フェミニズム一覧

レビュー・映画 『4ヶ月、3週と2日』

2007年公開、ルーマニア制作。監督は、クリスティアン・ムンジウ。チャウシェスク大統領独裁政権末期のルーマニアで、一人の女子大生が、望まない妊娠をしたルームメイトの違法中絶手術を手助けする一日を描いた物語。第60回カンヌ映画祭で、並み居る有名監督の作品を押さえて、パルム・ドール賞に選ばれたことで一躍話題になり、ヨーロッパ映画賞、全米映画批評家賞など数々の賞を受賞した。

タンサン夫人

クロディーヌ=アレクサンドリーヌ・ゲラン・ド・タンサン(1682〜1749)は、18世紀フランスの最も有名なサロンを開いた。ダランベールの生みの母としても有名だが、若い頃に砲兵隊将校デトゥシとの短い情事で赤子を授かった彼女は、生後まもなくその子をパリのサン・ジャン・ル・ロン教会の階段に置き去りにした。 続きを読む


書評 『十七世紀フランスのサロン サロン文化を彩る七人の女主人公たち』 川田 靖子

だいぶ古い本だが、『クラブとサロン』でフランスのサロンについての章を執筆していた川田靖子さんの著書。一般に、フランスサロンの全盛期は百科全書派などの活動を支えた18世紀と言われているが、本書は、その最盛期を準備した17世紀のサロン文化について、ランブイエ侯爵夫人、スキュデリー嬢、ニノンとマリオン、セヴェニエ夫人とラファイエット夫人といった女主人を元に語っている。

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『夜はやさし』 スコット・フィツジェラルド

フィツジェラルドの最長作品で、自伝的要素が強いとされている作品である。若く優秀なアメリカ人の精神科医ディックは、患者である大富豪の美しい娘ニコルと恋に落ちて結婚する。しばらくはディックは富も名声もある華やかな生活を送っていたが、若い女優ローズマリーと恋仲になる。それを境に、次第にニコルの病気の再発や彼女の莫大な財産が重荷となり、酒に溺れて彼女との愛も消え、彼の人生は転落していく。

フィツジェラルドは私にとって少々評価が難しい作家だ。初めて読んだのは多分高校生の頃、オーソドックスに『グレート・ギャツビー』だったのだが、何が良いのかさっぱり分からなかった。それから長らく忘れていたのだが、数年前に短編集『バビロン再訪』を読んでおや、と思った。それが再評価のきっかけになって『グレート・ギャツビー』をもう一度読んだらすっかり印象が違っていたのである。ストーリーとかキャラクターとか或いは私の好きなディティールとかを超えて、文章に何か、心に響くものがある。自分の好きなタイプではないのに、どこか引っかかる感じ。

そしてこの『夜はやさし』である。この作品は長編小説としては決してできが良いとは言えないと思う。実際、フィツジェラルドはこの作品を発表後、構成の失敗に気づいて修正を試みたそうである。しかし、何か物語が冗長になったり、散漫になったりする合間に、ものすごく研ぎ澄まされた文章が突然煌めいて、それが読む者の注意を逸らさせないようなところがあるのだ。

たとえば、こんななにげない一文

もっとも、その正体ははっきりとはわからなかったが、のちになって思いかえすと、その午後の数時間はすべてがしあわせだったと思うーーーとりたてて何もないそのひとときは、その時は過去と未来のよろこびをつなぐかりそめの輪にすぎないように見えたが、実はよろこびそのものであったのだと。

たとえば、ディックが過ぎ去ってしまったニコルとの愛を思い出すシーン

いつだったか、草がしっとりしめっていたとき、きゃしゃなスリッパを露でぐしょぬれにして、急ぎ足で彼のところにやってきた彼女のことを思いだした。間近に身をよせながら彼の靴の上に足を乗せ、本のページを開いたように顔を上に向けたことがあったと。

「あなたがどんなふうにあたしを愛してくれているかを考えて」彼女はささやいた。「常にこんなふうに愛してほしいとは思わないの、でも思いだしてほしいの。いつもあたしの胸の中には、今夜のようなあたしがいるということを」

突然差し込まれた追憶の情景、「本のページを開いたように顔を上に向けた」というようなさりげない直喩、そして後の狂気や退廃を暗示して悲しく美しく響くニコルの台詞、すべてが完璧過ぎて、この部分を読むだけで、この長い物語全てに意味があった、と感嘆せずにはいられない文章ではないだろうか。

ロマンチックとか詩的とか言うだけではない、独特の格調と端麗さがフィツジェラルドの文章にはあると思う。

ストーリーや文章とは別に、『夜はやさし』で気になった点が2つある。それは「ヨーロッパのアメリカ人」と「アメリカ男のヒロイズム」だ。

昔、有名な『パリのアメリカ人』という映画があったが、この作品は、さしずめ「ヨーロッパのアメリカ人」と言ったところか。それくらい、ディックとニコルが初めて出会うスイスのチューリヒから始まり、南仏のリヴィエラ、パリ、アルプス、ミュンヘン、ローマと舞台をうつして、執拗に「旧世界の中の富裕なアメリカ人」の姿が描かれる。これは、いわゆるロスト・ジェネレーションと呼ばれたフィツジェラルドたちアメリカ人作家の強烈な自負の表れとも言えるだろう。ロスト・ジェネレーションについては、また別の機会に色々書いてみたいことがあるのだが、第一次世界大戦後に突如として強力なマネーパワーを持って、ヨーロッパに現れたアメリカ人たちの孤独というのは、現代のアジア人が知るアメリカ人像からはちょっと想像しがたいものがある。物語の中でたびたび登場するほとんど筋違いのようなイギリス人への敵意など、読んでいて笑えてくる。

