フェリペ2世


スペイン(カスティーリャ王国、アラゴン王国)の国王。在位は1527から1598年。イングランド女王メアリ1世と結婚中は、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世を、また、1580年からはポルトガル王フェリペ1世を兼ねた。神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル女王イサベルの間に生まれ、スペイン帝国黄金期に絶対君主として君臨した。

フェリペ2世に興味を持ったきっかけは、たまたま同時期に読んだ全く毛色の異なる2冊の本に、その名前が取り上げられていたからだった。一つは、ピーター・バーグの『知識の社会史』で、古今東西あらゆる「知」の集積方法について独特の視点で分析した本書では、フェリペ2世は初めて官僚的な情報収集システムを築き上げ、宮殿に籠ってその膨大な書類に日々目を通したため、臣下たちから「書類王(el rey papeloro)」とあだ名されていた、と書かれていた。

一方、美術史を新しい視点で捉え直した野心的な本、若林直樹著『退屈な美術史を止めるための長い長い人類の歴史』の中では、「収集の絶対主義」という章で、自分自身の身体や人間性の欠如を補うかのように、エスコリアル宮殿に籠ってティツィアーノやヒエロニムス=ホッブスなどの美術品を大量にコレクトする、残忍で狂信的な絶対君主の例としてフェリペ2世が挙げられていた。

冷静な情報集と政治判断に務めた官僚的な「慎重王」のイメージと、オランダ独立や異端裁判を指揮した狂信的で偏執的な絶対君主、という相反するようなイメージが、両立しているのがフェリペ2世なのである。もちろん、歴史的人物は往々にして後世の評価が二分されるものであるが、それにしても、特に西欧でこれだけ「狂信的で偏執的な」マイナスイメージが定着している君主も珍しい。実際にはどんな君主であったのか、俄然興味が湧いた。日本語で読める文献の種類は限られているのだが、それらを通じて、フェリペ2世の人物像を以下の4点に分けて考察してみたいと思う。

  1. 4回の結婚と「日の沈まぬ帝国」を築き上げた治世
  2. 「慎重王」「書類王」とあだ名される性格
  3. 狂信的かつ残忍とされた「黒い伝説」の正体
  4. 仇敵エリザベス女王との関係とアルマダ海戦
目次

4回の結婚と「日の沈まぬ帝国」を築き上げた治世

フェリペ2世の治世と人間を紐解く鍵の一つは、その出生にある。フェリペ2世は、神聖ローマ帝国皇帝カール5世とポルトガル王女イサベルの間に生まれた。父親のカール5世は、狂女フアナと呼ばれた母方から引き継いだカスティーリャ、アラゴン、ナポリはもちろん、フェリペ美公と呼ばれたハプスブルク家の父方から引き継いだネーデルラントと神聖ローマ帝国を統治し、生涯を通じてヨーロッパ中を住処とした、偉大なる皇帝である。一方、母親のイサベルは、ポルトガル王女と言いながら、母方の祖父母は、レコンキスタを完遂し、コロンブスを援助したことで有名なカトリック両王(イサベル女王とフェルナンド王) であり、スペインとポルトガルの結びつきを代表するような人物であった。

イサベルの母親マリアは、スペイン宮廷の風習をポルトガル宮廷に持ち込み、イサベルは万事スペイン宮廷風の教育を受けて育ったという。ティツィアーノ作による肖像画「イサベル・デ・ポルトガル」は、優雅で品格のある王女の姿を後に伝えている。前述の通り、カール5世は遠征に次ぐ遠征で殆ど宮廷を留守にしており、フェリペ2世は12歳になってこの美しい母が死ぬまで、彼女の庇護の元、スペイン風の教育を受けて育つのである。「偉大な父王の業績とハプスブルク家の血筋を継承し繁栄させたい」という思いと「自分のルーツであるスペイン(及びポルトガルを含むイベリア)を愛し強固なものしたい」という二つの思いが、フェリペ2世の生涯を通じてせめぎ合い、時には葛藤を生みながら、彼の政治的判断や人格に強く影響を及ぼした。

ハプスブルク家の勢力拡大の裏にはその婚姻戦略があった。フェリペ2世の4度に渡る結婚もまた、何よりもハプスブルク家と各国王家の関係を考えての政略結婚である。そういう意味では、男子の世継ぎを求めて外交戦略などものともせず次々と妃を変えていった、イギリスのヘンリー8世とは対照的だ。フェリペ2世の結婚は順番に以下の通り。

  1. マリア・マヌエラ(ポルトガル王女、フェリペ2世の従妹)
  2. メアリー・テューダー(イングランド女王、ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの娘)
  3. イサベル・デ・ヴァロワ(フランス王女、カトリーヌ・ド・メディシスの娘)
  4. アナ・デ・アウストリア(オーストリア王女・フェリペ2世の姪)

