書評・小説 『熱い恋』 フランソワズ・サガン


この本は何度も読んでいる。フランソワズ・サガン6作目の長編小説。裕福な中年パトロンに囲われている、《大人になるのを拒否する三十歳の年とった子供たち》リュシールとアントワーヌ。彼らはパトロンに付き添って参加する贅沢なパーティーの一つで出会い、運命的な恋に落ちる。隠れたあいびきで募る思いは抑えきれず、ついにはそれぞれのパトロンの庇護を脱して一緒に暮らすようになるが、現実の壁の前にあっけなく破れ去り、二人の恋は終わる。リュシールは、彼女を変わらず愛し続ける50歳の孤独で裕福な男性シャルルの元に戻っていく。

最近ではサガンはめっきり人気が無いようで、この本も既に絶版になっているが、Amazonのレビューを見てみると、結構熱狂的なファンが多い。私もその一人だが、とりとめもなく流れるようで美しい文章と内省、パリの都会とブルジョワたちの瀟洒な雰囲気、サガンらしい魅力の詰まった一冊なのである。

サガンの小説は読む年代で少しずつ印象が違ってくる。この本も、まず若い頃読んで気に入ったのは、パリのブルジョワ達の享楽的で贅沢な雰囲気、そしてそれを卑屈になることもなく享受できるリシュールの自由さと魅力だった。セーヌ左岸に面したシャルルの気持ちの良い暖かなアパルトマン、彼が無造作に買い与えてくれるブルーのオープン・カーや、邸宅での晩餐会、劇場からマルヌ河のレストランに繰り出す夜、大臣の館で催される音楽会、夏にはイタリアへ、或いは南仏のサン・トロペへ、冬にはスキー地メジェーヴへ、或いは春のニューヨークへ、初夏のコート・ダジュールへ。

《何だか知らない。熱中というか進んでゆく人という感じが・・・もちろん、あなたがどこにも行きたがらないってことはよく承知しています・・・。一種の貪欲さ・・・あなたが何も所有したがらないこともよく承知しています。あなたはたまにしか笑いませんが、永遠の一種の陽気さがある。人間はいつもやるべきことであふれた人生をもっているような様子をしていますが、あなたは人生からあふれ出ている様子をしている。

その延長で捉えると、シャルルはリュシールの良き庇護者であり、アントワーヌは恋の代償に彼女を縛り付ける束縛者である。アントワーヌの情熱と若さは、もっと若い身からすると、鬱陶しく身勝手にさえ映る。

やがて、自分がリュシールの年齢を過ぎてくると、今度は、リュシールの身勝手さが、際立って感じられるようになってきた。アントワーヌが探してきた仕事も放棄し、何もしないで自己の安逸さの中に閉じこもっているだけのリュシール。贅沢に興味はないけれど、贅沢に慣れ切ってしまったリュシール。私自身が、中々子供に恵まれない時期が続いたこともあり、アントワーヌの子を孕ったもののあっさりと中絶を決意し、しかもその資金と手配をシャルルに頼る、という選択をするのは、とりわけ無責任で自己中心的に感じられた。

《あたしってどんなことでも何一つわかったためしがないのよ》リュシールは答えた。《あたしが両親のもとを離れるまで人生は合理的に見えていたわ。あたしパリで学士号をとろうと思っていたの。夢みていたの。それ以来、あたしはどんなときにも両親を求めるの、自分の恋人にも、友達にも。あたしは自分で何ももたなくても平気なの。これっぽちの計画でも心配ごとでも、自分のものはいらない。あたし、人生が楽しいの、いやーね、なぜだか知らないけれど、目をさましたとたんにあたしのなかの何かが人生とうまく合ってしまうのよ。あたし、もう変えられっこないわ。だってあたしに何ができるでしょう?仕事すること?才能がないの。もしかしたら、あたし、あなたのように愛することが必要なのかもしれないわね。

