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『帳簿の世界史』 ジェイコブ・ソール

タイトルに惹かれて読んでみた。松岡正剛さんの『千夜千冊』でも取り上げられていたのに気づいたのは読み始めてからだ。

後にロストジェネレーションと呼ばれる超就職氷河期世代の文学少女が、何の興味も知識もない金融業界に就職することになって、簿記会計を一から独学で勉強した。無理やり頭に叩き込んだ仕訳の仕方や会計規則が、超文系の私でも、これは実はひとつの哲学的とも言える世界観を内包してるな、と気づかせてくれた。詰め込み学習も全く意味がないわけではないな、と思う(笑)

前置きが長くなったけど、本書は、会計の歴史を辿りながら、折に触れ、その文化的解釈をしているところが面白い。会計の文化的側面は、大きく分けて二つあると思う。宗教的な側面と合理的思考方法という側面だ。私は、後者の方がより印象的で惹きつけられるが(『千夜千冊』をみると松岡正剛さんもそのようだ)、著者は前者の方をより強調しているように思える。その違いに、なんとなく、西洋人と東洋人の思考法や哲学の違いを感じてしまう。

帳簿の起源として、1086年、ノルマン・コンクエスト後のイギリスで世界最初につくられた土地登記簿「Domesday Book 」が挙げられる。名前は知っていたが、Domesdayがそもそも「最後の審判」という意味なのを知らなかった。現生の行いを審らかにする、善行と悪行の帳尻を合わせる、といったキリスト教的考え方が、帳簿や会計の根本にあるのだ。

例えば、14世紀に共同出資と複式簿記を活用した国際貿易で巨万の富を築き、フィリッポ・リッピの傑作「聖母戴冠」の中に寄進者の一人として書き込まれているトスカーナ商人フランチェスコ・ダティーニ。

ダティーニは自分が神のために金儲けをしているわけではないことをわきまえており、そのことは繰り返し手紙にも書いている。彼は自分の富と罪を数え上げ、神に対する負い目(debt)を計算した。

リーズで成功を収めた仕立屋で非国教とのジョゼフ・ライダー

日記に、「人間を合理的な被造物としてくださった神の善」を称えるために日記や帳簿をつけるのだと書き記している。富は信仰と几帳面な会計の産物とみなされた。心の会計を日記に、財産を帳簿につけるのはカトリック教徒だった。

そして功利主義者の創始者として名高い哲学者で法学者のジェレミー・ベンサム。

ベンサムは「最大多数の最大幸福」の原則を提唱し、そこに「快楽計算」を組み合わせて幸福度を計測しようと試みた。この計算では、快楽を複式簿記方式で評価する。つまり「一方であらゆる快楽の価値を、もう一方であらゆる苦痛の価値を合計する。」

一方で、会計の考え方、その思考法というのは、非常にシステマティックにまた物事や世界の二面性を明らかにすることによって、相対的かつ合理的に世界を捉える、という側面がある。そのたびに、常に記帳する行為自体を重要視するのも特徴的だ。松岡正剛は、このことを「ノーテーション」とか「スコアリング」とか言っている。

こういう会計の特徴がある意味世界観にまで浸透している典型的な例として、ベンジャミン・フランクリンが上げられている。

ベンジャミン・フランクリンの場合には、会計が世界観の形成に役立ち、国家建設の重要なツールとなった。

 

 

フランクリンがさまざまな技術に習熟し、進取の気性に富んだ、博学多彩な人物だったことはまちがいない。・・・フランクリンの帳簿を見ると、生活のあらゆる面を会計の原則に従って管理していたことがわかる。別の言い方をすれば、分散する興味を結びつけるものが会計だったと言えよう。

私としては、本書では、もう少し、会計の思考方法的なところに踏み込んでほしかったのだが、もしかしたら、西欧知識人にとって、そんなところは自明の理過ぎて興味を惹かないのかもしれないな、と思った。むしろ、会計の裏に、宗教的意味がある、という点の方が重要なのかもしれない。ただ、いくら、西欧文化にキリスト教が深く根付いているとは言え、混迷を究めるグローバル資本主義経済で、≪いつか必ず来る清算の日を恐れずに迎えるためには、こうした文化的な高い意識と意志こそを取り戻すべきである≫って、具体的にどうすりゃいいの、と思ってしまうのだが…


