書評・経済書 『善と悪の経済学』 トーマス・セドラチェク ①


ギルガメシュ叙事詩から始まり、旧約聖書、ギリシア哲学、キリスト教からデカルトに至る近代哲学の変遷に触れたこの本の文類を経済書、とするのには少し抵抗がある。しかし、まさにそういう内容を「経済の問題」として扱うことに意味がある、というのが本書のメインの主張なのである。

トーマス・セドラチェクは、チェコ共和国の経済学者で、プラハ・カレル大学在学中位、初代チェコ大統領はヴェルの経済アドバイザーに抜擢された。チェコ共和国国家経済会議のメンバーを務めたこともあり、本書執筆当時はチェコ最大の商業銀行CSOBのマクロ経済担当のチーフストラテジストだった。本書はチェコでベストセラーとなり、15ヶ国語に翻訳され、ドイツのフランクフルト・ブックフェアでは、ベスト経済書賞にも選ばれた。日本では、NHKが「欲望の資本主義」というドキュメンタリーで、著者を「チェコの異才」として取り上げていた。

経済学は哲学や倫理学と共に語られるべきである。という、今では突飛にも思える発想は、歴史的に見れば、むしろ当たり前のことだった。文学少女から控えめに経済書を読み始めた私は、ミヒャエル・エンデの『お金とは何か』を読んだ頃はまだ自信を持てなかったけれど、例えば根井雅弘著『経済学の歴史』を読む頃には、それを確信した。百科全書派として時代の思想を反映した最初のエコノミストであるフランソワ・ケネー、道徳哲学の専門家でもあったアダム・スミス、哲学者であったジョン・ステュアート・ミルの『経済学原理』やカール・マルクスの『資本論』の影響の大きさを考えれば、現代の数学や統計学を駆使した「純粋な」経済学とは、いかに歴史が浅くかつ偏ったイメージであったかに気づく。

経済学の歴史を学ぶ理由の一つは、私見によれば、現代経済学の背後に隠されている古の哲学や思想の痕跡を再発見し、現代理論を盲信する危険性を防ぐことにあると思われる。すなわち、現代経済学は、高度な数学や統計学を駆使し、容易に素人が近づけないような学問になってしまったが、それを支えている根本的な哲学や思想は決して新しいわけではない。

根井雅弘『経済学の歴史』プロローグより

セドラチェクは本書で、これと同じことを、ものすごいスケールでやっている。なんと、始まりは旧約聖書よりも前、ギルガメシュ叙事詩である。そこから始まり、まず、古代からの神話や哲学の中に、経済と経済に関わる思考回路がどのように扱われてきたかを説明する。例えば、ギルガメシュの冒険とエンキドゥの獣性に象徴されるアニマル・スピリット、旧約聖書における進歩史観や労働讃美、エピクロス派とストア派の論争に見られる欲望の捉え方、キリスト教における労働、必要悪、債務免除などなど。

詳細は長くなるので割愛する。とにかく、こういう神話や哲学に埋め込まれた倫理観が、いかに現代の我々の思考のフレームワークに影響しているか、それは経済学についても同じである、というのがセドラチェクの言いたいことである。だから、経済学だけが、社会科学の中で最も純粋な科学であり、哲学や倫理観と切り離して論じるべき(或いは論じることができる)というのは、大きな誤りだ、ということ。

そして、経済学と倫理や哲学との関係を考える上で象徴的な例として、近代経済学の父アダム・スミスを取り上げている。「見えざる手」で有名なアダム・スミスだが、先述の『経済学の歴史』でも、著者の根井氏は《アダム・スミスほど多くの人々に知られている経済学者は稀だが、しかし、残念ながら、彼ほど誤解されてきた経済学者も少ないのではないだろうか》と述べている。

神の「見えざる手」が市場の「見えざる手」に置き換えられ、今では、アダム・スミスは経済学の市場絶対主義、自由放任主義の父、のように捉えられている。しかし、実際には、アダム・スミスは膨大な著書の中で、この「見えざる手」という言葉を3回しか用いていない、とセドラチェクは言う。『天文学』で一回、そして彼の主著である『国富論』と『道徳感情論』で一回ずつ、の計3回である。そして、『国富論』は、400ページに及ぶもう一つの主著『道徳感情論』と対を成して書かれたものだった。社会哲学者のディヴィット・ラファエルによれば、《スミス自身は『道徳感情論』のほうが『国富論』よりすぐれていると考えていたと言われている》。『道徳感情論』では、快楽優先のエピクロス派や社会が利己心だけで動いているといった考えをはっきりと否定し、人間相互の慈愛や抑制を尊重する姿勢を貫いている。スミスは、愛に基づく親切や慈善の動機が社会を支えられるほど強いと認めない現実主義者であったが、その代わりとして、理性的な中立な観察者という概念を提唱した。また、社会を結びつけるのは利己心ではなく共感である、とも考えていた。これは個人の利己心を優先すればあとは自動的に市場が調整してくれるので、経済に倫理は不要である、という現代の「見えざる手」的経済学のイメージとは、殆ど正反対である。

現代の自由放任主義的な「見えざる手」の考え方は、アダム・スミスではなく、むしろ、彼より少し前のイギリスの思想家バーナード・マンデヴィルに帰する、と著者は考えている。バーナード・マンデヴィルは、日本ではあまり有名ではないが、イギリスだけでなくヨーロッパの思想に大きな影響を及ぼした人物である。私は、彼について赤木昭三・富美子共著『サロンの思想史 デカルトから啓蒙思想へ』を読んだ時に初めて知った。ヴォルテールの愛人なり彼を庇護したデュ・シャトレ夫人は、自身も数ヶ国語を操る才女であり、数多くの著作や翻訳を残したが、その彼女の功績の一つとして挙げられていたのが、マンデヴィル『蜂の寓話』の仏語訳だったのである。蜂の社会を韻文形式で綴りながら、当時の社会の偽善を風刺したこの作品は、イギリスだけでなく、ヨーロッパ中を巻き込んでの大論争を巻き起こした。

アダム・スミスは、『道徳感情論』において、マンデヴィルの学説を《危険な傾向を持つ学説》として名指しで批判している。しかし、現在ではスミスはマンデヴィルの後継者とみなされているのである。問題はマンデヴィルとスミスの学説のどちらかが正しいか、ということではなく、このような誤解が生じるに至った背景である。

二人の偉大な経済学者、ハイエクとシュンペーターは、マンデヴィルとスミスいずれについても経済思想の独創性を否定する一方で、心理学、倫理学、哲学に関しては両者を重要な思想家を評価している。それなのに、経済学の基礎を築いたのはスミスだという味方がなぜ定着したのだろうか。これは要するに、実際には心理学、倫理学、哲学が経済学の核の部分に存在するからではあるまいか。

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