書評・経済書 『善と悪の経済学』 トーマス・セドラチェク ②


本書において、 セドラチェクは、経済学は本来哲学や倫理と切り離せないものであるにも関わらず、その視点を全く忘れた現代の主流派経済学を厳しく批判している。経済学は、数学や統計学を駆使したモデル化・理論化に傾倒し過ぎている、と言うのだ。しかし、現実社会と理論やモデルとの間には当然大きなギャップがあるし、そのギャップを埋めようと汎用的な理論化やモデル化を進め過ぎると、思わぬ落とし穴に陥ることになる。

セドラチェクは、その一例として、現代の経済学の基本的概念である《効用の最大化》を取り上げる。人間の多様な行動にこの考え方を採用したのは、ゲーリー・ベッカーが最初だった。理論経済学では、人間のすべての行動は《効用の最大化》で説明できるとし、効用最大化モデルを作ったり、その公式を求めることに時間を費やしてきた。しかし、実際に《効用とは何なのか》という定義を突き詰めて考えていくと、的確な定義を行うことは難しい。なぜなら、効用にはあらゆる活動(一般的には経済活動とは程遠いと考えられるようなものまで)を補足する必要があるからだ。そして、完璧な効用の定義をしようとするならば、「効用は効用を増やす活動を通じて得られる」というようなトートロジー(同語反復)に陥ってしまう。

トートロジーというのは、常に正しい。なぜなら「A=A」と言っているだけだからである。正しいが、それ自体に意味はない。しかし、難しい専門用語や前提や数式やデータが挟まると、単なる「A=A」という文章がそうでないように見えることがある。トートロジーの問題は、経済学に限らず、あらゆる社会科学にとって、実は非常に厄介なのである。

誤りから学ぶことはできても、トートロジーからはほとんど何も学べない。論理的思考の訓練としてはいいかもしれないが。トートロジーは定義からして誤りをいっさい含まないが、だからといってつねに有効だとか真理だということにはならない。トートロジーは意味不明ではないが、意味がなく内容もない。(略)

ここで私たちは重大なパラドクスに立ち至る。ホモ・エコノミクス・モデルにはあらゆる可能性が含まれており、したがってすべてを説明できるという経済学者の矜持は、じつに笑止千万なのだ。意味のない言葉や原理ですべてを説明できるなら、いったい自分は何を説明しているのか、疑問に思わなければならない。

トートロジー的理論は、例えば、進化論のような科学理論にもあてはめて考えることができる。

自然淘汰理論の問題点は、効用のそれと似ている。どちらも、人間の行動や社会・自然の進化をこれだけで説明できると主張している点だ。社会的な淘汰であれ生物学的な淘汰であれ、何が起きたらこの理論が成り立たないか、事前に言えるのだろうか。別の言い方をすれば、市場あるいは自然が適者を選別しなかったらどうなるのか。これは、いくらかトートロジーである。なぜなら、現に生き残っているものはつねに最適者だからだ。そもそも、実際に最も適したのは誰なのか、それを言うことは可能なのだろうか。なるほど、たしかに生き残っている者が最適者にはちがいない。しかしそれは事後に、つまり後知恵でしか言うことができない。したがって、この有名な理論をちょいと書き換えるなら、こう言っているだけのことになるー現在生き残っているのは、生き残る能力にすぐれた者である(「適応する」の代わりに「生き残る」を使った)。つまり、生き残っているのは生き残った者である。となれば、生き残っている者は誰でも、自分は最も適応したと主張できる。よって、この「理論」に同意せざるを得ない、なぜなら反対することはできないからだ。つまり社会ダーウィン主義は自明の理である。

もちろん、セドラチェクはモデル化や数学が経済学に全く無意味だと言っているのではない。できうる限りの客観性や普遍性を維持するために、それは是非とも必要なものだ。ただ、複雑な現実社会を反映し、また人々の倫理や哲学とも切り離せない経済学にとっては、あくまでそれは一つの補助的な方法に過ぎない、それだけで全てを説明するような方法論は避けるべきである、ということなのだ。理論経済学への批判については、マクロスキーからの引用のこの箇所が、最も的確にそのことを説明していると思う。

ディアドラ・マクロスキーは著書『経済学の密かな罪』の中で、現代の理論経済学の大部分は、仮説を使った知的ゲーム以外の何物でもないと断言している。「経済理論の典型的な表現は、『情報が対称であれば、この等式は成り立つ』とか、『かくかくしかじかの意味においての人々の期待が合理的であるなら、経済の均衡状態が成立し、政府の政策は無用になる』といったものばかりだ。・・・今度はちがう前提を想像してみよう・・・前提を変えると結論は変わり始める。このことに深い意味はないし、驚くにも当たらない。前提を変えたら結論が変わったというだけのことだ・・・私は純粋な数学にも感心するし、モーツァルトの協奏曲にも感動する。この点に何も問題はない。ところが経済学は、ただ考えるのではなくて、世界を解き明かすことになっている。」

偉大な経済学者は、高度な数学やモデル化を駆使しながらも、実際の経済はその通りに動かないことをよく分かっている。最初に経済学に高度な数学を取り入れた数学の天才アルフレッド・マーシャルも、《研究が終わったら数学(足場)を燃やすと発言している》。

主流派経済学が数学に傾斜していった時代の最初期にいたマーシャルの言葉を引用しておこう。

後年、私はますますルールに関心を持つようになった。(一)数学は探求の原動力としてではなく、簡略な言語として使う。(二)探求が終わるまでは数学から離れない 。(三)数式を英語に翻訳する。(四)現実の世界で重要な意味のある例を使って説明する。(五)数式を燃やす。(六)(四)がうまくいかない場合は、(三)を燃やす。この最後の項目を、私はよくやったものだ・・・英語でもって数式と同じ長さで表現できる場合には、数式を使うことは何としても禁止すべきだと思う。

こうした次第で、二十世紀初めに経済学のバイブルとなった大著『経済学原理』では、「マーシャルは数式で表した系を巻末の付録に格下げした。弟子のケインズによれば・・・現実世界の問題に数学だけで答が出せるという印象を与えないようにと、そうしたのだという」。だがマーシャルから100年後には、まさに恐れていたことが起きた。

「近代経済学の祖」と言われるアダム・スミス、そして「数学的経済学の祖」ともみなせるアルフレッド・マーシャル、どちらも、いつしか根本にあったもう一つの思想・哲学が忘れ去られ、部分的な理論が一人歩きして後世に伝えられていった点は、非常によく似ている、と言える。

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