一度目の結婚はフェリペ2世が16才の時。カール5世が存命しまだ勢力をふるっていた頃だったから、母国スペインのお膝元にあるポルトガルとの関係を強化し、足元を固める、という意味合いが強かったと考えられる。彼女は結婚から2年後、後にドン・カルロスとして知られることになる王子を産んだ直後、わずか17歳で死去してしまう。しかし、このスペイン=ポルトガルの婚姻関係を強化し、ひいてはイベリア半島を一つにして治めたい、というフェリペ2世の願望は、ずっと後になって、1580年の武力によるポルトガル王位継承まで続いていくのである。

マリア・マヌエラが死去して三年目、父王カールはフェリペをネーデルランドに呼び寄せる。<至福の旅行>と呼ばれる、フェリペ2世生涯一度きりの大旅行である。父王カールは息子フェリペのネーデルランドでの立場を強固なものとし、ゆくゆくは神聖ローマ帝国帝位を継がせたいと目論んでいたが、言葉も通じず陰気なフェリペの人気は低く、カルロスの弟フェルディナンドの介入もあり、うまく行かなかった。結局、三年に及ぶ大旅行の末、得るところ少なくフェリペはスペインに帰国。1556年、カールはスペイン王位とネーデルラント、イタリア支配地の統治権をフェリペに譲り、神聖ローマ帝国位は弟フェルディナントに譲って、隠棲のためスペインに戻った。ネーデルラントこそ、偉大な父王からスペイン王位は引き継ぎながらも、神聖ローマ帝国王位は引き継ぐことがかなわなかったフェリペ2世が、母国スペインに次いで死守せねばならない領土であった。しかし、フェリペ2世はネーデルラントの土地に馴染めず、自身はあくまでスペインに座したまま、この地を治めようとした。

スペイン王位を引き継ぐ一方で、フェリペ2世は新しくイングランド国王となったメアリ1世と二度目の結婚をする。メアリ1世の母親はフェリペからすれば大叔母に当たるキャサリン・オブ・アラゴンであり、メアリ1世は親スペイン・カトリック擁護派であった為、イングランドとスペインの関係を強固なものとし、フランスやネーデルラント反乱軍を牽制するための政略結婚であった。イングランド議会の反対により、フェリペ自身の王位継承権は無かったが、生まれた子どもはイングランドとネーデルラントを引き継ぐことが取り決められた。しかし、メアリ1世はフェリペより11歳も年上で、1558年11月に病死してしまい、結局世継ぎを産むことは叶わなかった。フェリペ2世はなおもイングランド王位を諦めず、メアリ1世の後王位を継いだエリザベス女王にも結婚を持ちかけるが、エリザベス女王は断固拒否。後にはプロテスタント派擁護を鮮明にし、イングランドの離反は決定的なものとなっていく。

メアリ1世との結婚で成果を得ることもなくイングランドからスペインに帰ってきたフェリペは、内政に専念する。異端審問所を強化し、宮殿と修道院、図書館、王室霊廟などを併設した「エル・エスコリアル」宮殿を建設、カスティーリャの地方都市マドリードに帝都を移した。一方、カトー・カンブレジ条約によりイタリア戦争が一応の決着を見たフランスとの関係改善を図るため、三度目の妃として、アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの長女イザベル・デ・ヴァロワを迎える。

三番目の后イサベルは、「イサベル・デ・ラ・パス」(平和王妃)と呼ばれ、長いフランスとの戦いの終結を象徴する王妃として歓迎され、イサベルとカタリーナという二人の王女をもうけた。しかし、スペイン宮廷の平和は長く続かなかった。一番目の妻マリア・マヌエラとの間に残された唯一の王子ドン・カルロスが、ネーデルラントの統治権を求め、父親のフェリペ2世への叛逆を企んだ過度で、監禁される、という事件が起こったのである。ドン・カルロスは出生時から異常に頭が大きく、子供の頃から性格の奇矯さや問題行動が指摘されていたことが記録に残っている。フェリペ2世は、一人息子のドン・カルロスに王位を継がせるべく期待をかけ、イサベル・デ・ヴァロワも当初はドン・カルロスの妃として考えていたが、異常な息子に通常の結婚生活は難しいと判断し、自身の3番目の妃として迎えることにしたと言う。ドン・カルロスは幽閉後まもなく、暴飲暴食と拒食を繰り返して衰弱し、死亡した。また、ドン・カルロスが死亡してほどなく、産後の肥立ちが悪かった王妃イサベルも病死した。イサベラが元々ドン・カルロスの妃候補出会ったこと、フェリペが実の息子を監禁し、結果まもなく死亡したこと、奇しくもドン・カルロスに同情的であったイサベラが同時期に死亡したことなどから、ドン・カルロスとイサベラは恋仲にあり、それに嫉妬したフェリペが二人を暗殺した、という噂が、ネーデルラント反乱軍を中心に流布した。詳しくは、⒊の「黒い伝説」部分で述べる。

