日本文学一覧

『唐草物語』 澁澤 龍彦

 

澁澤龍彦との出会いは確か12、3歳のとき。もしかしたら、まだ小学生だったかも。サガンやコレットから、フランス文学に興味を覚え始めた私は、全くどんな内容か知らずに、よりによってフランス文学コーナーにある『O嬢の物語』を図書館で借りてきてしまったのだった。(私の名誉のために言っておくが、当時の文庫版は、表紙の絵も今のようにモロではなかった)ご存知の方も多いと思うが、フランスポルノ文学の古典的作品。性の奴隷と化したO嬢、サディズムとマゾヒズムの交錯するめくるめくエロスの世界、、、はっきり言って半分も意味わからなかったと思う。そして、さすがに最後まで読む勇気が無く、途中で返却してしまったのだが・・・その衝撃は15年以上経った今も忘れられない。で、それを訳していたのが澁澤龍彦さん。普段は訳者なんて気にしないのだが、内容が衝撃的だったのと、苗字が特徴的だったので記憶に刷り込まれた。

それから、やたら「~の女たち」みたいな、世界の美女・女傑・悪女伝にはまったことがあって、そこで2回目の澁澤龍彦が登場。その名も『世界悪女物語』。内容は殆ど覚えておらず、文章も澁澤龍彦にしては簡潔だったと記憶しているが、残虐さや屈折したエロティシズムなど、通常の女性列伝とは一味違う視点で語られているのが印象的だった。そしてここで初めて作家自体に興味をもち、日本で初めて大々的にマルキ・ド・サドを紹介し、研究したフランス文学者であることを知った。

 

しかし、そこまでアブノーマルで耽美的な世界にのめりこめず、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』と澁澤龍彦の『幻想の肖像』、どちらも途中で挫折した私は、そのままノーマルで健全(?)な世界に旅立ったのであった。と言うよりも、難しい漢字が多く、いかにも「文学者」といった感じの文章が余り合わなかったのが大きいのだが。

 

数年前に、ひょんなことから、澁澤龍彦の小説を試してみよう、と思い立ち、遺作となった『高浜親王航海記』を読んだ。これが奇跡のように素晴らしい作品で、改めて澁澤龍彦の世界観と古典教養と見識の高さに眼を開かさたのである。それから短編集『うつろ舟』を読み、今回の『唐草物語』、、、と澁澤龍彦ワールドの奥深さと魅力は尽きることがない。

 

まさに「ワールド」としか形容できないような、独自の世界観、古典とも小説とも特定できないジャンルの作品である。古今東西、あらゆる国や地域、時代のテクストから、過たずそこにある本質的なエロス、底流に湛えられているエロスを抽出してしまう、その手腕。古典と言うのは、時代の風習や既成観念を長い月日が洗い流して残り続けたもの、だからこそ、そこに変わらない人間の生と性の姿があるのだ、ということが、澁澤龍彦の作品を読んでいると実感できる。はっきり言って、ここまでくると完全に妄想狂に近いのでは、、、と思いながらも、ひょっとしてこの人は実はタイムマシーンを持っていて、古典の裏側にある事情をつぶさに見てきたのではないか、とも思う。

 

『高浜親王航海記』の解説で、「もし三島由紀夫が、この作品を知っていたら嫉妬で本を伏せたくなったのではないか」という主旨のコメントがあったのだが、さもありなん。澁澤龍彦を例えて言うならば、生真面目な人たちが、何とか細かいものを苦心して積上げて、ちょっとでも高みにのぼって見極めたいと右往左往している傍から、不思議な翼を生やしてやすやすと空高く舞い上がり、「ああ、ちらっと見てきたけどこんなだったよ」と、とんでもないことを報告をしてくれる、そんな作家なのである。

 

その感性の鋭さは、他者の追随を許さない。勿論、三島由紀夫も唯一無二の文学者だが、彼の中には、理知的なものと耽美的なものとの引き裂かれるような緊張関係がある。そういう三島由紀夫だからこそ、澁澤龍彦の作品に嫉妬を覚えるのではないか、と私も思った。さらに、澁澤龍彦は、ただ感性の人というだけじゃなくて、気味が悪いくらい古典や歴史のことをよく知っている。だからこそ、空想と史実、妄想と現実の境界線が曖昧になり、読む者に心地よいめまいを与えてくれるのだ。最後には「そんな境界線なんて意味が無いのだ」という境地に達するくらい魅力的なワールドである。

