『宗教から読むアメリカ』 森 孝一 ③


この本が、私にとって特に新鮮に映るのは、現代の日本人の宗教観からは想像もつかないアメリカの姿がそこに描かれているからである。現代の日本人が、自分たちが当たり前としている宗教観に囚われ、アメリカの政治や社会と宗教との関係が見えていない例として、著者は、アメリカ大統領就任式に対する日本のマスメディアの報道について説明している。

レーガン大統領の就任演説について、朝日新聞がわざわざ「詳報」として掲載した翻訳には、ある部分が意図的に省略されていた、と著者は述べている。

《今日、この日に、何万もの祈りの会が持たれていることに、私は深く謝意を表したい。われわれは神のもとなる国家(a nation under God)である。これから後も、大統領就任式の日が、祈りの日となることは、適切で良きことであろう。

「朝日新聞」がこの箇所を翻訳しなかったのは、宗教は個人的なことがらであり、大統領就任式のような「公的(パブリックな)領域」において、宗教が本質的な部分を占めるはずがないという思いこみである。宗教的表現があるとするならば、それはいわゆる「レトリック」であり、本質的な部分ではないという理解である。
これは「朝日新聞」の責任ではない。日本人の一般的な宗教観を反映しているだけのことである。日本においては、宗教は個人的なことがらであり、公的な領域において重要な役割を担うことはないということは事実である。しかし、それをアメリカ合衆国に当てはめてもいいのだろうか。》

私自身は無宗教なのだが、母は個人的にある新興宗教を信仰している。その宗教について、母から本を読んだり、集会に参加したりすることを強制されたことは一切無いので、私自身は、その教義について独自の判断を下すことはできないのだが、宗教というものが人の生活のすぐ傍にあること自体には、小さい頃から余り違和感はなかった。むしろ、大きくなるにつれ、現代の日本で、「宗教を信じる人はマイノリティ」という風潮が広まっていることに、違和感というか、疑問を覚えるようになった。オウム真理教の事件が、その風潮をさらに強めたかもしれない。
先日、改めて驚いたのは、会社の同僚の女性が、「宗教なんて心が病んでる人がやるものでしょ」と発言したこと。勿論、この女性は、いくら友人同士の会話とは言え、社会人としての一般常識や配慮に欠ける部分があることは否めないのだが・・・新入社員の頃、会社ではよく先輩から「政治と宗教の話は軽率にしないこと」とよく言われたものである。(このスタンスも、「触らぬ神に祟りなし」的な日本人の風潮をよく表しているが)しかし、まあ社会人としての配慮に欠けるとは言え、ある意味、彼女は現代の若い日本人の偏った考え方を、率直に言葉にしただけ、とも言えるであろう。

問題は、特定の宗教を信じるかどうかではなくて、宗教というものをどう考えるか、或いはそもそも、そのことについて考えるべきと思うかどうか、ということだと思う。現代日本の、宗教のことを殊更考えないように、無視しようと骨折っている姿は、返って不自然にすら感じてしまう。「神」ということを考えない、ということは、「人間」や「生きる」ということについて考えない、ということでもある。宗教、というかたちをとるかどうかは別として、生きるに値する、或いは生きることを可能にする、思想、イデオロギー、アイデンティティなどを、あたかも現代の日本人は必要としていないかのようにさえ感じられる。(勿論、そんなことは決して無いのだが)
話がだいぶ脱線してしまったのだが、自己への反省も含めて、この本が与えてくれた事実の予想外の新鮮さ、知らなかった事実の大きさ、に愕然としたのであった。

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