書評・小説 『アフターダーク』 村上春樹


『騎士団長殺し』で釈然としない読後感を抱えてからというもの、また再び村上春樹をぽつぽつと読み直している。この『アフターダーク』は、村上春樹の長編の中ではかなり短めなものだが、昔読んだ時になんとなく「おや、いつもの村上春樹と何かが違う」という印象を持ったことだけ覚えていた。村上春樹の中では特別面白いわけでも好きなわけでもないのだが、どこかひっかかる作品、という感じ。

ストーリー自体はかなりシンプルで、深夜の東京を舞台に、二人の若い姉妹とその友人男性の一夜が淡々と描かれる。彼らのすぐ横には、東京のダークサイドの深淵が音もなく広がっている。

まず何より、村上春樹ファンが楽しみにしている、音楽や映画や食についてのディティールは殆どない(デューク・エリントンの「ソフィスティケイティッド・レイディー」とバート・バカラックの「エープリル・フール」とゴダールの映画「アルファヴィル」くらいか)奇妙な羊男や「小さなおじさん」も登場しないし、やたらと生々しいセックス描写もない。そういう村上春樹の長編小説で読者が楽しみにしているような「仕掛け」が殆どない一方で、見かけはエレガントで非情な「絶対悪」の男性が出てきたり、心を病む美少女がいたり、テレビの向こう側という「彼岸」的な世界が出てきたり、ちょっと不思議な魅力を持つ少女が「彼岸」的世界との触媒になる、といった、長編小説のエッセンスがわかりやすく凝縮されているようなところもある。

村上春樹の長編小説は、そのファンタジー性や持ってまわったような会話も含めて「よくわからない」ところが魅力の一つなわけだが、この小説は、妙に直接的な言葉で書かれているところも他の作品と違う。例えば、凶悪事件の裁判を傍聴し、凶悪犯人の陳述を聞いているうちに、その「彼岸」的ダークサイドとの境目が分からなくなってきた、と告白する青年高橋のセリフ。

つまりさ、なんかこんな風に思うようになってきたんだ。二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのぺらぺらの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。そういう気持ちがしてきたんだ。言葉で説明するのはむずかしいんだけどね

或いは、身を隠すためにラブホテルの従業員をしながら各地を転々としている女性コオロギの「記憶」についての言葉。

それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。(略)大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」(略)

「それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしていたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ」

こういった実は自分たちのすぐそばや地面の下にある「向こう側」という世界観、或いは「記憶」をめぐる解釈は、『ダンス・ダンス・ダンス』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の長い長い物語の中で表現されてきたそれを、非常にわかりやすく直裁的な言葉で表したようだ。こんなに具体的かつ分析的な言葉で語られてしまうと、村上春樹作品としてはちょっと拍子抜けなんだけどなあ、とか思ってしまうくらいに。

で、この作品を読んだすぐ後に、たまたま村上春樹のエッセイ『職業としての小説家』を読んで、この「なんか違う」感の謎が解けた。この本の中で、村上春樹は、長い間小説を「ぼく」という一人称で書いてきたが、『ねじまき鳥クロニクル』で、その限界を感じ、『海辺のカフカ』やこの『アフターダーク』を通じて、意図的かつ段階的に三人称への切り替えを行った、と述べているのだ。

その次の『海辺のカフカ』では半分だけを三人称の語りに切り替えています。(略)折衷的と言えばそのとおりなんですが、たとえ半分であるにせよ三人称というヴォイスを導入することによって、小説世界の幅を広げることができたーと僕は思っています。(略)

そのあとに書いた短編小説集『東京奇譚集』、中編小説『アフターダーク』はどちらも、基本的には三人称小説になっています。僕はそこで、つまり短編小説と中編小説というフォーマットで、自分に三人称がしっかり使えることを確かめているみたいです。

村上春樹『職業としての小説家』 

なるほどなるほど。時系列に読んでいけばすぐ気付いたんだろうけど、思いつきの出鱈目な順番で読んでいたから、言われるまで気付かなかった。確かに、この『アフターダーク』では、終始一貫して三人称で物語が語られている。どこか飄々とした青年高橋が、今までの村上春樹小説における主人公「ぼく」に近いイメージなのだが、彼は最後まで脇役に徹している。物語の途中で、何度か「私たち」も視点を確認するような文章が出てくるのも、著者が「自分に三人称がしっかり使えることを確かめている」からなのだろう。

言わば、この小説は著者にとっても一つの実験的サンプルだったのだろうが、実験だけに、妙にストーリーや文章に純粋培養されたようなところがあって、村上春樹の他の作品を読む手がかりとしては、中々面白い作品である。ま、村上春樹の小説は、こんな風に分析せずに読んでいる方が本当は楽しいような気もするんだが、、、

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