一人息子ドン・カルロスとイサベラを同時に失ったフェリペにとって、後継者問題は喫緊の課題であった。イサベルの死からわずか2年後、4番目の妃を迎える。選んだのは、多産系であるハプスブルク家の王女で、フェリペにとっては実の姪にあたる若いアナ・デ・アウストリアであった。ここへきて、外交戦略よりも、安定した世継ぎを誕生させることを優先したフェリペの冷静な判断が窺える。フェリペの狙い通り、若いアナとの間には5人の子供に恵まれたが、子供の死亡率が高かった時代、生き延びたのはやがて王位を継四男のフェリペだけであった。

アナとの結婚翌年には、レパントの海戦でオスマン帝国に勝利し、トルコ勢力の地中海制圧を食い止めた。四男のフェリペが誕生した1578年には、ポルトガルの国王セバスティアンが戦死し、それに乗じてアルバ公がリスボンを武力で制圧、1580年にはポルトガル国王として即位した。

オスマントルコに勝利し、ポルトガルを併合し、「日の沈まぬ国」は黄金期を迎えたかに見えた。しかし、足元では度重なる戦争で財政は破綻、既に父王カール退位直後に第一回の国庫支払い停止宣言をしていたが、1575年には第二回の支払い停止宣言を出すことになった。王室財政の負担は、もっぱら貿易で潤うカスティーリャ王国に集中し、度重なる増税は民衆の不満を高めた。また、即位当初からフェリペを悩ませてきたネーデルラントは、アルバ公の強硬策が仇となり、独立戦争に発展、1579年にユトレヒト同盟が結成され、事実上北部7州の独立が決定的となる。オランダ独立の翌年1588年には、オランダを支援してきたイギリスに対し、130隻の大艦隊を派遣して攻撃を試みるも失敗。歴史に残る無敵艦隊アルマダの敗北だった。

フェリペは既に50歳の時から、父王も苦しんだ痛風に悩まされていたが、無敵艦隊の敗北後は、その病状が著しく悪化。国内でも、度重なる増税と厳しい宗教弾圧に、国王への不満が高まり、各地で預言者による騒擾や反乱騒ぎが起きた。立ち上がれないほど体調が悪化したフェリペは、重要な判断を一握りの評議会メンバーに委ね、自身はエル・エスコリアル修道院に籠ることが多くなった。とどめを指すように大西洋ペストが蔓延し、財政が立ち行かなくなったスペインは1596年に第3回の国庫支払い停止宣言を発出。しかし、その解決策と帝国の再興の道筋を立てることも無く、翌々年の1598年、フェリペ2世は71年の生涯を閉じた。

⒉「慎重王」「書類王」とあだ名される性格

フェリペ2世の有名なあだ名は2つあって、「慎重王」と「書類王」というものだ。

だが、息子フェリペ2世はもっぱらスペインに留まり、事実上スペイン帝国の首都となったマドリードを中心にして、広大な領地の統治をおこなった。分野別と地域(支配領域)別の顧問会議(コンセーホ)を整備して、手元に届く膨大な報告書に丹念に目を通したことで、「書類王」と呼ばれた。

『世界史リブレット 人52 フェリペ2世』 立石博高 (山川出版社)

「慎重王」とは、父王のカールがヨーロッパ中を戦争しながら行き来したのに比べて、彼は前述した若い頃の「至福の旅行」とイングランドでのメアリ1世との短い結婚生活を終えてからは、母国スペインにひき籠るようにしてその治世を過ごした、という対照的なイメージも大きく影響しているかも知れない。父王カールの豪放さや大胆さが強調され過ぎている部分もあるし、実際に、時代は、ヨーロッパ中を巻き込んだ宗教戦争の波が次第に落ち着き、各国の王家が足場を固めて絶対主義体制を築き上げる局面に変わりつつあった。フェリペによる、マドリードに宮廷を移すと同時に、エル・エスコリアルのような大拠点を作って王自身はそこに鎮座する、というスタイルは、のちのフランスやイングランドに先駆けている、とも言える。

ただ、フェリペ2世が慎重な忍耐強い性格であったことは、間違いがないようだ。彼は決して自身が戦隊を率いて表に立つような性格ではなかったし、そのために、一番大事なネーデルラントをアルバ公などの代理人に任せて平定しようとし、返って事態を悪化させた。また、後述するイングランドやエリザベス女王との関係を見るにしても、すぐに戦を始めるような戦闘的な性格ではなく、長い時間をかけて懐柔したり暗殺計画を練ったりするところに、忍耐強くてある意味ねちっこい性格が透けて見える。

「書類王」という名前の方にも、彼の本来的な性格と、時代が要請した部分の両方が伺える。

古典的な事例はスペインのフェリペ2世である。彼は臣下たちから「書類の王」とあだ名されていたが、そのあだ名は、彼がデスクで過ごす時間の長さと、臣下の生活を知って管理しようとした結果生じた大量の書類とに由来していた。

『知識の社会史』 ピーター・バーグ(新曜社)

