フェミニズム一覧

書評・小説 『鬼どもの夜は深い』 三枝 和子

どうしようもなく好きなものを人に分かるように説明するのは難しいけれど、どうしようもなく苦手なものを分かるように説明するのはもっと難しい。三枝和子の『鬼どもの夜は深い』は、私の最も苦手で生理的に嫌いなそれこそ「忌避」したいとしか呼べないような世界が表現されている。

三枝和子は、神戸出身の作家で、夫は文芸評論家の森川達也。歴史上の女性を主人公とする歴史小説を多く書いた他、フェミニズム文学の走りとしても知られる。この『鬼どもの夜は深い』は、1983年に上梓され、泉鏡花文学賞を受賞した。

舞台は、丹波と播磨国境、加古川の上流黒田の庄あたりの山深い村である。この山ばかりの貧しい地域から、戦時中には農家の息子達が数多く出征して命を散らし、また、それに巻き込まれて女たちが犠牲になった。それから一世代、二世代経った後でも、その閉鎖的で因習めいた村では、女たちと若い男たちが、或いは人生を囚われ、或いは命を散らしている。

特攻に志願した若い出征兵の子供を身籠り、村人の冷たい視線を浴びたまま産後3ヶ月で飛び込み自殺をした満子、その娘で「父なし子」と蔑まれながら十七で村を飛び出し、その後村に帰ってきて1人でスナックを開き、「男たちを誑かす雌狐」と呼ばれる日佐子、義父に犯され続けることを黙認する家族たちから出奔した印一の母、その娘は思春期の戯れに同級生のバイクの後ろに乗せられて事故死する。やはり出征直前の男性と無理矢理に結婚式を挙げ、たった一夜の関わりで身籠り、戦争未亡人となった後は子供と舅姑に縛り付けられる人生を送った真志乃、その孫娘の仙子は同級生達に強姦されたことをきっかけに自ら売春行為に身を落としていき、ついには妊娠、発狂して自殺する。

とにかく、貧困と差別と因習が根深く巣食った山奥の集落。これだけでも十分嫌いなのだが、さらに、その死や狂気や病の陰に、禍々しい得体の知れないものが潜んでいて、そこが恐ろしい。特攻さんの落とし子である日佐子狐には特攻さんの未練が取り憑いて若い男を餌食にする。知恵遅れのきよちゃんは、誰とわからぬ兵隊さんの子を身籠り、添い寝の最中に赤子を窒息死させて、死んだ赤ちゃんを抱いたまま北山の黄泉の国をさまよっているという。死に急ぐようにバイクを爆走させる高校生の省吾を、鬼が坂の鬼たちが岩陰に潜んでじっと窺っている。そんな世界観の中で、耐え難い差別や不幸が、どこか幻想的に非現実的に映ってしまう。

山奥の村落に伝わる昔話やわらべ歌、神隠しや鬼や天狗や狐のような得体の知れない生き物たち、そんな中に禍々しい貧困や差別や狂気が隠されている、そういうのが一番恐ろしくて苦手なのだ。幼い頃から、山麓にある小さな神社、とか、どこか気味わるくて近づきがたかった。ジブリ映画の『もののけ姫』を観て、もののけに対抗して森を切り開こうとする悪役の方に共感してしまう。柳田国男もなんとなく怖くて一度も読んだことがないし、深沢七郎の『楢山節考』で無邪気な童歌に恐ろしい姥捨や子間引きの真実が隠されているラストシーンなど、ショックで眠れなくなってしまった。この感覚、お分りいただけるであろうか。

私自身は、港町で生まれ育ち、その後も都市にしか住んだことがなく(日本はもちろん、世界的に見ても、都市というのは基本的に海運の便の良いところに発達するのは言うまでもない)、山深い集落で因習めいたわらべ歌に耳を傾けた体験など微塵も無いはずなのに、どうしてこんなに生理的に拒否したくなるのだろう。もしかしたら、前世から引き継いだ魂みたいな、遺伝子の記憶みたいな、そんな深い深いところに原因があるんじゃないか、と疑ってみたくなる。ちなみに、私の食いしん坊のつれあいも、とにかく山深いところが嫌い、山奥に入ると寒くて惨めな感じがしてくる、広々とした水田や海岸線が広がっていると心安らかになる、という人なので、「前世に山奥の寒村で餓死したに違いない」と揶揄ってみたりするのだが、私だって前世は、差別と因習の染み付いた昔話に怯えていた女子供だったのかもしれない。もしかしたら、日本人の大多数が、遠くない過去の、こんな魂の記憶を、どこかに密かに抱えているのかもしれない。


書評・小説 『結婚しよう』 ジョン・アップダイク

あいも変わらずロングアイランド好きの私に、インスタグラムのフォロワーさんが紹介してくださった本だ。こちらは、ロングアイランド自体ではなく、ロングアイランド峡を挟んだコネチカット州の海沿いにある架空の街、グリーンウッドを舞台にしている。

