書評・小説 『私的生活』 田辺 聖子


乃里子という女性を主人公にした三部作の真ん中に位置する作品である。前後に『言い寄る』と『苺をつぶしながら』があるのだが、私はこの『私的生活』が中でも一番好きなので、再読した。

この作品が一番好きな理由は、なんと言っても、財閥御曹司の剛と結婚した乃里子の贅沢な新婚生活の描写が素敵だからである。東神戸の高台の瀟酒なマンション、御影にある婚家本邸の御屋敷の様子などは、「阪神スノビズム文学散歩」の記事でも取り上げた通りだ。

《海が街の向こうに手にとるように見え》る大きなベランダのあるマンションで、《熱いコーヒー(剛は砂糖なし)かりかりに焼いて、縁が焦げて縮れたベーコン、めだま焼、(剛は三つ、私は一つ)それにトースト、バターに冷たいミルクを三百CC、剛はよく朝にスパゲティを食べたがるので、茹でる》で《大皿いっぱいのスパゲティに作りおきのミートソース、刻みチーズをたっぷりかけて》二人で食べる朝食。

夜には、《新婚旅行のとき、ギリシャで買ってきた、赤ん坊のあたまほどもある海綿で》《透明で菫色をしており、帆立貝の形》をした石鹸の泡をいっぱい立てて《滑滑と肌を擦るときにいちばん、(贅沢っていいもんだ)と思う》。

こんな生活に憧れない女子がいるであろうか。しかし、幸せで贅沢な「新婚ごっこ」を送るうちに、乃里子は自分が何かを失っていくことに気付いていく。大阪の市内に自分の仕事場と称してマンションを残し、最後の自分の砦としている乃里子だが、全てを所有したい夫と、無意識にそれに抵抗しようとする彼女との間で、微妙なすれ違いが重なっていく。そして、幸せな新婚生活は破綻を迎える。

そのとき、私は思った。私の私的生活は、みんな剛に吸収されてしまって、私自身の存在すらなく、剛の私的生活の一部分として私が僅かに生き残っているだけだって。

ああいうこと、「あの贅沢」のたのしみは、

「これが贅沢というものだぞ」

と男に示されて与えられたとき、急に色あせてしまうのだった。少くとも私の場合。

こういうストーリーラインだけを書くと、主人公の女性が、「贅沢に目がくらんで結婚したものの、矛盾や空虚さに気付いて離婚して自分を取り戻す」という印象を受けるかもしれない。実際、そういう風に書かれているところもあるし、私も、一度目に読んだ時には、そういう印象が強かった。だが、今回再読して受けたのは、ちょっと違う印象だった。それは、「男を故意に甘やかす女性の狡さ」が描かれている、という点だ。

私は、剛を、そうやってやさしく、あやしてきた。(中杉氏によれば、だましだまし、という所である)それで剛は、私のことをとても気の合う相棒だと思ってるのだ。

(略)

それはみな、それまで女の、ある種のやさしみから、

(これはあの人向きの話だから、これは言ってあげよう)

とか

(これはいっても仕方なかんべえ)

と類別しているのである。私は、それを女のあきらめだとも思うし、いたわりだとも思われる。

剛が私にやさしくする、というよりは、私が剛にやさしくする、その方が、罪ぶかいのじゃないかって。私は甘やかせ、安心させているのに剛は知らないわけである。(略)誰かが、「あれは点数かせぎのやさしさだー」などと、私のことを陰口利いてる夢である。

でも、それは、私が、熱っぽい頭で、考えてることである。べつに、誰の陰口でもない。

私の、剛に対するやさしさは、無責任のやさしさである。

剛が見咎める。出るな、というとする。と、私は、返事に窮して、

「今まで、充分、やさしくしてあげたやないの」

などと言ってしまうにちがいない。もう、あんたに対する「やさしさ」の玉は出つくした、予定終了になった。あとはヨソの台へいってくれ、というような意味のひびく言葉を放ってしまうかもしれない。それはもう、犯罪になってしまう。

こういうところを読むと、私はドキッとしてしまうのだ。以前読んだときにはここまで身につまされなかった。これはまるで、子への母の「甘やかし」とそっくりである。だから余計に心に響いたのかもしれない。

結局、乃里子は、身一つで剛の去る決心をする。乃里子の「私的生活」の中での密かな恋人である中杉氏(『ジョゼと虎と魚たち』『休暇は終わった』や『恋にあっぷあっぷ』の記事でも書いたが、これまた田辺聖子の小説に必ず登場する、ユニコーンみたいに架空的魅力的中年男性である)との会話で、より多く失ったのは、彼女ではなく、残された(物質的には何も失っていない)剛の方であった、と感じるラストシーンは印象的だ。

「今まで、お芝居してたの?」

中杉氏はきいた。

「芸術家の衝動で、ね」

と私は笑った。

「お芝居と知らんかった人は、かなわんやろうなあ」

中杉氏は呟くので、

「あ!いわんといて、いわんといて!胸が痛うなる!」

と私はいった。いっただけで涙ぐみそう。剛と二人で齧ったリンゴとか、あのこと、あのこと。・・・あのこと・・・。

「では、やっと役者の私的生活にもどったわけですね」

乃里子の剛への「やさしさ」は、いたわりでもあるけれど、諦めでもある。乃里子は、贅沢な暮らしや物欲に執着するタイプではない。でも、どこかで楽しく満たされた快適な「新婚生活ごっこ」の代償として、こういうやさしさを装っている自分がいることに気付いている。そして、「新婚生活ごっこ」ではなくて、彼女の「私的生活」の全部を明け渡してほしい剛に対して、その「やさしさ」でもってすり替えて誤魔化そうとしていることにも・・・

自分の「私的生活」の代償に、相手を甘やかして快適な生活を送ったとしても、それは欺瞞だからきっと長続きしない。「私的生活」」というタイトルは、なんだか柔らかな関西言葉の多い田辺聖子の文章の中では、ちょっと異質な言葉だが、「心の核」とか「生きがい」とかを含んだ独特の意味に響いてくる。意外なタイトルに帰結するラストシーン、これもまた、いつも言うように田辺聖子小説の醍醐味だ。

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