引用したピーター・バーグによれば、《支配者自身が、官僚を雇うだけではなく、官僚になりつつあった》《フェリペ二世は国王官僚の唯一の例ではなかった。近代初期における「書類国家」(paper state)とでも呼びうるもののの興隆は、ヨーロッパ一般的な現象であった》。

外交大使らによる情報収集の活用は、ヴェネツィアがその先駆けであり、スペインも踏襲したが、さらに、フェリペ2世の時代には、国土についての統計的な情報の収集が大々的に行われた。特に、1570年代、財務会議長兼インディアス会議議長のフアン・デ・オバンドの采配により行われた「質問表」による調査報告は有名である。

その内容は、村落の地理的情報、裁判管轄上の地位、世帯数や職業構成、際立った出来事など網羅的出会った(略)のちに質問状には修正が加えられ、現存する限り1581年までにカスティーリャ中央部の都市・村落からは721通、インディアスからは208通の「地誌報告」が提出されて、エル・エルコリアル図書館に集められた。

『世界史リブレット 人52 フェリペ2世』 立石博高 (山川出版社)

インディアスまで含む広大な領地を治めるために、官僚的な組織と情報収集システムを構築し、「書類国家」の「書類王」となること自体、ある意味で絶対王政の先駆けとして当然の成り行きであっただろう。

ただし、フェリペ2世自身、本来的に神経質なやかましやの官僚的性格であった可能性も否めない。スペイン文学者である岩根圀和氏による『スペイン無敵艦隊の悲劇 イングランド遠征の果てに』は、第一次史料にあたって無敵艦隊の詳細について述べた良書であるが、これを読むと、微に入り細に入り、事細かく文書で指示をしてくるフェリペ2世の姿が非常に印象的だ。無敵艦隊を率いる総司令官のメディナ・シドニア公が、また、忠実過ぎるほどにフェリペの指示に従い、几帳面に報告をあげている。スペイン無敵艦隊の敗北の主因は、ネーデルラントから合流するはずのパルマ公の裏切りによるものだが、決定的な場面で、判断の遅れや反撃や作戦変更といった緊急策を取れなかったことも被害を拡大した、と言える。

また、先に何度か引用している『世界史リブレット 人52 フェリペ2世』では、フェリペ2世は父カールをダビデに、自らをソロモンに擬えることを好み、新たな国王ソロモンとなることで父を凌駕しようとした。エルエスコリアル宮殿の大図書館は、《王国統治のための知恵と知識の集積地点》として、《シバの女王を驚かせるソロモンに匹敵する「知恵の王」たるイメージ》が象徴されていたと言う。このようなところにも、フェリペ2世の信心深く内向的で書類や書物を好む傾向が見てとれるだろう。

狂信的かつ残忍とされた「黒い伝説」の正体

フェリペ2世にはもう一つ有名なあだ名がある。「南の悪魔」だ。この元となったのが、オランダ独立戦争の立役者として活躍したオラニエ公ウィレムが刊行した『弁明の書』である。実の息子であるドン・カルロスの暗殺はもちろんのこと、同時期に亡くなった三番目の后イザベラの暗殺や実妹フアナとの近親相姦や重婚などの個人攻撃、並びに、ネーデルラント反乱勢力やプロテスタント勢力への容赦ない弾圧、さらには遠征地インディアス(南アメリカ)での先住民の虐殺と搾取、などを挙げ、狂信的かつ残忍な為政者としてフェリペ2世を名指しで糾弾した。いわゆる「黒い伝説」である。

スペイン系フランス人の歴史学者であるジョゼフ・ペレスは、著書『ハプスブルク・スペイン 黒い伝説』において、歴史的にヨーロッパ全体に流布してきたスペインの「黒い伝説」の起源と発展について、一つ一つ例証を挙げて検証している。オラニエ公ウィレムは、オランダ独立戦争での国際的な世論を味方につけるため、フェリペ2世に非難を集中する作戦を取った。

フェリーぺ2世とフランドルの決裂を決定的にした『弁明の書』は史上初の心理戦であり、黒い伝説のいわば出生証明書である。

ジョゼフ・ペレス『ハプスブルク・スペイン 黒い伝説』

フェリペ2世への個人攻撃で最も世間の注目を浴びたのは、実子ドン・カルロスの暗殺、並びに同時期に死亡した三番目の后イザベラの暗殺である。ドン・カルロス王子が元々は自分に嫁ぐはずだったイザベラと恋仲になり、それに嫉妬したフェリペが息子と后の暗殺を命じた、という、のちにシラーによる史劇とヴェルディのオペラ『ドン・カルロス』で有名になるストーリーも、ここに源がある。しかしながら、実際の史料から判明しているのは、ドン・カルロスは出生時から心身に異常があり、暴力行為や王への反逆行為が認められたため、監禁された後、死亡した、ということだけだ。死亡が自然死によるものか、暗殺によるものかは、以前はっきりとしていない。

