書評 『アートの価値 マネー、パワー、ビューティー』 マイケル・フィンドレー ②


ここまで、アートの商業的価値についての扱われ方を見てきたが、著者フィンドレーは「社会的価値」の側面においても、アートとお金の関係を指摘する手を緩めてはいない。

本来、アートの社会的価値を高める場所であるはずの美術館は、豪華で壮麗なイベントやレセプションの場となっている。2007年9月にビル・クリントン元大統領がグローバル・イニシアティブ会議をニューヨークで開催した時には、ニューヨーク近代美術館でイブニングレセプションが開催された。カナダのエドモントン州アルバータにあるキュレータを持たない美術館は、飲食やショッピングのエリアの横で、外注の展覧会によりスペースが埋められており、豪華な中央の螺旋階段は「結婚式の予約は6ヶ月後までいっぱいです」と役員が自慢げに語っている。

前述の、1995年に新しくなったサンフランシスコ近代美術館でオープニングのパーティが開かれた時、スイスの著名建築家マリオ・ボッタが設計した空っぽのドームのディナーで隣り合わせた美術館の女性理事に、なぜここに何も展示していないのかをつい聞いてしまった。「あらまあ」と、11カラッとDフローレスのダイヤモンドリングを弄びながら彼女は言った。「このスペースはパーティやチャリティや舞踏会や株式総会に使うもので、アートのための場所ではないのよ」と。

美術館は大型展覧会の多色刷り全面広告を新聞の娯楽欄に掲載し、入場券付きのホテルの宿泊パッケージを盛んに宣伝している。今や一大産業なのだ。かつてのミュージアムショップは、数段並んだポストカード程度だったものが、収益の上がる独立型フランチャイズ店隣、ハトシェプスト女王のスフィンクスのレプリカから、片手で使えるコショウ挽きまで、何でも売っている。館長たちの多くは、美術館での個人的な催から、出版、入場券の販売まで、ありとあらゆる方法で収益を増やすためにビジネスマネージャーを身近に置く。革新的で優れた展覧会が、最大の収益を上げられるわけではないのだ。展覧会の企画は商業的な見解で判断され、地味で賛否両論を呼ぶような展覧会が、大衆向けのよくある展覧会に座を奪われることもある。

アートの商業化は、アーティストとお金の関係からも辿ることができる。モダン彫刻で有名なヘンリー・ムーアが、イギリスの田舎マッチハダムにあるアトリエ兼自宅で、裕福なアメリカ人コレクターを自らもてなし、平原に散らばる彫刻を見ながら、《私たちに“買わせてくれ“》るという素敵な体験をプレゼントした、というエピソードは面白い。《ロンドンやニューヨークの利口な画商たちは、ハートフォードシャー州に住むこの愛想の良いヨークシャー人、ムーアにセールスの特訓を受けるべきだったろう》と、スコットランド人らしい皮肉屋の著者は述べている。

アーティストはお金に全く興味がないと思っている人たちもまだいるのかもしれないが、アーティストたちは驚くほどマーケットによって支配されている。アーティストとしての自分を表現するというよりも、彼らはマーケットが必要としている作品をつくっており、それに対して金銭が支払われるのを拒否するには、大変な勇気が必要なのだ。

ロダンからピカソ、デ・クーニングやリキテンシュタインまで、成功した作家たちは稼ぐことを楽しんだし、マーケットを強く意識していたが、彼らのビジネスセンスが公になることはなかった。ところが今はそうでもない。作品を制作し、自らのマーケットを維持、拡大していく手腕が語られることは実際よくあることで、多くのファンにはそれが魅力的に映る。

現代では、アートは完全に商品化され、アーティストはビジネスマンとして資質を問われるようになってきている。これは、村上隆の『芸術起業論』で語られていることと通ずるものだ。著者のフィンドレーは、こういう風潮にも、アーティスト村上隆についても、かなり批判的である。

