書評・小説 『パンダ』プラープダー・ユン


先日読んだ『鏡の中を数える』が面白かったので、今度は邦訳されている長篇小説の方を読んでみた。私はこっちの方が好きなくらい、面白かった。

27歳で日本で言えばVシネ的映画制作会社のライターとして勤めていて、太っていて不眠症でいつも目の下に隈があるので「パンダ」と呼ばれているオタク青年が主人公。ある日突然彼は、自分が地球人ではなく遥か彼方の「パンダ・プラネット」からやってきた異星人であることを自覚する。家族しかり、数少ない友人知人しかり、現在の職場しかり、彼が現実社会との強烈な違和感を感じて生き続けていた理由はまさにここにあったのだと気づく主人公。近々訪れるはずの故郷「パンダ・プラネット」への帰還に向け、いけてない半生を省みつつ、地球に間違って生まれてきた同郷の仲間探しをする。

『鏡の中を数える』の登場人物もだいぶ変だったが、こちらの主人公も相当イタイ。だけど、自分が異星人であるという認識に置き換えられた「現実社会へのどうしようもない違和感」というのは若い人誰もが共感できる設定でわかりやすい。違和感を怒りや絶望や虚無感に昇華するのではなくて、ユーモアあり人情味ありで、現代的なドライさとどこかほんわかとした温かみのある物語なのもいい。

もともとタイ文学というものに興味があって読み始めたプラープダー・ユンの作品なのだけど、やっぱりあんまりタイという感じがしない。登場人物たちの名前や、作品中に出てくるちょっとしたタイ語の言葉遊び的要素、それから、主人公の父親が警察官で息子の目前であわや賄賂の受取をしてしまいそうになるところとか、ひそかに主人公に思いをよせるインがいつもおやつとしてチョンプーやらマンゴーやらを用意しているとかのエピソードぐらいしか、読んでいてタイを感じさせるものがないのだ。

(ちなみに「チョンプー」というのは、英名ローズアップルと言って、林檎と梨の中間のような食感と味わいがする果物で、シャリシャリという食感と爽やかな甘みが癖になる。駐妻友達で日本に帰ってきて「チョンプー・ロス」を起こしているくらいハマっている人もいた。ちなみに私は、日本で言う「ザボン」、タイでは「ソム・オー」と呼ばれる、これまたグレープフルーツとオレンジの合いの子のような果物にハマっていた。どちらもメジャーな果物だが、タイにはとかく魅力的なフルーツが多い。)

『鏡の中を数える』と同じで、これが東京を舞台にした小説でも全然違和感がないと思ってしまう。それどころか、村上春樹と村上龍の若い頃の作品に、吉田修一と森見登美彦テイストを加えたような感じだなあ、なんて感じる。それくらい、日本の現代作家の作品に近い感覚が味わえるのだ。それがタイ人作家によって描かれているというの実に面白い。

オタクっぽくてだらしない体つきでそこそこ恵まれた家庭に育って甘やかされていて、アディダス様のスニーカーにユニクロ様の服を着て(実際はコピーかもしれないし、ノーブランドかもしれないが、それは関係ない)、可愛子ちゃんに振り回されてフラれたり、イケてない同僚の女の子に告白されたりしながら、違和感溢れる現実社会を生きていく。そんな「パンダ」くんは、どこの都市にもいる。そういう風土やら歴史から国籍やら、色々取り去られてしまった剥き出しで軽やかな「個」が描かれる時代。プラープダー・ユンがポストモダンの作家って言われるのは、そういう意味なのか、と、なんとなくわかったようなわからないような感じである。でも、村上春樹が世界中で読まれ、アメリカで教育されたタイ人作家のプラープダー・ユンが日本人の私にとても面白く感じられるのは、きっと同一線上にあることなんだと思う。

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