フェリペ2世の生涯を振り返っても、彼は姉妹や娘たちをしかるべく地位に据えるなど、ハプスブルク家の血族を重視した政策を行っており、嫉妬や疑惑などの一時的な感情で、貴重な嫡子であるドン・カルロスを排除する、ということは考えにくい。彼を監禁したことは、父王としては苦渋の決断であり、相当の理由があったと推察される。また、ドン・カルロスの後を追うようにしてイザベラが亡くなったことが、憶測を読んだようであるが、当時の衛生及び医療技術では産後に女性が亡くなる確率はかなり高かったし、イサベラ亡き後、母親のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスは、フェリペの後妻として新たなフランス王女を推薦していることから、少なくとも当事者たちの間では、彼女の死因に不審な点を見出していなかったことが窺える。もちろん、近親相姦や重婚などについては、何ら史的根拠のない言いがかりである。

一方、フェリペ2世の政策として最も非難されたのは、ネーデルラントのプロテスタント派に対する厳しい弾圧策だった。オランダ独立戦争を率いたオラニエ公ウィレムは、当初は先代のカール5世に仕えていたし、実際には政治的経済的勢力争いの色が強く、必ずしも純粋な宗教戦争ではなかったはずだが、独立側は敢えて宗教色を強調し、フェリペの「狂信的」で「残忍」なイメージを植え付けることで、自らを「殉教者」として鼓舞しようとした。特に、フェリペが地元民に評判の悪いグランヴェル大司教の後に、ネーデルラントの対処を任せたアルバ公の強硬な姿勢は、事態を悪化させた。「流血法廷」の異名で知られるアルバ公が設置した騒乱摘発法廷は、告訴数千件、逮捕者数百人を数え、千二百人以上が死刑判決を受けて処刑された。《確かにアルバ公は血に飢えた野獣さながらの記憶を残した。今日でもスープを嫌がったり、なかなか寝ようとしない子供に怖いアルバ公がくるよと言う脅し文句がある》ほどだ。しかしまた、ネーデルラントの制圧はスペインにとってはまず何よりも政治的問題であり、それがのちに宗教色を帯びてくることで、《最後は宗教戦争と化してヨーロッパでかつてなかった残忍な様相を呈した》のであり、それは他の宗教戦争と同じであったし、《敵方の残虐行為への抗議はユグノーに限られなかった》。

こうして見ると、アルバ公は反乱や異端の罪に問われた者に厳しい態度で臨んだ最初の人物でもなければ、またそれは彼に限ったことでもなかった。にも拘らず、アルバ公だけが標的にされるのは、恐らく歴史を書くのが勝利者であるからだとモルトビーは見る。(略)そして当のアルバ公はと言えば、非難中傷への反論も反乱制圧における自らの責任の釈明も一切することなく、身に負った忌まわしい評判を黙して受け止めた。

ジョゼフ・ペレス 『ハプスブルク・スペイン 黒い伝説』

《身に負った忌まわしい評判を黙して受け止めた》のは、アルバ公だけでなくフェリペ2世もまた、同じであった。考えてみれば、彼らは当時の体制側であり、「鎮圧する側」なのであったから、原因釈明や大義名分が必要でないのは当然である。常に大義名分を必要としていたのは独立側であった。

ジョゼフ・ペレスはアルバ公の所業について述べた後でこう続ける。

彼は自分の使命はまさにフランドルの人心を力で抑えつけることにあり、容赦のない手段で事態を収拾した後は、当然、国王が現地に赴いて国民全体に恩赦を与えるものと思っていた(略)事実、後に1580年のポルトガルでのアルバ公の行動もまったく同じだった。つまり彼が武力で反対派を抑えて合戦を終わらせた後、フェリーぺ2世はポルトガルに赴いて王として受け入れられた。だが、フランドルの場合は、計画の前半分だけがなされただけで、後述の理由からフェリーぺ2世はフランドルに赴くことはなかった。その結果、恩赦も和解もなく、ただアルバ公への憎悪だけが残ったのである。

ジョゼフ・ペレス 『ハプスブルク・スペイン 黒い伝説』

実際には、ネーデルラントの情勢はこの後も悪化の一途を辿り、フェリーぺ2世がポルトガル併合のように「落ち着くのを待って」から国王として赴く機会はついぞ現れなかった。ネーデルラントの情勢を悪化させた一因に、フェリペ2世が「至福の旅行」以来この地にどうしても馴染むことができず、最後まで自ら足を踏み入れることなく、この難しい土地を人任せで制圧しようとしたことが挙げられるかもしれない。ドン・カルロスがドン・フアンと結び反逆の企てをした一因も、フランドル情勢の不安定さにあった。前述したように、ネーデルラントこそ、スペインの次に、フェリペ2世がなんとしても守らればならない土地であった。だからこそ、彼は次々と信頼できる人物を派遣して反対勢力を厳しく取り締まろうとしたのだ。だが、それでもネーデルラントは治らなかった。父王カールであれば、この収まらぬ事態に、自らが軍を率いて独立派と戦ったり交渉したりしたことだろう。しかし、「慎重王」「書類王」には、そのような態度は望むべくもなかった。