タイトルからの予想に反して、不倫の物語である。しかも、お互い子供が3人ずつもいる、ミドルアッパークラスのカップルのW不倫。ロングアイランドを望む浜辺での美しく官能的な逢引シーンから始まるが、2組の夫婦の一夏のゴタゴタを綿密に綴ったメロドラマとも言える。冒頭のシーンで、主人公のジェリーが、モラヴィアの小説を批判しているのが、実にシニカルで印象的だ。

「あまりね。嘘っぱちだからってわけじゃないんだがね。何というか・・・」彼は本を手の中でゆすりかたわらにぽんと放りだしたー「実のところ、わざわざ小説にするまでもない話だと思うのさ」「でも、わたしはいいと思うわ」「きみはね、何でもいいとすぐ思うんだ、そうじゃない?だって、モラヴィアはいいと思うし、なまぬるいワインはいいと言うし、それにセックスだってすてきだ、と思っている」

もしかしたら、サリーが読んでいたのは、モラヴィアの『軽蔑』だったのではないかしら、と思うくらい、この小説も、同じように不倫の男性がうだうだする話である。

モラヴィアの小説と違うのは、主人公の男性ジェリーに漂うヒロイズムだ。アップダイクは比較的最近の現代作家だけれど、主人公ジェリーのヒロイズムや独特の女性像は、フィッツジェラルドの小説と同じくアメリカ的なものを感じた。

「いいや、違うよ、それは。きみが悪いんじゃない。悪いとすれば、それはぼくだ。ぼくは男で、きみは女だ。すべて事をうまく処理するのは男のぼくの役目だ。それなのに、ぼくはそれをやれないんだ。きみは善い人だ。素晴しい女だということをきみは自覚していなくてはいけない。自分が素晴らしい女だということをきみは知ってるかい?」

見よ、この徹底したヒロイズム。男たるもの、こうでなくてはいけない。男たるもの、強くあり、うまくことにあたり、そして世間と女を御するものなのである。このヒロイズムが、女性を徹底してヒロイン化し、偶像化し、その性的魅力に極度に心酔して振り回されるとともに、ほとんど定型化されたような、ヒステリーで神経症な女神を産んできた。フィツジェラルドの『夜はやさし』や『グレート・ギャツビー』にあるようなヒロインたち、そして、この小説のサリーのような女性たちである。ヒーローである男たちは、こうしたヒロイン達にかしづき、さんざん振り回され、そして最後は彼女たちを犠牲にして旅立ってゆく。

アメリカはウーマンリブの国、日本よりもずっと女性差別が少ない社会を実現しているように見えるけれど(事実そうだけれど)、こういうヒロイズムとヒロイニズムが根付いていた社会が、そこまで行き着くには、フェミニスト達の並々ならぬ苦闘があったであろうなあ、と思うのである。そしてまた、意地の悪い私は、きっとこの神話は消え去ったのではなくて、捻じ曲がって歪んで、今もアメリカ人たちの深層心理と社会生活の奥底に横たわっているんだろうなあ、とも思う。

アメリカ文学お定まりのヒロイズムの他に、もう一つアメリカ的で面白いのは、キリスト教との関わりである。主人公のジェリーやヒロインのサリーは、姦通については何の疚しさも感じないが、それでも、キリストについての一種の敬虔さを持っている。特に、ジェリーは、サリーとの愛欲を優先して妻子を捨てる決意をするような非情さを持ちながらなお、自身の魂の救済について思い悩んでいる男である。むしろ、宗教の不在が、ジェリーとルースという夫婦の不和の元凶になっているのである。この小説もその登場人物も、決して宗教的ではないのに、でも、やっぱりキリスト教はそこにある。これもまた、日本人には中々理解しがたい、アメリカの一つの側面だと思う。




レビュー・映画 『4ヶ月、3週と2日』

2007年公開、ルーマニア制作。監督は、クリスティアン・ムンジウ。チャウシェスク大統領独裁政権末期のルーマニアで、一人の女子大生が、望まない妊娠をしたルームメイトの違法中絶手術を手助けする一日を描いた物語。第60回カンヌ映画祭で、並み居る有名監督の作品を押さえて、パルム・ドール賞に選ばれたことで一躍話題になり、ヨーロッパ映画賞、全米映画批評家賞など数々の賞を受賞した。


タンサン夫人

クロディーヌ=アレクサンドリーヌ・ゲラン・ド・タンサン(1682〜1749)は、18世紀フランスの最も有名なサロンを開いた。ダランベールの生みの母としても有名だが、若い頃に砲兵隊将校デトゥシとの短い情事で赤子を授かった彼女は、生後まもなくその子をパリのサン・ジャン・ル・ロン教会の階段に置き去りにした。 続きを読む


書評 『十七世紀フランスのサロン サロン文化を彩る七人の女主人公たち』 川田 靖子

だいぶ古い本だが、『クラブとサロン』でフランスのサロンについての章を執筆していた川田靖子さんの著書。一般に、フランスサロンの全盛期は百科全書派などの活動を支えた18世紀と言われているが、本書は、その最盛期を準備した17世紀のサロン文化について、ランブイエ侯爵夫人、スキュデリー嬢、ニノンとマリオン、セヴェニエ夫人とラファイエット夫人といった女主人を元に語っている。

続きを読む