである。単純化した説明の後で、高階先生は、バロックのもつ「写実性」「光」「装飾性」「浮遊性とダイナミズム」「都市空間と建築」「演劇」「音楽」など様々な観点から、その奥深さを分析している。

中でも興味深かったのは、プッサンやド・ラ・トゥールなどの17世紀「フランス古典主義」と分類される画家たちが持つ「バロック性」に触れているところだ。今までさんざん述べたように、バロックとはまず、反古典主義的なものである。それなのに、一見均整さや静謐さに彩られたフランス古典主義画家達がバロックの影響を受けている、というのはどういうことなのか。しかし、バロックの劇的表現や明暗表現の影響を受けてなお、最終的に古典主義的表現に回帰していったのがフランス古典主義なのだ、と高階先生は言う。

イタリアをはじめとして、ヨーロッパ中にバロックの嵐が激しく吹き荒れた十七世紀において、フランスはただひとり、古典主義の伝統を保ち続けた。(略)そのフランスも、世紀の初めの頃は、先進国イタリアの影響を大きく受けて、バロック的なものに惹かれる傾向を見せた。フランス古典主義絵画の最も偉大な代表者であるプッサンも、若い頃はイタリアに学んで、きわめてダイナミックな、劇的表現に溢れる作品を残している。(略)プッサンの場合は、ちょうどミケランジェロの例とは逆に、ダイナミックなバロック性から静謐な古典主義表現へと変貌していったのである。おそらくそれは、フランス精神特有の節度と中庸の感覚がもたらしたものであろう。

高階先生は、『フランス絵画史』などの名著から分かる通り、フランス古典主義についてはさすがに造詣が深く、プッサンの「聖母被昇天」に見られるダイナミズムと上昇性、ド・ラ・トゥールの「悔悛するマグダラのマリア』「大工の聖ヨセフ」に見られるドラマチックな明暗表現、フィリップ・ド・シャンパーニュの「1662年の奉納画」に見られる光源へのこだわりなど、随所にバロックとの深い関わりが指摘されている。

バロックの様式的な分析にとどまらず、その普遍的な精神性を伝えたい、という著者の意図は、冒頭にフランスの巨大な文化複合施設ポンピドゥー・センターを例に挙げ、極めて「バロック的」であると紹介しているところからもよく分かる。現代アートの殿堂的建物がバロック的?と、始めはやや首を傾げたくなるのだが、大衆を惹きつけるための大掛かりな仕掛け、ジャンルレスな総合的イベント性、そしてグローバル化への志向、などが、バロック精神の裏付けとなっていることは、本書を読んでいくうちに明らかになるだろう。

最終章では、「永遠のバロック」と題して、17世紀のバロックvs古典主義の図式を、そのまま、19世紀のロマンvs新古典主義の図式にあてはめて論じている。

ロマン派はバロックの落とし子と言ってもよい。

高階先生の『想像力と幻想』や前述の『フランス絵画史』の記事で述べた通り、ロマン主義と新古典主義の対立は、「主題」の新しさと「表現」の新しさという2つの軸が複雑に絡み合いながら、自然主義や印象主義に発展していく。バロックが、相反するようなフランス古典主義に昇華していったり、あるいは、宗教的権威や王政の豪華絢爛さとは対極にあるようなフランドル派の質実剛健な写実主義に影響を与えたりしていく、そんなところも奇妙に酷似しているのである。

ロマン主義の「バロック性」を指摘しながら、最後は、バロック精神の「普遍性」に触れて締めくくっている。

安定した秩序への志向が人間精神の本質的な一面であると同様に、変化と破壊への衝動もまた、つねに人間のなかに存在している。つまりバロック的性向は、古典主義的性向とともに、人間にとって本来的なものなのである。

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