さらに、《オラニエ公の『弁明の書』…彼のスペインへの攻撃を締め括るのはアメリカ先住民の虐殺である》。オラニエ公は、ドメニコ会士ラス・カサスが、スペイン人のアメリカ先住民の虐殺を糾弾した有名な書『ブレビシマ』から着想を得ていたという。しかし、現在では、先住民の人口激減の一番の原因は、疫病によるものであり、ラス・カサスの著書には多分に誇張がある、というのが通説だ。もちろん、スペインの侵略がアメリカ先住民達に大きな傷を残し、搾取も苛烈であったことは間違いないが、少なくとも他の欧州列強国が植民地に対してしたことと比べて特別に残虐であった、という言われはない。

ここで参照した『ハプスブルク・スペイン 黒い伝説』において、著者のジョゼフ・ペレスは一貫して、スペインとフェリペ2世の政策については、「同時代の他国の政策と比して特別に残忍でも不寛容でもない」と、擁護する持論を展開している。しかし、唯一、スペイン内の異端裁判所の存在については、他国に例を見ない例であった、と認めている。他の「黒い伝説」と同じく、異端審問所の犠牲者数は誇張されているが、それでも、このような取締機関を制度化かつ組織化したことは異例であった。

確かにスペイン以外の国でも寛容を忘れた声が沸き起こる度に何千人もの犠牲者が出たが、その前後には曲がりなりにも長い平和な時期があった。他方、スペインでは死者の数こそ少ないものの、ここでは不寛容は制度として組織化されて政治の一端を占めた。異端審問所はその仕組みからして恐るべき機関だった。目的を宗教に置きつつも国家の権限の下に置かれた結果、その法廷は聖俗両界に跨り、幾つかの面では近代の全体主義を予感させるところがあった。オラニエ公の時代、たとえそこには悪意があったにせよ、スペインの異端審問所が周囲の怒りを買ったのは無理からぬことだった。

ジョゼフ・ペレス 『ハプスブルク・スペイン 黒い伝説』

「書類王」は、国内において、このような恐ろしい機関を官僚化し組織化してしまったのである。

⒋ 仇敵エリザベス女王との関係とアルマダ海戦

フェリペ2世の「黒い伝説」は、敵側のオランダから生まれたものだが、彼の悪評判の源となったもう一つの国は、イギリスである。特に、元々は義妹にあたるエリザベス女王との関係は複雑で、アルマダ海戦を代表とする武力衝突の他、彼女の暗殺計画も何度かあったとされている。

スペインの狂信的な王フェリペが、プロテスタント派の女王エリザベス女王の廃位とイギリス王位獲得を狙い執拗に攻撃を仕掛けたが、エリザベス女王が見事にアルマダ艦隊を撃破し、帝国スペインは没落しイギリスが覇権を握った、という輝かしいストーリーは、結果的に勝者として残ったイギリス側が作り上げたものである。イギリス・アメリカ合作でアカデミー作品賞を受賞した映画『エリザベス』の続編『エリザベス・ゴールデン・エイジ』でも、その典型的なイメージが踏襲されていた。しかし、事実はそこまで単純ではないようだ。

フェリペ2世がイングランド女王メアリ・ステュアート亡き後、今度は新しく女王となったエリザベスに求婚したことはよく知られている。政略結婚によりヨーロッパ各地域の統治権を広げようという、お馴染みのハプスブルク家戦略を継続したわけである。しかし、エリザベスは最後まで首を縦に振らなかった。これはフェリペ2世に限ったことではなく、むしろ驚くべきことは、エリザベスが自分の嫡子を残すことよりも、他国と他家の干渉を許さず、最後までヴァージン・クイーンとして君臨することを選んだ特異性にあるだろう。これが彼女の英明な政治的判断によるものなのか、性格や体質に起因するものなのかは、定かではない。イギリスの歴史小説家リットン・ストレイチーは『エリザベスとエセックス』で、新しいエリザベス女王像を描き出していて中々に面白い小説だ。フェミニストには非難されそうだし、彼の描いた極端なエリザベス女王像が必ずしも正しいとは思わないが、彼女の性格について書かれた部分を参考までに引用しておこう。

これこそエリザベスの持って生れた気性なのだー天候が穏かならば優柔不断の海に漂い、海が嵐に荒れ狂えば、熱に浮かされたように右へ左へと際限もなく進路を変える。もしもこういう気性でなかったならーもしエリザベスが強靭な行動の人特有の能力、即ち確たる方針を打ちたてそれに固執する能力を持っていたならー恐らく彼女は敗北を余儀なくされていたであろう。女であることが、女々しさがエリザベスを救った。女だからこそ恥も外聞もなく言を左右にして巧みに言い抜けられたのだ。

『エリザベスとエセックス 王冠と恋』 リッチン・ストレイチー (中公文庫)

