書評 『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』 都甲 幸治ほか ②


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さて、「世界の」とは言えるかは疑問だが、「日本の」と言えばまず名前のあがる芥川賞と直木賞について。

芥川賞で、取り上げられている作品は、黒田夏子の『abさんご』、小野正嗣の『九年前の祈り』、目取真俊の『水滴』の3つ。芥川賞は元々、芥川龍之介没後に友人の菊池寛が創始した。《年齢の近い芥川が若くして文壇の寵児となるのを羨望しつつ、自らは出版業で成功し、文藝春秋を設立した》菊池寛が《文壇を盛り上げるために作った賞》であり、《マーケットを開拓する威味でも新人に与える賞にした》といった経緯は、なるほどと思う。《新人賞であると同時に一番の権威も持つという、ある種の矛盾も生まれていったんでしょう》

芥川賞は、妙にマーケット寄りになったり、文学的前衛趣味に走ったりして、個人的にあまり好きになれない賞だったのだが、そのあたりのモヤモヤ感がなんとなく納得できた。歴代の選考委員がほとんど作家しかいない、というのも、理由の一つかもしれない。

これに比べて、直木賞は個人的に、もっとずっと期待している文学賞である。なぜか、「芥川賞=純文学」「直木賞=娯楽文学」という、一面的なレッテルが一人歩きしている感があるが、最近の受賞作をとってみても、直木賞受賞作には優れたものが多いと思う。主編者の都甲さんが《どれも読んでいて「面白くて何が悪い」という気持ちになりました。》と述べているのが印象的。取り上げられた三作品、東山彰良『流』、船戸与一『虹の谷の五月』、車谷長吉『赤目四十八滝心中未遂』は、どれも未読だが、是非とも読んでみたい作品ばかりである。船戸与一作品の魅力について語っているところも、『満洲国演義』を読んだ後では、ものすごく説得力があって、日本現代文学は専門ではないはずの都甲幸治はじめ、編者達の洞察力に感心してしまった。

都甲

船戸作品の魅力は色々あるんだろうけど、たとえば純文学と比べて明確にストーリーがありますよね。(略)人間の根源的な欲望として、物語欲ってあると思うんだよね。そういうのは抑圧しなければいけないという不文律が純文学にはあると思うんだけど、逆に船戸与一の作品は物語欲の塊みたい。

石井

常にクライマックスなんですよね。

都甲

そう。初めにも言ったけど読んでいると「面白くて何が悪い」って思えてくる。これはこれで気持ちいいです。

最後に、主編者の都甲幸治が、芥川賞と直木賞を比較して語っている部分は、現代の日本文学の抱える問題や今後の方向性を暗示していると思った。

芥川賞って結局、フランス文学やイギリス文学みたいなものを日本語で書こうとしている人を褒めてあげる賞なんじゃないかと思えてきたんです。一方直木賞は、本音の部分というか、たとえば車谷長吉で言えば仏教的死生観だったり、東山彰良なら台湾だし、船戸与一の『虹の谷の五月』はフィリピンです。アジアや、アジア的な感覚、つまり日本から見た日本だけではなくて、アジアから見た日本という視点がある気がします。日本ってアジアにあるのに、自分たちはヨーロッパの一部だと妄想している。つまりアジアとヨーロッパの間で精神が引き裂かれていると思うんですけど、その分裂が、この二つの賞に出ている気がします。

単純に純文学とエンタメ、という分け方ではなくて、日本人が二つの方向に分裂しているから二つの賞があるんだと考えると面白いんじゃないんでしょうか。

冒頭で述べた通り、この本の面白さは、世界の文学賞受賞作を通して、現代海外文学の傾向を模索しているところだ。特に気になったのは、例えばブッカー賞受賞作ジョン・ハシヴィルの『海に帰る日』で言われている「記憶の揺らぎ」というテーマ。

江南

作品内部で、「これは書かれたものである」ことが担保されているわけです。私は実はこの構造が好きで、次に話すアトウッドの作品も同様の構造です。これらが全て「書かれたことである」というのは、記憶を描くという行為が必然的にもつ「揺らぎ」まで書き留める意味を、読者に感じさせます。

都甲

ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』も、記憶が戻ってきて初めて主人公が記憶に騙されていたことがわかる小説で、これも揺れですよね。イシグロの『日の名残り』でも『充たされざるもの』(ハヤカワepi文庫)でも、記憶が揺らいでいる。そういうテーマを極端にレベルの高いところで書いている人たちが、現代のイギリスとアイルランドに密集しているって、すごい状況ですよね。同時代に生きていることが楽しくてしょうがない。

カズオ・イシグロの作品の中に、「記憶の揺らぎ」が重要なテーマとしてあるのは、『浮世の画家』などの作品を読んでもよく分かる。イアン・マキューアンの『贖罪』や『土曜日』などもそうだ。

ゴンクール賞で挙げられたパトリック・モディアノの『暗いブティック通り』は、記憶喪失の探偵が自分を探っていくというまさに《記憶のあり方を読んでいく本》だし、マルグリット・デュラスの『愛人』もまた「記憶」が前提となった構成になっている。

都甲

他人の記憶を引き継ぐってどういうこと、証言するってどういうこと、正しい記憶って何、というテーマは、芥川賞のコーナーではなした目取真俊とも共通しています。国は違っていても主題はすごく近いし、どちらも戦争が絡んでいます。『愛人』もそうですけど。

「記憶の揺らぎ」というのはつまり、「書くこと」や「歴史」そのものの「揺らぎ」ということである。「記憶の揺らぎ」を問うことは、文学や歴史の正当性や客観性や永続性を問うことと繋がっていて、現代の文学創作者は「揺らぎを発見する」ことはもはや必要なくて、それがある前提で「揺らぎとどう向き合うか」を、常につきつけられているのかもしれない。

もう一つ、現代文学の潮流として取り上げられるべきものに、「周縁」「マイノリティ」という概念があるが、それもまた「記憶=歴史の揺らぎ」と密接に関係していると思う。ノーベル文学賞で取り上げられたV・S・ナイポール『ミゲル・ストリート』の古くて新しいカリブ海の世界観。或いは、カフカ賞で取り上げられたフィリップ・ロス『プロット・アゲインスト・アメリカ』に代表される、アメリカのユダヤ系あるいは中東欧のユダヤ系が感じている《ユダヤの疎外感》。日本文学でも、これはあてはまって、芥川賞で取り上げられた目取真俊の『水滴』で描かれた沖縄、直木賞で取り上げられた東山彰良の『流』で描かれた台湾、船戸与一の『虹の谷の五月』で描かれたフィリピンなど。もちろん、「周縁」や「マイノリティ」を描くというのは、昔からの文学における大きな普遍的テーマだが、それが常に「記憶の揺らぎ」=「書くことの揺らぎ」と背中合わせなところに、現代文学の難しさと不安定さがあるのかもしれない。

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