 

今回の『唐草物語』も、日本は勿論、インドや中央アジア、中国など本当に様々な時代と地域の古典を引っ張り出し、不思議に耽美的でエロティックな世界を次々と繰り広げてくれる。耽美的という意味では、『高浜親王航海記』や『うつろ舟』の方が私は好きなのだが、本書は古典を自由な発想で遊ぶ、というのをより軽い感覚で楽しめる秀作。何度読み直しても飽きない魅力があると思う。

『対岸の彼女』 角田 光代

 

妙に印象に残る作品だった。

引っ込み思案で周囲の顔色を気にしてばかりの専業主婦小夜子は、一大決心をしてハウスクリーニングのパートを始める。勤め先の女社長は、小夜子と同い年で、さばさばした性格の独身女の葵。小夜子は少しづつ自分の殻を破りながら、新しい仕事に精を出し、立場も性格も違う葵との距離を縮めていく、そのストーリーと同時に、葵の高校生の頃の物語が、並列で進行していく。
高校生の葵とナナコの仲は、不幸な結末を迎えるのだが、大人になってからの小夜子と葵は、お互いの誤解や立場の違いを乗り越えて、なんとか仲直りに漕ぎ着けるところで小説は終わる。それぞれの物語で、主人公(現代の物語では「小夜子」、過去の物語では「葵」)が、人と人との関わりの煩わしさや厭わしさを克服して、最後の最後で「それでも人を信じよう」と思うところに、ドラマがあり、救いがある。

 

対照的な女性二人を描いた小説、というのに興味がある。いつかそういう小説を自分で書いてみたいと思っているくらい。江國香織の『ホリー・ガーデン』、唯川恵の『肩越しの恋人』『彼女の嫌いな彼女』『永遠の途中』などなど。 こういう設定は、幅広い読者の共感を得やすいし、対照的なだけにキャラクターも描きやすくて、小説家には良い題材なのかもしれない。それは男性でも同じことなのだろうけど、特に現代でそういう設定のものが女性に好まれるのには、別の理由があるかもしれない。

 

まず、女の人生の選択肢がすごく幅広くなったこと。そして、選択肢が広がった分、本質的には価値観や性格がそれほど違わなくても、選択する生き方や社会上の身分が結果として随分異なったものになってしまう、ということもあるのかもしれない。

 

例えば、いかにも「対照的な女性」というプロトタイプで、「キャリアウーマンと専業主婦」という設定があったとして、多くの女性は、どちらの主人公にも部分部分で共感することができると思う。キャリアウーマンが、自分の稼いだお金でバーキンを買えば誇らしげな気持になり、専業主婦が、愛する人の帰りを待ちながら丁寧に夕食をつくれば温かい気持になる。一方で、キャリアウーマンが、残業で疲れ果てて一人の寂しい夕食をすれば、その孤独を厭い、専業主婦が、横柄な旦那やうるさい姑に悩まされれば、その憂鬱を想像する。「どっちの気持もわかるわー」ということになるだろう。

 

一方で、男性でも同じような設定をして、例えば「エリートサラリーマンと出世やお金に興味の無いフリーター」だったら、中々そうはいかないのではないだろうか。多くの男性が「うん、どっちの気持もわかる!」と思うのではなくて、どっちか一方に肩入れする男性が大半になるような気がする。そして、その二人の主人公たちが、お互いの立場を完全に超えて「わかりあえる」結末になったとしたら、多くの男性読者は違和感を覚えるのではないだろうか。

 

要は、いくら「対照的」とは言っても、女の分岐点は男のそれよりずっと曖昧で、さらに社会的な立場や仕事や身分に縛られる部分が比較的小さいので、一見正反対に見える立場でも、本質的なところではさほど差異が無い、ということなのだ。さらに、女の人は欲張りなので、「あれもこれもほしい」的欲求から、対照的な立場や境遇の女性に、より興味を持って感情移入する、というのもあるかも。

 