いずれにせよ、フェリペ2世は初めからエリザベス女王を目の敵にしていたわけではない。ましてや、悪しきプロテスタント代表として憎きエリザベスを滅ぼす、といった意図は全く窺えない。エリザベスもまた初めからプロテスタント色を鮮明にしていたわけではないし、フェリペ2世はむしろエリザベスを庇護する立場だった、とも言われている。前述した『スペイン無敵艦隊の悲劇 イングランド遠征の果てに』で著者は、《カトリックのメアリー統治の期間に目障りなエリザベスが処刑されなかったのは陰でフェリペの保護があったからだと言われる》としている。

その真偽はともかくとしてフェリペ2世はエリザベスに寄せる愛着からからその後もエリザベスを庇う傾向にあった。あくまで政治的意図が根底にあったのかどうかフェリペ2世の真意を推し量ることはできないが、具体的にはエリザベスの破門を二回阻止している。

『スペイン無敵艦隊の悲劇 イングランド遠征の果てに』 岩根 圀和

いずれにしてもフェリペ2世はエリザベスのイングランドとむやみに戦争をしたくないのが真情であった。戦争への決断に三十年を費やした理由にそれがあったとする説もあるが、あながち見当違いではないかも知れない。イングランド侵略を決断したときもフェリペ2世は、エリザベス女王の玉体に決して手出しをしてはならないと指揮官たちに厳命を下していた。身柄を確保すれば、あらゆる礼儀を尽くして鄭重に身の安全を保証するようにとのことであった。

『スペイン無敵艦隊の悲劇 イングランド遠征の果てに』 岩根 圀和

エリザベスが1558年に即位し、スペインとの決定的な戦争アルマダ海戦を迎えるまで、30年の長い月日があった。フェリペ2世が彼女の即位前からメアリー1世と共同統治を行なっていた期間も合わせれば、さらに長い期間となる。それは、フェリペ2世のエリザベスに対する個人的な好意によるものなのか、「慎重王」の忍耐強さから来るものなのか、はたまた、「優柔不断の海に漂」う「女々しい」女王の態度によるものなのか、おそらく全てが合わさっての結果であろう。

スコットランド女王メアリー・ステュアートは競争相手を見下し、フランス仕込みの毒を含んだ侮辱を投げ掛けた。そして、十八年の後、フォザリングゲイにおいて彼女は己が過ちを思い知らされたのであった。スペインの王フェリペは同じことを学ぶのに三十年もの年月を要した。実に長い間、彼は義理の妹を赦して来た、が、三十年を経た今、漸く意を決して妹に最後の審判を下した。

『エリザベスとエセックス 王冠と恋』 リッチン・ストレイチー (中公文庫)

エリザベスが誰とも結婚をせず、他国と適当に距離を置きながら、国内でプロテスタント派擁護を鮮明に打ち出していく中で、次第にスペインとの距離は離れていった。また、新興国イギリスは、ドレイクら海賊に加担して、新大陸の富を独占するスペイン帝国の船を襲い、その財宝を強奪していると、再三スペインは非難していた。アイルランドのカトリック勢力をスペインが援助していたことや、フェリペが統合した後のポルトガル王位を狙い続けた王子ドン・アントニオをエリザベスが隠し玉として温存していた、といったことも火種の一つだった。しかし、おそらくフェリペ2世にとって決定的であったのは、ノンサッチ協約により、イギリスがオランダ独立軍の援助をあからさまにしたことだろう。スペインが開戦に踏み切った背景には、このような幾つもの政治的な問題があった。決して、カトリック王対プロテスタント王といった単純な図式に当てはめられるものではないし、ましてや、フランス・ギーズ家の傀儡であるメアリ・ステュアートの処刑に義憤を覚えたからでもなかった。

さて、アルマダ海戦だが、劣勢なイギリス軍が勇猛果敢な女王の指揮下、見事に艦隊を撃破し、その後の制海権を支配した、といった従来のイメージも、昨今では実際とはかなり異なることが分かっている。まず、フェリペ2世は確かに最終的にはイギリス本土に攻め込むことを意図して無敵艦隊を派遣したが、あくまでそれはネーデルラントに駐在するパルマ公からの艦隊と合流して、という前提のもとであった。いくら大艦隊といえども、穏やかな地中海とは違って、荒れ狂う大西洋を何ヶ月も航海してそのままイギリス艦隊と決戦する、というのは当時誰ものが無謀だと考えたはずだ。しかし、実際には、パルマ公の裏切りとも言える逡巡により、ついにネーデルラントからの援軍との合流も、大陸側の港での補給も果たせなかった無敵艦隊は、ドレイクらイギリス海軍のゲリラ的奇襲に力を削がれながら、虚しくドーバー海峡を抜け北海へと逃れていくしかなかった。スペイン無敵艦隊とイギリス海軍決死の大決戦というものはついぞ実現しなかった。カレーやグランべリーヌ沖で小競り合いを繰り返した結果、北海に逃れていった時点でのスペイン側の被害は10隻にも満たなかった。有名なイギリス軍どれいくらによる火船攻撃も、混乱の逃避のうち、ガレアサの旗艦「サン・ロレンソ」が他船と接触事故を起こして座礁した、1船の被害のみである。無敵艦隊の船数130隻のうち、スペインに未帰還だったのは54隻、殆どがアイルランド沿岸で沈んだか、行方の分からないままになったものである。兵隊についてはもっと悲惨で、ポルトガルのコルーニャ出港時にやく1万8千人いたうち、やはり未帰還だったものは約半分で、このうち純粋に戦死者と呼べる者は約1割、他は、壊血病やチフスなどによる病死、溺死、帰還中のアイルランドで虐殺された。

