『桜の森の満開の下』(講談社学芸文庫) 坂口 安吾


坂口安吾は、昔「白痴」を読みかけて挫折したことがあり、あまり良い印象をもっていなかったが、別の短篇集で読んだ表題作が意外と面白かったことと、歴史ものの短編が中心だということに興味をそそられて、この本を買ってみた。

結論としては、収録作品十三篇、全て素晴らしかった。その中でも、歴史ものの「二流の人」「家康」「道鏡」、それから表題作の「桜の森の満開の下」、そして最も印象的だったのは「夜長姫と耳男」。

「二流の人」は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が活躍した時代を、黒田如水という中国地方の一大名の姿を通して、新しい歴史観と人物観で描いた作品である。義理人情など通用しない、親族だろうが臣下であろうが、隙を見せたら次に命を落とすのは自分、そういう待った無し、常に命の瀬戸際で鬩ぎあうような下克上時代の有様が、テンポの良い文体で生き生きと語られている。その中で天下の覇権を握った英傑たちと、常に彼らにとって代わって天下をとれるようなポジションにいながら、最後までそのチャンスを見出せずに終わってしまう黒田如水とが、対照的に描き出される。ただし、それはただ「英傑たちが一流のすごい人で、黒川如水が二流の人」というような単純な姿で描かれるのではない。
如水は律儀であるけれども、天衣無縫の律儀ではなかった。律儀という天然の砦がなければ支えることの不可能な身に余る野望の化け者だ。彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望ほど偉くないのが悲劇であり、それゆけ滑稽笑止である。秀吉は如水の肚を怖れたが、同時に彼を軽蔑した。
坂口安吾は、特に家康について、巷に出回っている「狡猾な古狸」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」的単調なイメージを打破して、新しい家康像を描いている。
家康は天の時を知る人だ。然し妥協の人ではない。この人ぐらい図太い肚、命を乗りだしてくる人はすくない。彼は人生三十一、武田信玄に三方ヶ原で大敗北を喫した。(略)彼は信長の同盟者だ。然し、同盟、必ずしも忠実に守るべき道義性のなかったのが当時の例で、弱肉強食、一々が必死を賭けた保身だから、同盟もその裏切りも慾得ずくと命がけで、生き延びた者が勝者である。信玄の目当の敵は信長で家康ではなかったから、負けるときまった戦争を敢て戦う必要はなかったのだが、家康ただ一人群臣をしりぞけて主戦論を主張、断行した。彼もこのとき賭博者だ。信長との同盟に忠実だったわけではない。極めて少数の天才達には最後の勝負が彼らの不断の人生である。そこでは、理智の計算をはなれ、自分をつき放したところから、自分自身の運命を、否、自分自身の発見を、自分自身の創造を見出す以外に生存の原理がないということを彼らは知っている。自己の発見、創造、之のみが天才の道だ。家康は同盟というボロ縄で敢て己れを縛り、己れの理知を縛り、突き放されたところに自己の発見と創造を賭けた。之は常に天才のみが選び得る火花の道、そうして彼は見事に負けた。生きていたのが不思議であった。
さらに、続く短編「家康」を読み進めていくと、何が本当の家康像なのか、だんだん煙に巻かれているような気持になってくる。
 家康がおのずから天下の副将軍などと評されるようになったのは、たまたま時代思潮が彼の如き性格をもとめるようになったので、彼は策を施さず、居ながらにして時代が彼を祭りあげて行った。
家康という人は力ずくで人の天下をとるべき性質の人ではないので、よい番頭、よい公僕、そういう人で、議会政治の政治家としては保守党の領袖などにまア似合う人だ。そして新聞から優柔不断だの新味がないだのと年中コッピドクたたかれている人だ。それが戦国時代に生れて奇妙に衆に押されて前面へでて、最後にはファッショの御大のようなクーデタをやらざるを得なくなったから何とも珍無類な古狸の化けそこないのような不手際な天下のとり方をしたのである。

こうまで言われてしまうと、じゃあ一体「二流の人」とは誰のことなのか、「一流の人」の資質って何なのか?と、読む方が段々不安な気持になってきてしまう。ただ単に「時流に乗る」ことが、天下をとるのに必要な全てということか。はたまた、理知を突き放して己をかけられることが一流の資質ということか、いやいや、それだって、時流に乗れなければただのバカだということでは、、、と悶々。そこが坂口安吾のやみつきになる面白さなのかもしれない。

このほか、孝謙天皇と道鏡の物語「道鏡」などの歴史もの短編、そして、破滅的なエロスと芸術性に溢れた「桜の森の満開の下」や「夜長姫と耳男」などが本当に素晴らしかった。ここからは超個人的な意見なのだが、澁澤龍彦って坂口安吾の影響を大きく受けているのではないかと思う。『うつろ舟』や『高浜親王航海記』などの作品を読んだとき、何て言うか、前例の無いジャンル、世界観に驚愕して、「この人はどこでこんなことを思いついたのだろう」と思思ったのだが、坂口安吾の作品を読んで、何かそれに似た片鱗のようなものを、他の作家の作品で初めて感じたのである。歴史と小説との間を縫うような独自のジャンル、破滅的でしかも深い人間性への洞察に満ちた世界観、そして「語り」の巧みさなど、二人の作家の作品の間に、名状しがたい類似性を感じるのである。勿論、澁澤龍彦の方がもっと観念的・幻想的だし、坂口安吾は通俗的な部分や歴史解釈っぽい側面が強い、など、異なる点も多いのだが。

 澁澤龍彦や坂口安吾の作品を読んでみると、日本の伝統的文学、その特異性のようなものを感じる。『平家物語』や「○○鏡」にあるような歴史とフィクションの間にあるジャンル、「○○物語」に流れる世界観と語りの豊麗さ、とでも言おうか。古代には、西欧にも東洋にも美しい「叙事詩」の文学があったが、それが形を変えて、「語り」の美しさとなって受け継がれている、そんな一面が、日本の伝統文学にはあるような気がする。そして、彼らの作品はその脈々とした流れが、今も絶えずどこかで息づいている素晴らしさを、思い出させてくれるのではないだろうか。

だいぶ話が脱線したが、坂口安吾の短篇は本当に素晴らしかった。もう一度、『白痴』にも、それから他の短篇や『堕落論』にも、挑戦してみたいな、と思ったのであった。

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