この『対岸の彼女』は、仕事や社会的立場の対照性が取り上げられているわけではく、性格とか内面的な対照性がクローズアップされているが、物語の進行とともに、葵の過去と小夜子の現在がクロスして、どちらがどちらの「対岸」にいるのか、その境界線は段々曖昧なものになっていく。
小夜子は手紙から顔を上げた。
 見たことのない景色が、実際の記憶のように色鮮やかに浮かんだ。
 川沿いの道。生い茂る夏草。制服の裾をひるがえし、陽の光に髪を輝かせ、何がおかしいのか腰を折って笑い転げながら、川向こうを歩いていく二人の高校生。彼女たちはふとこちらに気づき、対岸に立ち尽くす高校生の小夜子に手をふる。ちぎれんばかりに手をふりながら、何か言っている。小夜子も手をふりかえす。何か言う。なーにー、聞こえなーい。二人は飛び跳ねながら少し先を指さす。指の先を目で追うと、川に架かる橋がある。二人の女子高生は小夜子に手招きし、橋に向かって走りだす。対岸の彼女たちを追うように、橋を目指し小夜子も制服の裾を躍らせて走る。川は空を映して、静かに流れている。
最後のちょっと胸が切なくなるような一節。彼女たちの間を流れる川は何だったのか、そこに架かる橋とは何だったのか、どちらも小夜子が見た白昼夢のようなものだったのかもしれない、、、そんな風に感じさせるラストシーンだった。

『すばらしい新世界』 池澤 夏樹

 

池澤夏樹は、須賀敦子が本の中で絶賛していたのをきっかけに、作品を読み始めた作家。
芥川賞を受賞した『スティル・ライフ』を初めて読み、その言葉と世界観の透明さ、美しさに心を打たれた。

風力発電を専門とする一技術系サラリーマンである主人公林太郎は、ひょんなことから、ネパールの山奥に灌漑農業用の風車をたてるプロジェクトを立ち上げ、ヒマラヤ奥地に赴くことに。思いつきで与え、その地に定着せずにやがては葬られてしまう、今までのような先進国の身勝手な援助のやり方ではなく、永久的にヒマラヤの奥地で風車が回り続けるために、できるだけ低コストでシンプルな風車を開発し、さらには土地の人々に基礎的な構造や修理方法を教育することまで行う林太郎。チベットの文化や宗教に触れ、日本に残してきた妻や子供とのEメールでの対話などを通して、徐々に先進国の文化の在りかた、たや信仰の意義などを見つめ直していく・・・というストーリー。本書は700ページ以上に及ぶ大作で、ボランティアやNGOなどの存在意義、消費偏重文化の行き詰まり、先進国と途上国の関係、信仰を失った生活への疑問、さらにはチベットの民族問題など、様々な問題が取り扱われている。

 

私は池澤夏樹さんの作品は、どちらかと言えば短編の方が好き。短編の方が、池澤夏樹さんの選ぶ言葉の美しさ、清々とした世界観のきらめきが、はっきり感じられるように思えるから。逆に、文学賞を受賞している『マシアス・ギリの失脚』『花を運ぶ妹』などの長編小説も、悪くはないけど、ちょっと論理的に明快過ぎて、池澤夏樹さんのせっかくの風味が失われるような気がしてしまうのだ。

 

本作品も、重要な問題を幾つも扱っていて、掘り下げ方も深いし、着眼点も素晴らしいのですが、やや説明が明快過ぎるきらいがある。特に、登場人物たちの会話が論理的過ぎて、ちょっと興ざめしてしまう。ストーリーの進展とともに、意図的に、作者の主観的意見や考察が述べられますが、これがまたテレビ番組のナレーションのような滑らかさ。でも、こういう純文学的な感じがしないところがまた、池澤夏樹さんの良さなのかもしれない。虚構の世界に酔いしれる楽しさではない。でも、透徹した世界観を、それに耽溺するのではなく、客観的で理知的に、何ていうか「節度をもった感じ」で、描き出す。

 