こうしてみるともっとも被害が大きかったのはイギリス軍との戦闘による死者よりも、帰路のアイルランド沿岸で難破沈没した溺死と虐殺であることがわかる。スペイン国家の威信を賭けたイングランド遠征艦隊の末路は戦わずして海の藻屑と消えていった将兵達の数に象徴されていると言えるだろう。

『スペイン無敵艦隊の悲劇 イングランド遠征の果てに』 岩根 圀和

個人的には、この無敵艦隊のお粗末さは、何やら、太平洋戦争末期の大日本帝国陸軍を彷彿とさせる。極めて官僚的な指揮官たち、完璧な指揮命令系統や報告にも関わらず機能しない上滑りの作戦、兵站を無視したことで甚大となった被害、、、先に、スペイン国内の異端審問所について、ジョゼフ・ペレスが《近代の全体主義を予感させるところがあった》と書いていたのが思い出される。

従来のイメージと異なることだらけのアルマダ海戦だが、虎の子のアルマダが壊滅した後、スペイン帝国は破綻し、イギリスに制海権を奪われた、というのも正しくない。スペイン帝国衰退の主因は、財政破綻によるものであったし、アルマダ海戦後もしばらく、スペインの覇権は続いた。

しかし1588年の遠征でスペインが大西洋での海上権を喪失したわけではなかった。スペインは無敵艦隊を再建して、フェリペは96年、97年とさらに二度にわたってイングランド攻撃をめざした。いずれも嵐などに阻まれて失敗したが、スペイン艦隊はイングランドにとって驚異であった。またスペインにとって私掠船は悩ましかったが、インディアスへの航路を大きく脅かされたわけではない。フェリペの治世のあいだに難破した船の割合は5パーセントで、私掠船攻撃を受けた船はわずか1%にすぎなかった。

『世界史リブレット 人52 フェリペ2世』 立石博高 (山川出版社)

アルマダ海戦の結果を聞いてフェリペ2世が激怒したとか、絶望したとか、というドラマティックな場面もあまり想像できない。くどいくらい逐一情報を報告させていたフェリペ2世はあらかじめ状況を把握していたはずだし、戦勝祈願を担っていたポルトガルの枢機卿宛への手紙では《もっとひどい状況になったかも知れないことを思えば、すべてに賜る神の恩寵と慈悲に感謝を捧げ、敬虔な祈願を続けて頂いたことにお礼を申し上げる次第です》といった、冷静沈着な言葉が記されている。

しかし、無敵艦隊のイングランド遠征の失敗の後、フェリペ2世の体調は急速に悪化した。父王カールも苦しめた痛風がフェリペ2世の体を蝕み、晩年の二年半は満足に立つことも叶わなかった。1594年には、長文の遺言をしたため、息子のフェリペに王位継承権を優先的に与える他、ネーデルラントについては、王女イサベルに婚資として与える方向性などを示した。さらに4年間の地獄の苦しみを耐え、アルマダのイングランド遠征からちょうど10年後に当たる1598年9月13日に死去した。享年71歳、ハプスブルク家の中では最も長命の王であった。敬虔な彼は、トレド大司教から終油の秘蹟を受けた後、家族との別れを済ませ、埋葬の衣服や副葬品、遺体の処理まで、悉くを国務長官に指示していったという。

参考》

  • 『世界史リブレット 人52 フェリペ2世』 立石博高 (山川出版社)
  • 『ハプスブルク・スペイン 黒い伝説』 ジョゼフ・ペレス(筑摩書房)
  • 『スペイン フェリペ2世の生涯 慎重王とヨーロッパ王家の王女たち』 西川 和子 (彩流社)
  • 『スペイン無敵艦隊の悲劇 イングランド遠征の果てに』 岩根 圀和(彩流社)
  • 『エリザベスとエセックス 王冠と恋』 リットン・ストレイチー (中公文庫)
  • 『知識の社会史』 ピーター・バーグ(新曜社)
  • 『退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史』 若林直樹
  • 映画 『エリザベス』(アメリカ・イギリス 1998年公開)
  • 映画 『エリザベス:ゴールデン・エイジ』(アメリカ・イギリス、2007年公開)

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