『退屈な美術史を止めるための長い長い人類の歴史』 若林 直樹

 

タイトルからして中々野心的なこの本。総括するのは中々難しいのだが…美術史を身体、物質や技術、市場など、従来とは違った社会的な側面から解釈していて、体系的な論理としてよくまとまっているとは言えないものの、各論としては興味深い視点やエピソードが多々あって面白かった。

現代美術議論の範疇は、近代美術市場の掌の上、《肉体なき鑑賞者》《収集の絶対主義》《新規参入者の誘惑》が作る三角形の中にあったに過ぎない、と語る著者は、美術の中に、インタラクティブな相互性や身体性、体験を取り戻すべきだと説く。

本文を要約すれば、

1.肉体なき鑑賞者とは、即ち観念的な理想美の追求

2.収集の絶対主義とは、欠落した感情や創造力の埋め合わせ

3.新規参入者の誘惑とは、美術市場における先物投資的な側面

と言えるだろう。

しかし、ポロックとナヴァホ族の例をあげてはいるものの、そこから具体的な方向性や新しい美術のあり方を見通すのは難しい。漠然とした方向性としては、相互性(インタラィティブ)と身体(体験、経験)といったテーマが浮かんでくる。これは、『美術、市場、地域通貨をめぐって』といった本とも共通してくるだろう。

以下、各論として面白かった点

1.明治初期の黒田清輝派と浅井忠派の美術論議について

情報の出処の正統性を競うだけで、歴史的な位置づけ、個人とは何かといった議論がない。やがて、その精神性の欠如は、皇国史観的全体主義に置き換えられる。

2.レオナルド・ダ・ヴィンチについて

レオナルド・ダ・ヴィンチは、芸術家ではなく技術者だった。マルチタレントな彼が、どんな技術を対象にし、どんな技術を対象にしなかったかで彼の仕事の性格が見えてくる。即ち、レオナルドは軍事技術や運河掘削、架橋法などの産業基盤整備などについては提言したが、都市計画、宮殿建設、農業技術開発などについては関わらなかった。

⒊レンブラントについて

レンブラントの絵画は一般市民が絵画を注文し、一種の工房で制作されていた。16世紀オランダ市民社会の絵画は、現代のブランド商品と同じである。

⒋フェリペ2世について

《収集の絶対主義》の例としてスペインのフェリペ2世。《最初の偉大な収集家》と言われ、その冷酷で残忍な性格、身体や人間性の欠如を補うかのように、エスコリアル宮殿に篭ってティツィアーノやヒエロニムス=ホッブズの作品を大量に収集した。

⒌近代美術市場について

近代美術の経済史は誘惑産業の歴史、文化的劣等感を抱く新規参入者の歴史である。例えば、印象派を買ったのは、アメリカの富裕層であった。そこでは、美術品の「理論保証」が重要となり、美術品は一種の先物投資となる。

などなど。


『芸術起業論』 村上 隆

数年前に読んで面白かったので再読。彼のアートに特別興味があったわけではないが、この本のタイトルには惹かれた。元々物書きではないので、時折言葉が乱暴だったり、話題があちらこちらに飛んで論理立ってない部分もあるのだが、それでも、彼の言いたいことと熱意は十分に伝わってくる。評論家や学者が語るのではない真実味と面白さがあるのだ。

欧米中心のアート業界で、欧米の文脈、歴史的背景を理解して戦略的に作品を生み出すことの重要さを説き、芸術作品はコミュニケーションを成立させられるかが勝負であり、その手段としてマネーが重要である、と言う。

《欧米の美術の歴史や文脈を知らないのは、スポーツのルールを知らずにその競技を見て「つまらない」とのたまうことと同じなんです。

「アートを知っている俺は、知的だろう?」

「何十万ドルでこの作品を買った俺って、おもしろいヤツだろう?」

西洋の美術の世界で芸術は、こうした社交界特有の自慢や競争の雰囲気と切り離せないのです。そういう背景を勉強しなければ、日本人に芸術作品の真価は見えてこないのだと思います。》