この作品は、2003年に初版発行となっているが、十数年後の今になって読んでみると、近い未来への預言に満ちていたことがわかります。中国のチベット弾圧、原発、非営利活動の発展などの問題は勿論のこと、現代社会の閉塞感、消費型社会への疑心、そして信仰の喪失という大きな問題について、今まさに、岐路に立たされているような気持で途方に暮れている私たちに、ぼんやりとした薄明かりで往くべき道を照らしてくれている。本書の登場人物たちの発言の方がよっぽど論理的に明快なので、幾つか抜粋してみよう。
イワシの頭を落とし、骨をはずしながら、このイワシだってずいぶん遠くから来たのだろうと考える。それでも鮮度がいいのは、保存や運搬の技術が進んだからだ。世界中からいろいろな食べ物が運ばれてくる。全部まちがいなくおいしいまま届く。値段だって自分たちが毎日でも食べられるのだから、高いとは言えない。
 それなのに、こんなことをしていていいのだろうかという不安がある。さっきの車の件も同じだ。なにもかもうまくいっているはずなのに、これでいいのかと不安になる。
 なんだか、借金で贅沢をしているような気持ち。イワシを食べて贅沢もないものだが、そのイワシをこのまな板の上まで届けてくれるシステムは借金で作ったものかもしれない。それが返せるという保証はない。あるいは森介たちの世代が苦労するのか。子供の名義で借金をしている親たち
人類は密度を高めることで文明を進めてきた。狩猟採集生活では人は散らばって暮らすしかなかった。農業を始めてようやく村ができた。それが町になって、都市になって、大都会になった。そうやって密度が高まるにつれて知的生産性も高まった。集積回路と同じですよ。隣が近いほど伝播速度が速い。」
「そのとおり」
「ニワトリを飼うのだって、放し飼いよりケージの方が効率がいいという考えかたですね。密度の勝負。でも、風力発電というのは違うんです。これは集中ではなく拡散。今までとは逆の方に針路を取らなければならない。だから普及がむずかしいんです。」
「もの考えかたを逆転させる?」
「そうです。高密度の、ハイ・テンションの象徴が原子炉だとすれば(あれこそ高温、高圧、高速の極みですからね)、対照的に、ゆっくりのんびりの、ぬるい、ゆるい、遅いエネルギー源が風車です」
「人はそれに慣れなければならない」
「そうなんです。ウインド・ファームは風車的哲学の妥協です。本当なら村ごと、家ごとに立てるのがいい。それに逆らって風車にできる精一杯の都会ごっこ、それが風車の林立というあの光景なんです」
あの戦争が間違いだったと思います。国が、危急存亡の時という終末論的なスローガンで人々の魂を宗教から奪い取った。そしてそのまま捨ててしまった。扱えるはずのない魂というものを、無責任な官僚たちがその場しのぎの不器用な手つきで扱って、取り落として壊し、敗戦と決まると捨ててしまった。
 だから、それ以来、この国では魂の問題はないことになったのです。考えないことにしたのです。
 危ないということだけをわたしたちは学んだ。魂の問題は火薬のようなもので、うまく使えば山を崩して道を造れるけれど、間違えるとたくさんの人が死ぬ。気をつけなければならない。
しかし、人間の場合、どうしてもその問題を無視できない。なぜ自分は生きているのか、何のための苦労なのか、死の後には何が待っているのか。そういう問いが次々に頭に湧いてくる。仮にも答えが得られれば、彼は生活の向上と子孫の繁栄の準備に専念することができる。得られなければ迷いつづける。その導きのために僧という役割が生まれた。
 いったい日本の場合はどうなっているのだろう。なぜ、日本人はあれほど宗教と無縁に生きてこられたのか。自分も信仰なき者の一人だから、信仰がある生活の感じがわからない。すがれるものがあるというのは、心の中に絶対の信頼の柱があるというのは、どのくらいの安心感なのだろう。
密集し、効率化を追求する社会から、拡散し、ゆるやかに循環する社会への転換。それを風車というコンセプトの中に凝縮して、先進国で消費主義の日本と山奥の秘境チベットとの対比の中に、自然への畏怖と祈り、信仰を通して初めて得ることのできる「生きることの確かさ」を問い直している。特に、最後に引用した信仰についての文章は、自分自身がもやもやと心の中にあった想いや疑問を、アカデミックな議論や余計な哲学無しに、本当にストレートに表現してくれていた。テーマは非常に重たいし、大作の長編だが、池澤夏樹さんの文章はそこをすっきりと読ませてくれる。タイトルが示している「すばらしい新世界」が、どこかにまだあることを信じたい、と思わせてくれる。

『ガール』 奥田 英朗

 

今でこそ、「○○女子」というのが流行っていて珍しくもなんどもないけれど、これはプラスの意味でもマイナスの意味でも「女子」という言葉が流行る前に書かれた小説。5人の働く女子を主人公とした短篇集だ。印象的なのはやはり表題作だろうか。