村上隆の《マイ・ロンサム・カウボーイ》のオークション・カタログに記載された「村上は次なるアンディ・ウォーホールだ」という「宣伝=Billing」は、《アート界からの「宣伝」》であり、《村上の名前を、揺るぎないウォーホールのブランドに結び付けるのは、ウォーホールの名前を笠に着ることである》としている。また、マニュファクチュア化するアートの現場を嘆き、ここでも《彼の取扱いディーラーによると、これまで「村上はアシスタントチームを使い、コンピューターグラフィックを用いて制作しており、主観性の要素はない」とのことだ》と述べており、ここにでは日本人訳者(フィンドレーとクリスティーズで共に仕事をしたこともあるバンタ千枝と長澤まみ)が、わざわざ訳注で[もっとも、村上はこれまでも一貫して自らの手で制作していいる。また、コンピューターグラフィックは制作工程の一部で使用されるが、すべての行程には村上の監修が入っている」と擁護しているのが面白い。

『芸術起業論』の記事で述べたように、私は村上隆のアート作品はあまり好きではないが、彼のアートビジネスについての考え方はとても興味深いと思う。少なくとも、日本においては、アートや芸術は、もっとマネーとかパトロンとかの関係を踏まえて研究されるべき余地が多く残っていると思うからだ。芸術家が自己の魂からの純粋な求めに応じてのみ表現する、などというのは、殆どの場合、幻想である。芸術家は、パトロンや社会的な要請に応じて、それと自分の表現したいものと表現できるものの接点を模索して創造するのだと思う。人によって、それを意識的に行うか、かなり無意識に行うかの違いはあるかもしれないが、印象派以降のアーティストに人々が抱きたがるような「純粋芸術家」という姿は、眉唾物だと私自身は思っている。そして、芸術にマネーや社会との関係を超えた価値があるとすれば(あるに決まっているのだが)、マネーや社会との関係を客観的に判断してからこそ、純粋にその価値が吟味できるのではないだろうか。

筆者は、シティ・バンクのアート・アドバイザリー主任やロサンゼルス現代美術館の館長を務めるなど、アート業界で華々しい活躍をしたジェフリー・ダイチが、現代の《アート界の金銭至上主義》について語った言葉を引用する。

1970年代にこの世界に入った時は・・・まだ旧式だった。コレクターは精神科医か弁護士、つまりはインテリであり、社交界や経済界のエリートではなかった・・・かつてのアートかいはこミュにティだったが、今は・・・マーケットというだけではなく、映画界やファッションかいのようなビジュアル文化の産業であり、その両者を混ぜ合わせたものでもある・・・我々は文化に根差す経済構造の中で生活し、アートの価値は、不動産のような有形資産と連動している。

アートが投資商品として、あるいはプロダクトして扱われる現代の風潮を、アートの純粋な愛好者は嘆くだろう。それはよく分かるのだが、これだけ<金塗れ>なアート界から純粋なアートの価値と喜びを見出すには、その金との関係から目を背けていては難しいのではないか。

本書の結論としては、著者は、アートを商業的或いは社会的価値から離れて純粋に、静かにじっくり見る、ということの重要性を説いている。アートの本質的価値というのは、極めて感覚的で抽象的で個人的なものに還元されてしまう。

アートの商業的価値と社会的価値は、私たちの生活の中に強制している。結局、人は物の価格について話すことが好きであり、高額な美術品を所有していれば、人は興味を持たずにはいられない。一方で、アートの本質的価値は個人で楽しむことが理想的だ。アートの本質的価値を理解するには、商業的価値(作品が金銭的価値でいくらになるのか)や社会的評価(レオナルド・ダ・ヴィンチやマーク・ロスコなど作家の名声)を忘れて、静かに集中し、ただ作品を見ることであろう。

この結論は、正しいかもしれないが、しかしまあ、ここに読み物としての面白さはあまりない。やっぱり面白さは「金塗れ」の方にある。だからこそ、著者も本書の大半を「金塗れ」のエピソードの描写に費やしているのだろう。

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