芸術至上主義を信奉する(あるいはしたがる)人から見れば、これはとても俗っぽい考え方なのかもしれないが、実際に欧米の(特に近代以降の)美術史を俯瞰すれば、これはとても頷ける話なのである。若林直樹著の『退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史』でも、《近代美術の経済史は誘惑産業の歴史》《文化的劣等感を抱く新規参入者の歴史》だと言っている。

《まだ欧米のルールは有効なのだから、世界で勝負をしたいと願う今の表現者はまだ欧米のルールを学ばなければならない。・・・海外の美術の世界は「すごい」と思われるかどうかが勝負の焦点になっています。

お客さんが期待するポイントは、

「新しいゲームの提案があるか」

「欧米美術史の新解釈があるか」

「確信犯的ルール破りはあるか」

といずれも現行のルールに根ざしています。》

写楽や北斎もあくまで「ジャポニズム」という観点で欧米美術史の文脈の中で評価されたに過ぎない。こういう現実を踏まえて、欧米の文脈の中でみた今の日本、を表現したのが世界的アーティスト村上隆の始まりだという。

《・・・仮にぼくの理論が目茶苦茶だとしても、ぼくのしたことには意味があるのです。西洋美術のどまんなかで日本の美術の文脈の一つとしてゆく入口を作ったのですから。》

 

《ぼくには日本の文化を「欧米の美術の文脈」の中でちゃんと伝えられているという自負があります。アメリカで芸術の文脈や理論の構築方法を学んだからこそ、翻訳ができているのです。》

ここから、日本のオタク的文化、スーパーフラットな表現性、かわいさを重視する文化、などを翻訳していく村上隆の「戦略」が見えてくる。

《オタク文化の翻訳で思うのは、オタクというのは、やはり世の中で言われているままの文化であるということなのです。現実逃避からはじまり、欲望に肉薄している暗い表現。・・・文化に橋をかけるという気持ちでやっていることがオタクを搾取して自分の作品にしていると敵視されることもあります。・・・ぼくの日本文化への言及については、オタクから批判されることもあれば、日本の美術の世界で批判されることもありますが、そういう時にはいつも、

「じゃあ世界に向けて翻訳してみろよ」

と思います。本当のオタクは翻訳の必然性をまったく感じないのでしょうけど。》

 

当然ながら、これをつきつめてゆくと、重要なのは真に日本的なものやオタクなものを表現することではなく、欧米人が捕らえられる(あるいは捕らえたがる)姿での日本的なものやオタクなものを表現する、という方向に行ってしまう。ただし、そういう翻訳のリスクみたいなものを犯さなければ、結局、何も表現できない、表現したとしても誰にも省みられないことになってしまうというのも事実である。

《芸術は、アートは、「マネー」との関係なくしては進めない。

一瞬たりとも生きながらえない。

なぜならば、芸術は人の業の最深部であり核心であるからなのです。

しかし、日本ではその事実を突きつけた瞬間、浪花節のこぶしの力で!

気合いで!!

「金に汚い人間は古来より尊ばれている武士道に反する!」

と目くじらを立てられることも、これまた事実。・・・

私は芸術を生業とすることに誇りを感じており、後ろめたさ等、万分の一もなく、そしてその「マネー」=「金」こそが人間が超人として乗り超えるべき時にでも、へばりつく最後の業でもある、だから、故に、この業を克服していく方法こそが真の、現代において練りあげられるべき「芸術」の本体であると思っているのです。》

あとがきのこのあたりになると、かなり論旨の混濁が見られるものの(笑)、村上隆の憤懣やるたかない感じも伝わってきて面白い。マネーと芸術の関係を理解することと、それを芸術家として或いは人間として超克しようとしていくことは、だいぶ異なるはずだが、どちらも非常に重要であり、それは「芸術家はお金のことは考えない」とか「芸術はお金とは関係ない」とかいう態度からは絶対に生まれ得ないのである。

 

 


『マネーの進化史』 ニーアル・ファーガソン

 

再読本。やっぱり面白い。前回読んだ時は、ロスチャイルドがナポレオン戦争を機にどのように一財産稼いだか、ルイ15世治下のジョン・ローによるミシシッピ・バブルの顛末、日本に代表される福祉国家と戦争国家の結びつき、など、エピソード的な面白さが印象に残った。