由紀子は大手広告代理店に勤める32歳。花形の業界で仕事をしていて、お洒落も大好き、合コン、サークル、クラブにナンパ、と華やかな毎日。でも、時折思う、「もうガールじゃいられない」
残りのコーヒーを飲み干し、洟をひとつすする。
 もうガールじゃない、か。由紀子は小さくため息をついた。わかっている。三十二といえば、若さが売りにできる歳ではない。男はともかく、女はそうだ。
 由紀子自身、近年特典が減っていくことを肌で感じていた。十人並み以上のルックスに恵まれたおかげで、学生時代からずっと「おいしい」思いをしてきた。(略)それ以上に、おじさんたちからちやほやされた。世の中全体から構われた。要するに、祝福された存在だったのだ。その特典が今、手の中から次々とこぼれようとしている。
由紀子の不安は、同じ職場の、「三十二の自分ですら「CLASSY.」なのに」未だに「Cancam」までチェックし、「可愛い系」を死守しようと奮闘する38歳の先輩「お光」の姿を見る度に、ますます膨らんでいく。このへんもアルアルだろう。さらに、由紀子とお光の共同プロジェクトの前に、クライアントとして、おかた~い百貨店の女性社員・安西博子が立ちはだかる。紆余曲折あるものの、クライマックスでは、お光の機転により、博子がひょんなことからファッションショーのモデルに担ぎ出され、ピンチを凌ぎ、ショーは大成功に終わる。
「やだなア。恥ずかしい」
 安西博子はあれこれいいながらも、変身していく自分の顔に見とれていた。小さく向きを変え、サイドを確認したりしている。
 それは彼女が初めて見せた、ガールの顔だった。由紀子はうれしくなった。なんだ、堅物のふりして。本当はガールでいたいわけじゃん-。
 (略)
 「光山さんって楽しい人ですね」安西博子がはにかんで言った。もはや堅物の彼女ではない。すっかり打ち解けた様子だ。
 「うちの会社、ああいう人が多いんです」由紀子が口をすぼめて見せた。「生涯一ガールってタイプが多いんです」
 二人で笑った。心から笑った安西博子は、本当に可愛かった。
 生涯一ガール。きっと自分もその道を行くのだろうと、由紀子は思った。この先結婚しても、子供ができても。そんなの、人の勝手だ。誰にも迷惑はかけていない。
あと面白かったのは、「ヒロくん」という話。バリキャリの女性総合職の聖子は、女性管理職に昇進。やる気満々で臨んだものの、年上にも関わらず、派閥争いの力学で不本意にも聖子の部下になってしまった今井は、反抗的な態度。後輩の女性社員を教育したいという聖子の意図に逆らって、女性社員を「女の子」扱いしたまま、まともな仕事もさせない。直接対決で、ますます態度を硬化させる今井に手を焼き、上司の木原に顛末を報告するが、、、
 「武田、おだてて使うっていうのも、管理職には必要な手腕だぞ」と猫撫で声で言った。
  (略)
 「男を立ててやれよ。男なんて単純だぜ。あなただけが頼りなの、なんて目をすれば、しゃかりきになって頑張るものさ」
 耳を疑った。木原は今井を叱責するどころか、自分を懐柔しようとしている。
 「そのお言葉には異議があります。どうして男だけ立てなければならないんですか?女は立ててもらえないんですか?」
 「いや、だからね。あいつは運動部出身で、男女平等の観念が薄いんだよ。」
 「それで許されるんですか?」聖子は目を剥いた。
  (略)
  木原を見損なった。なあにが男のメンツだ。そんなもの、男以外の誰も認めてなどいない。日本国憲法だって認めていない。権利のつもりでいたら大間違いだ。
現実には、「男なんて単純だから、まあ立てておくか」なんて安易な対応をすることは、職場でもしょっちゅうあると思う。でも、プライベートでは各自好きにやればいいと思うが、会社でそれがまかり通っているのはおかしなことだ。「運動部出身だから」って何だそりゃ?と、全くその通りなのだが、そういう言い訳が何故か通用してしまう、おじさんたちによる、おじさんたちのための、現代ニッポンの会社組織。でも、面倒臭いからと言って、そういう安易な対応し続けるのは、今後働く女性たちのためによろしくないなあ、と振り返って我が身も反省。主人公も、自分が育てようとしている後輩女性の手前、そんなことで引くに引けない、という意気込みがあっての、この発言なのである。
男の側からは中々できないこの種の指摘。それとともに、「ガール」で見せたような、女のずるさ、甘さもきちんと描いてみせる。奥田英朗の洞察力・観察力は見事だなあと思う。『ガール』は、働く女性には共感できる部分がたくさんあると思うし、出きれば男性諸君にも読んでいただきたい一冊である。