その「American(男)」が体現するヒロイズム、というのも興味深い。思えば、代表作『グレート・ギャツビー』もヒロイズムの権化である。『夜はやさし』でも『グレート・ギャツビー』でも、主人公の男性は崇高なヒロイズムを発揮して女性を守ろうとする。そして、女性は庇護されるべき存在でありながら、ヒーローを最後には裏切る加害者である。定石通り、ヒロイズムの裏側には隠れた女性蔑視があると思うのだが、女性のずるさ愚かさを描くフィツジェラルドの筆は中々に冴えていて、面白いなあ、と思ってしまう私はフェミニストにはなりきれない。

男の傷つきやすいところはそのプライドだけだということーーーひとたびそこをつかれると、塀から落ちた卵同然、二度と立ちあがれぬもろい存在なのだ。その事実をはっきりとつかむアマゾン族の女性が出現するには、なお幾百年の歳月を必要とするらしいーーーもっとも、中には口先ばかりのお世辞を言ってその事実につぐないをつける女もいるが。

そんなことをしたところでなんの役にもたちはしない。「アメリカ女性」がたけりたって目の前に立ちはだかっているのだから。アメリカ人の精神的バックボーンをへし折り、大陸全体を子供部屋と化し去ったあのすさまじい非合理的気質は、彼などの手に終えるものではない。

現代の女性からすると、女性を心の中でバカにしながらなおかつ偶像的に崇拝して振り回され、勝手にヒーローを気取って事態をややこしくしたのはお前だろう、と突っ込みたくもなるのだが、そういう無粋な気持ちは押し包み、失われたアメリカ男の哀愁とロマンに浸っていただきたい。いや、無粋な私にさえそれを可能にしてしまうのが、フィツジェラルドの文章の力なのかもしれない。文学ってすごいではないか。これはこれで最大限に褒めているのです。悪しからず。


『きのね』 宮尾 登美子

久しぶりにめくるめく小説の世界にどっぷり浸かりたい!と思って、宮尾登美子さんの中ではなぜか読み残していたこの作品を手にとった。結果は・・・期待通りのどっぷり2日間の宮尾ワールドに浸れて幸せでした()

宮尾登美子さんの長篇小説は殆ど全て読んでいると思うが、この人の「語り手」としての力量は現代作家の中でも随一だと改めて思う。文章が美しいとか味がある、という作家さんは他にもいると思うが、宮尾登美子さんは「語り口」という意味で言えば、例えば源氏物語とか平家物語とか樋口一葉とか、日本の古典芸能とか・・・そういうものの伝統を受け継いだような巧みさと力強さがあると思うのだ。

そんでもって、このきのねは、ストーリーも面白い。何て言っても先代市川団十郎の妻、つまり、何かと話題の現市川海老蔵のおばあちゃまにあたる方をモデルにした物語なのだ。貧しい千葉の塩焚きの娘に生まれ、身よりもないまま歌舞伎俳優のお家の下働き女中として奉公に出た主人公。「おぼっちゃま」のお姿を拝見するだけでも眩しくてまともに見ていられないほどだった下の下の女中だったのだが、神経質で気難しいおぼっちゃまに献身的に仕えに仕え、主がチフスにかかれば命にかかわるほどの大量輸血を自ら買って出て、苦しい戦時中にはお給金も出ないまま主のための食糧探しに奔走し、ついに主人からお手がついた後も、二人の子供まで授かりながらずっと日蔭の身に甘んじた末に、最後の最後で本妻に認められるという・・・まさに耐えがたきを耐え忍んだ忍耐の女の一生。

特に圧巻なのが、主人公がたった一人で長男(現市川団十郎)を産むシーン。誰の助けもないまま陣痛の苦しみに頭を柱にぶつけてのたうちまわり、厠で力んで自らの手で赤子を掴みだして、お産婆さんが駆けつけたその時には、へその緒のついたままの赤子を横に寝かせ、髪を梳いて着物を着て正座していたという・・・宮尾登美子さんは、この小説を書くにあたり(そもそも関係者が多く生存しているので)色々逆風もあった中、「コレ書かなきゃ死ぬ」という思いで挑み、ついに現市川団十郎を取り上げたというお産婆さんを探し当てて、頼みこんでの一度きりの取材に応じてもらった、というから、このシーンの真に迫った迫力はひとしおである。

それにしても、歌舞伎界は古い世界とは言われているものの、たった数十年前でこの階級差や女性蔑視は、イスラムやヒンドゥー社会にもひけをとらない中々のものである。そういう意味では、色々言いたくもなるのだが、何しろ、昭和の女の強さと作者の語りの力量の前に、もう言葉もない私である。