今回読んでみて、著者がタイトル通り、ダーウィンの進化論を意識して、マネーの進化史を一連の流れとして描こうとしているところが印象的だった。

すなわち、

銀行の誕生、信用創造   ⇒  債券の誕生  ⇒  株式の誕生

⇒ 保険、デリバティブの誕生 ⇒ 住宅ローンの誕生

と展開していくマネーの歴史である。

もちろん、本当の歴史はこのような一直線の流れになっているわけではないが、保険のリスク論からデリバティブの話になり、其の後、国家政策的にも住宅ローンが拡大されていく展開は、まさにこの本が出版された当時起こった、一連のサブプライム問題を見事に暗示していてすごく納得する。リーマンショック直後に書かれたので、この問題を十分に分析する時間が足りなかったのが、むしろ残念。

グローバル資本主義とチャイメリカを論じた最終章では、第一次世界大戦前のグローバル資本主義と比較しながら、再び同じ経済的な緊張関係と貿易摩擦が起こる危険を暗示している。巻末の解説で、野口悠紀雄氏が

≪世界はまだ「リーマンショック後のニューノーマル」に至っていない。これについてのファーガソンの考えを是非聞いてみたいものだ》

と結んでいるが、私も是非昨今の貿易摩擦問題も含めて著者の卓見を聞いてみたいと思ってしまった。

また、ピケティの『21世紀の資本』でも触れた通り、本書も、文学からの引用が多いことが印象的だった。ピケティもオースティンやバルザックを引用していた通り、19世紀の英仏文学からは学ぶことは多いが、ファーガソンは、ブルガリア出身のノーベル賞作家エリアス・カネッティや、かのアルゼンチンの伝説的作家ボルヘスまで引用していたのはとても新鮮。

ノーベル文学賞を受賞したブルガリア出身のエリアス・カネッティは、インフレが猛威をふるっているフランクフルトで過ごした青春時代を振り返って、こう書いている。

インフレーションは、言葉のもっとも厳密かつ具体的な意味において、群集現象である。・・・インフレーションは、人間たちとかれらの貨幣の諸単位とが互いにもっとも強烈な影響を及ぼしあう、価値喪失の魔女の饗宴と呼ぶことができる。両者が互いに相手を表わし、人間たちは自分たち自身をその貨幣のように悪いものと感じる。そして、この貨幣はますます悪くなる。かれらはみんな、ともに貨幣のなすがままになり、ともに同じように無価値になったと感じる。

やはり、膨大な経済的知識やデータや客観的事実を元に、ある種の歴史的コンセプトやストーリーを発見できる鍵になるのが、文学の持つ力なのではないか、と個人的に感じている。


『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』 小林 弘人

 

以前読んだ『インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃったわけ』の対談がとても面白かったので、小林弘人のこちらの新書も読んでみた。

「社会はウェブをコピーする」というのが本書の大きなテーマである。ウェブの中で進んでいるオープンやシェアといったコンセプトがいかに現実社会の中でも拡大していくか、ということを色々な例をあげて説明している。まとめてしまうといかにも月並みに聞こえるが、具体的なウェブ上のサービスやビジネスアイデアが挙げられているので読んでいてとても興味深い。

特に面白かった部分を引用しておく。

まず、ウェブの浸透によりニッチ市場が深く開拓できるようになった点について

情報の選別とは、それがあなたにとって意味のある信号か、あるいはただのノイズかである。これまでのマスコミュニケーションにおいて、情報とはすなわり「露出量」だった。「露出量」は「愛着」や「共感」もさることながら、まず「注目」を集めることに重きを置く。しかしフェイスブックの登場以降、情報は「強弱」に変わった。たとえば、あなたにとって「強い」情報とは何だろうか?それはあなたが信頼を寄せる人からの情報発信だったり、親近感を感じるものだったりするだろう。そして、それは同時にあなたの注目を獲得する。

 

ライフスタイルの多様性に対し、リアル社会はすべてには回答を用意できない。なぜなら、リアルではコストがかかりすぎるからだ。逆にリアルではニッチすぎて売り上げが少なすぎるかもしれないが、ウェブを用いたときにはそうしたニッチの集積によって、費用対効果としてそれなりに折り合う場所が発揮できるかもしれない。