『うたかた』 田辺聖子

 

田辺聖子は、数年前に映画化もされて話題になった『ジョゼと虎と魚たち』を読んでそれまでのイメージが一変。なんとも胸にぽっこりと何かが残るようなせつなさと面映さがあって、すごく好きな感じだった。それから、光文社文庫日本ペンクラブ編・唯川恵撰の『恋愛アンソロジー こんなにも恋はせつない』に、「おそすぎますか?」という短編が載っていて、これもハッピーエンドではないちょっとせつないお話で、印象に残っていた。

余談だが、私はこの光文社文庫の、有名作家がお気に入りの短編(いろんな作家の)を選んだアンソロジーシリーズが大好き。やっぱり江國香織や川上弘美のように、自分の好きな作家が選んだ短編というのはどれも素敵。(ちなみに、小池真理子&藤田吉永撰はイマイチだった・・・やっぱり作家の趣味が合う合わないがあるなーと思った。)色々な作家のアンソロジーって意外と無い。出版社が人気作家を集めて無理やり一つのテーマで短編をつくらせる、というのはあるが、そういうのはいかにも間に合わせでつくった短編なので、質が低い。海外の作家やクラシックなものからも幅広く印象的な短編を選んで、アンソロジーをつくってもらうと嬉しいのだが、選ぶ人のセンス&読書量が試されるので大変なのだろうか。そうそう、山田詠美の『せつない話』シリーズも好きだった。

 

話がそれたが、そんなこんなで、田辺聖子の短編はなかなか良い印象があったので、この間実家に帰った時に母親の本棚に埋もれていたこの本を拝借してきた。田辺聖子のほんとに初期の短編作品が5編収められている。時代設定はさすがにかなり古い。

 

今まで読んだものもそうなのだが、表面的には結構からっとしているのに、最後に胸にせつないわだかまりが残るような、そういう話が多い。そのわだかまりは嫌な暗い感じではないんだけれど、なんだか心にぽかっとしたものが残ってしまう。そういう意味では、全然「しゃべりすぎ」な感じがなくて、むしろ「あれっ?」と淡い期待を裏切られるようなさらっとした終わり方をしている。でも良い短編というのは、多かれ少なかれ、そういう裏切られ方がどこか心地よくて、かえって心に残るものだろう。

 

表題作の「うたかた」は、難波のチンピラが偶然出会った普通のお嬢様っぽい女の子と一瞬だけ夢のような恋をする話。女は突然姿を消し、チンピラの主人公は、夢のような湖岸ホテルで過ごした一夜が忘れられなくて、懸命に彼女を探すが見つからない。その後、偶然彼女の姿を発見し、喜んで声をかけた主人公に対し、彼女はまるで別人のように接し、脅されるのではないかと心配している始末。主人公は傷つき、女を罵って姿を消す。

ナベちゃんよ、
 これで俺の話は終りだ。
 俺はただ、あの詩のことをいいたかっただけだ。

 身をうたかたと 思うとも
 うたかたならじ わが思い
 げに卑しかるわれながら
 うれいは清し 君ゆえに

 やっぱりこの詩はウソじゃない、この先生はウソつきじゃない。なあ、あの夜、湖岸ホテルの夜の幸福はやっぱりうたかたではなかった気がする。

チンピラは、難波の汚れた町に帰ってきて、ヤクザ仲間に入った少年や、17歳で売春して病気になった少女との日々がまた始まる。最後に、突然ぽっと主人公が呟く。

 

人間なんてうたかたみたいなもんだ。------ただ、恋したときだけ、その思いが人間自身より、生きているようだ。

 

この文のところに、なぜか赤えんぴつで線がひいてあった。若い頃の母親が引いた線かしら、と思うと、ちょっぴりこそばゆいような、歯がゆいような気持ちになる。

田辺聖子先生は、なかなかココロニクイお話を書きはります。