そして今、アントワーヌやリュシールの年齢をはるかに過ぎて、むしろシャルルの年齢に近づきつつある時に、読み返して印象的なのは、シャルルやアントワーヌら男達の身勝手さ、女に対して無いものねだりをし続けるその傲慢とも哀れとも思える欲望のあり方の方だった。

アントワーヌとの恋を選び、自分の元を去ろうとするリュシールにシャルルが言う台詞。

《それに、アントワーヌはあなたを非難するでしょう。もうすでにあなたという人を、享楽主義で、のんきで、どちらかというと卑怯なあなたを非難していますよ。アントワーヌは、彼のいわゆるあなたの弱点だとか欠点だとかを当然恨むようになるでしょう。まだあの男には女の強さとなっているものがわかっていないのですよ、男が女を愛する理由はそれなんですが。たとえそれが最悪のものを包み隠しているとしても。アントワーヌはそれをあなたから学ぶでしょう。あなたが陽気で、おもしろく、優しいということを学ぶでしょう。なぜならあなたはこれらの欠点をすべてもっているからです。だがもうすでに遅いでしょう。すくなくともわたしはそう思う。そしてあなたはわたしのところに帰ってきますよ。なぜなら、わたしがそういうあなたの欠点を皆知っているということをあなたは知っていますからね》

これはとても的を得ている発言で、結局、リュシールとアントワーヌはシャルルが予言した通りの道を辿る。しかし、これは良く考えてみれば、至極当然の内容でもある。どんな恋人たちも、ある意味でこういう試練を辿るのだ。相手の強さと弱さ、美しさと欠点は表裏一体で、その人の中の一番愛すべきと思っているものが、最悪のものを包み隠している、ということ。

今、シャルルのこのセリフを読んで私が感じるのは、それでは、シャルルの欠点や弱点は、弱さはどうなるのか?ということだ。なるほど、確かにシャルルはリュシールのよき理解者であり、彼女の弱さと欠点を知り尽くした上で彼女を愛するだろうが、その逆はありえない。シャルルは一方的なリュシールの庇護者であろうとしていて、リュシールもそれを求めていて、だから、それは当たり前だが、イーブンな恋愛関係ではない。結局、リュシールは自分が言うように、シャルルに親の代わりをして欲しいのであり、シャルルもそれが分かっていて、役割を引き受ける。シャルルはリュシールの父親になるが、それは、リュシールの成長も変化も望まない親である。この愛は一体誰のための愛なのか。

アントワーヌの愛もまた、身勝手さを露呈している。シャルルの手を借り、ジュネーブの施設で子供を堕ろすというリュシールと口論になるアントワーヌ。

自分に嘘をつくこともなかった。子供はそんなにほしくはなかったのだ。彼は、孤独で、とらえがたい自由なリュシールのみを欲していた。彼の恋はつねに不安や、無頓着さや、官能が土台になっていた。彼は深い愛情の衝動に駆られて、この半分女で半分子供の、一種の不具者の無責任な恋人を両腕に抱いて耳もとでささやいた。

《明日の朝、ジュネーヴ行の飛行機の切符を買ってくるよ》

シャルルもアントワーヌも、《大人になるのを拒否する三十歳の子供》《半分女で半分子供の》《一種の不具者の》リュシールを愛していた。その男たちの間を揺れ動き、最後にアントワーヌの元を去って、シャルルの元に向かうリュシールの心の呟きが、とても胸に迫ってくる。

リュシールは家にむかって、シャルルにむかって、孤独にむかって、歩きながら帰っていった。彼女は自分が存在という言葉に値するあらゆる存在から永久に追放されたことを知っていた。だが自分はそれを盗まなかったのだ、と彼女は思った。

存在を盗まなかったことは、リュシールの残りの人生にどう響いていくのかだろうか。もっともっと歳をとって、また再びこの本を読み返した時、自分に問うてみたい。

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