 

ウェブ上における「オープン」さについて

私がインターネットのOSは「オープン」だといったのは、いちばん初めに「うちのサーバのこの領域を使っていいよ」「この回線に相乗りしていいいよ」ということがなければ、インターネット自体が成立しないということなのだ。

オープンを理解するうえで大切なのは、自分のリソースのなかで何を「パブリック(公的)」にするのかを選択することだ。このパブリックも、最初からどこかにそういう公共的な場所が用意されているわけではなく、多くの人が一部分を差し出したものの集合体を指している。

 

ウェブ上のビジネスイノベーションとこれから必要とされるデザインについて

かつてパーソナルコンピューターが進化する過程において、マウスというアイデアや・・・ダグラス・エンゲルバード・・・スティーブ・ジョブズたちがめざしたのは、”人間のもつ力の拡張”である。

新しい可能性を見つけ出すとき、そこに「ユーザー体験」がデザインされているかどうかが決定的に重要になる。・・・そうしたユーザー体験をデザインするという視点は現代のイノベーションには不可欠である。成功している企業はそのことに気がついている。・・・そうしたデザインがブランドの礎になっている。現代では体験自体がブランド価値に紐づくのだ。

 

スマートフォンという体験を提供するとき、そのいちばんプレミアムな部分は、技術的な性能よりも「使い勝手」だったのだ。

 

新規の参入者たちは、ビジネスで成功したい、モノづくりをしたいという気持ち以上にユーザー側のリアリティをもって、「どうしてこんなものを使わされていたのか」という発想で攻めてくる。人間中心主義の時代、これからのビジネスはハイテクだけではなく、インターフェイスや体験のデザインという「人間」の理解、それを軸に据えた発想の活用を急務とするだろう。

最近では、日本にも浸透してきているが、ウェブを活用したオープンでシェアなリアルサービスの実例も色々紹介されている。AirbnbやUberはもちろんこと、例えば、手づくりの料理をシェアするアメリカのサービス「ゴーブル・コム」、日本ではプロの料理人をチャーターする「マイ・シェフ」、世界中の主要都市でワーキングスペースなどの情報を提供するコ・ワーキングのネットワーク「ザ・ハブ」など。

小林弘人は、まだ日本では多くの人がインターネットって何?という90年代前半に「WIRED」日本語版を創刊し、日本発のブログ書籍化をするなど、日本のウェブメディアを牽引してきた人物である。ビジネスセンスは抜群だが、編集人としての視点も面白い。最先端のウェブメディアの情報やビジネス状況を伝えてくれる一冊としても面白いが、これかのサービスやネットワークのあり方を考える上でも重要なヒントを与えてくれる本だと思う。

 

・・・ウェブはテクノロジー偏重やアルゴリズムから人間力を活かす時代へ移ったという説明をした。・・・あらゆる面でこれからは人間力の活用が求められる。・・・そのなかで、ますます「文系」と「理系」の融合も進む。

しかし、・・・最後にその人の背中を押すのはストーリーやビジュアなど、文系的な領域だ。サイエンティスト(=理系)とロマンティスト(=文系)はますますタッグを組まなくてはいけない。一人の人間が双方を兼ねるのは難しい。

 

わざわざコンピュータを操作するという意識をもたずに日常のなかでネットに接続し、自己の能力を拡張するという実験は、二十年の時を経て、ついにグーグルグラスにまで進化した。

 

おそらく、そうしたハードウェアでも人間中心主義のテクノロジー利用はさらに進化するだろう。・・・ウェアラブル・コンピューターと組み合わせ、仮想空間と身体空間をつなぐことがパーソナルコンピューター、スマートフォンの先にある次のコンピューティングの一形態となるだろう。

 

人間の能力の拡張、思考とウェブ、身体とは何か、これはまさしく文学や芸術や哲学の出番ではないか。超文系諸君、巷の文系不要論に拗ねてアナログ架空空間に閉じこもっている場合ではない・・・とは言うものの、さしあたってどうすればいいの、という素直は問いに対して明確な答えはまだない(笑)