書評・小説 『ノモンハンの夏』 半藤 一利 ②


この本を読んで印象的だったことがもう一つある。それは、辻政信という人物の存在だ。太平洋戦争史に残る凄惨なノモンハン事件や史上最悪の作戦といわれたインパール作戦の実行犯として名指しされながら、戦後、軍事裁判を逃れ、自民党議員として返り咲いた人物である。満洲国演義シリーズでも作者は辻政信についてかなり批判的なトーンを隠さなかった。第九巻『満洲国演義 残夢の骸』の記事で引用した通りである。剣町柳一郎氏著作『八月九日の暗号 幻花』でも、関東軍による捕虜の人体実験と生化学兵器開発を行なっていた特殊部隊の背後に、彼の黒い影が見え隠れしていた。

本書でも、関東軍参謀として攻撃的な姿勢を貫いて事件を拡大させ、当然のように統帥権を干犯し、一個師団を壊滅的な状態に陥らせた後、陸軍から直接第六軍が送られると掌を返したように身を引いて責任逃れをする辻政信について、著者は終始一貫して厳しく何度も言及している。しかし、時に著者が感情を露わにして批判する本文以上に、私が心を衝かれたのは、最後の「あとがき」にある著者の文章だった。

議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」が、背広姿でふわふわとしたソファに座っているのを眼前に見るの想いを抱いたものであった。

大袈裟なことをいうと「ノモンハン事件」をいつの日にかまとめてみようと思ったのは、その日のことである。この凄惨な戦闘をとおして、日本人離れした「悪」が思うように支配した事実をきちんと書き残しておかねばならないと。

「絶対悪」などという言葉は穏やかではない。これを、東京大学文学部卒業後、長らく文藝春秋社の勤めたエリートの半藤一利さんが、しかも実際に会ったことのある人物を形容して言っているのである。

「絶対悪」というテーマについて、私は何度か村上春樹の小説で話題にした。でも、もちろん、彼の小説の中の「絶対悪」は表象的なものだ。初期の『羊をめぐる冒険』こそ、右翼系の大物人物、というやや社会的・政治的色がついた人物が想定されているが、それでもこの個人が「絶対悪」なのではなく、絶対悪はまるでウイルスか何かのように、個体という乗り物を変えていくものとして描かれている。その後の作品になると、「絶対悪」はもっとずっと抽象的なものか、或いは、プライベートなものになる。私も含めて、現代の多くの日本人が「絶対悪」に抱くイメージはこちらに近いと思う。

歴史上の実在の人物、或いは、実際に目に指に触れた人物を、「絶対悪」と断じる感情、というのはいかなるものなのだろう。本書では、ノモンハン事件をめぐる国際情勢を語る上で、ドイツのヒトラーとソ連のスターリンについても、詳しく語っている。著者はもちろん、ヒトラーとスターリンには実際に対面していないであろうが、まるで、辻政信と並ぶ「絶対悪」として、この2人の姿を想定しているように思える。

「絶対悪」は実在しない、と私はとりあえずは信じている。しかし、歴史上には、想像を超えるような巨悪が実在する。その原因を、社会的背景(例:ヒトラーが虐殺を可能にしたのはドイツ一般社会がそれを望んだからである)とか個人的要因(例:ヒトラーの残虐性は彼の生い立ちに起因する)とかに求めることは可能だし、それが現代の人文学の基本的な姿勢だと思う。それでも、知れば知るほど、そんな社会的背景や個人的要因など無意味に思えてくるほどの巨悪というものを、人はどう解釈すれば良いのか?ヒトラーやスターリンや辻政信に起因する数多の非業の死に対して、「日本の一部の民主は戦争を歓迎していた」からとか、「スターリンもプライベートでは愛情や人間らしさを示すこともあった」からとか、そんなことがなんの言い訳になるだろう?

実際に目にした人物から「絶対悪」を感じ、書き残す使命感を得た、という著者のあとがきには、強い決意を感じた。

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