戦争一覧

書評・小説 『満州国演義一 風の仏暁』 『満州国演義二 事変の夜』 船戸 与一

池澤夏樹の『静かな大地』の記事を書いた時、インスタのフォロワーさんにご紹介いただいた本。外浦吾朗の名前で有名な『ゴルゴ13』を書いた作家さんで、普段ハードボイルドな作品を全然読まないので船戸与一の作品自体も初めてだったが、一度太平洋戦争に至る経緯を詳しく読んでみたいと思っていたので読み始めたら、面白くて止まらない止まらない。作者が癌と闘病しながら9巻完結まで書き上げて絶筆となった遺作で、まだまだ先が長いので、2巻ずつまとめてみた。 続きを読む



レビュー・映画 『灼熱の魂』

2010年のカナダ・フランス映画。レバノン出身の劇作家ワジディ・ムアワッドの原作を、ドゥニ・ヴィルヌーヴが脚本・監督で映画化した。重たい作品だったが、非常に良かった。

レバノン内戦をモデルとしているが、具体的な国名は伏せられ、架空の都市名が使われていたりして、中々背景がわかりにくい。敢えて、そのような演出をしたのは、この映画が「レバノン内戦」について具体的に描きたかったのではなく、戦争というもの一般を、と言うよりも「戦争が生む憎しみの負の連鎖」というものを描きたかったからなのだろう。

カナダで育った2人の双子姉弟。母から託された遺言を元に、故郷で死んだと聞かされていた父と、故郷に置いてこられた見も知らぬ兄それぞれに宛てた手紙を託され、2人を探す旅に出る。その過程で、内戦に振り回された母の凄まじい過去を徐々に知っていく。ラストでは、15年囚われていた収容所で母を拷問・レイプし双子を孕ませた父と、若い頃に難民との許されぬ恋を引き裂かれて産み落としてすぐに孤児院い預けられたまま行方知らずになっていた兄が、実は同一人物であったという衝撃の事実が明るみに出る。

つまり、母は知らずに自分の息子に犯されて二人を産んだのである。そして、偶然に、母は死の直前にその事実を知る。(と言うか、その事実のショックが母を死に至らしめる)母は、それを知りながら、双子の「父」と「兄」それぞれに手紙を託すのである。「兄」への手紙は、迎えに行けなかった後悔と愛の言葉が綴られている。親の顔も知らずに孤児院に預けられ、内戦で孤児院を破壊された後は武装グループの一員として教育を受け、いつかどこかで「母が自分の活躍を目にとめてくれるかもしれない」と願いながら、血も涙もない戦闘員となり、図らずもその母を犯すことになった彼もまた、戦争の被害者なのだった。

ラストの事実は衝撃的だが、子供が実母を犯すというのですぐに思い浮かぶのはギリシア悲劇の『オイディプス王』だ。『オイディプス王』と言うと、すぐエディプス・コンプレックスの方を連想してしまうが、「母犯し」というのは、西欧文化では究極のタブーであり罪として認識されているのである。今でも、「motherfucker」がスラングで最大の侮辱言葉であるように。

原作を書いたワジディ・ムアワッドは、カナダの有名な劇場の芸術監督を務めたり、さまざまな受賞や受勲を受けている劇作家である。劇作家ということであれば、なおさら『オイディプス王』を意識したのは間違いないだろう。だからこそ、描かれている戦争は匿名なのであり、ラストの事実はストーリーを盛り上げる為ではなくて、象徴的なものなのである。

憎しみの連鎖の挙句、究極の罪に手を染めることになる母と子。最悪の真実に打ちのめされてなお最後に赦しを与えようとする母は、負の連鎖を乗り越えられたと言えるのか。その結果生まれた双子が母から受け取った愛の手紙を読むラストシーンが、微かな希望の光を暗示するようで痛かった。


書評・新書『父が子に教える昭和史』 柳田邦男ほか

最近、太平洋戦争直前の大正から昭和初期の歴史について興味がある。経済や社会の状況からして、現代の日本ととてもよく似ていると思うからだ。

しかし、日本の学校では近現代史を十分に教えないし(小中高とも時系列にそって勉強していくので、三学期には時間が足りなくなって受験対策のドサクサに紛れて終る)、しかも教え方がとても偏っているので、そもそも基礎知識が不足していたり、根本的な勘違いや思い込みで、自分の無知に途方に暮れてしまい、どこから手をつけてよいのやら・・・

日本の一般的傾向として「太平洋戦争がどれほど悲惨か、どれほどバカげていたか」ということについての情報や書籍には事欠かないが、「なぜそんな悲惨でバカげた戦争に至ったのか」ということについて示唆してくれるそれは驚くほど少ない。

そんなこんなで、まずは、太平洋戦争に纏わるあれやこれやを、時代と共に生きた36人の方が語ってくれた新書を、ざっと読んでみることにした。

南京事件やパール・ハーバーなどの戦争ネタは勿論のこと、シベリア抑留や北方領土、天皇人間宣言や日本国憲法創案に到るまで、様々なタイトルが並んでいる。新書形式で浅く広く、という点は否めないが、それでも、現代の私達には目から鱗というか、生の声で語られる戦争の姿は、戦後の教育やマスコミによる単純化されたイメージとは随分かけ離れている。

改め色々な角度から眺めてみて思うのは、戦後の教育で植えつけられた「戦前の日本は狂信的国家でとち狂っていたのであんな戦争をしたのだ」的イメージがいかに誤っているか、ということである。

確かに日本はアメリカと互するには余りに貧しくて開発が遅れていたかもしれないが、短期間で零戦や戦艦大和を仕上げた技術力は驚愕に値するし、天皇を神と崇める狂信的な軍事国家一辺倒だったわけではなく、軍部にはエリート中のエリートが揃っていたし、大正デモクラシーによって民主主義の萌芽もあったし、多くの国民もただ一途に狂信的だったわけではなく、このような戦争の無謀さを知りながらも敢えて特攻に志願するような若者が多かった。

それなのになぜ、こういう戦争が起こってしまったのか、というところに一番重要なポイントがあると思う。

「今は正気に戻った私達なので、こんなことをはもう二度と起こらないのだ」という自己欺瞞で問題を片付けようとしている限り、絶対に本質が明らかにならないポイントが。


幕僚たちの思想と行動から言えることは、それぞれの転機において「合理的」とみえる判断を下しても、それが合わさった結論は「非合理」になりうるということである。

そして転機における選択の多くは、情勢の客観的分析から導かれたというより、官僚的「作文」合戦の結果であった。幕僚たちは自分の組織によって都合のよい「作文」を作成することに鎬を削った。そして勝ち残った「作文」が、既定の国策として一人歩きし、次の国策決定の基礎となるという繰り返しが、誰も望まない悲劇を招いた。作文に依存する官僚主義の惰性は、中枢官僚が有能で組織が巨大であるほど大きな過誤をもたらすものである。そう、エリート幕僚たちは、結局、「官僚」だったのである。そして個々には優れた官僚たちが、局や省といった集合体となると、局益や省益を第一と考え、国益をあやまることは戦前も今も変わらない


書評・小説 『宇野千代聞書集』 宇野千代

ここのところ、海外文学作品の翻訳調の文体が続いたので、少し対照的なものが読みたくなった。
平凡社ライブラリーのこの文庫には、宇野千代の「人形師天狗屋久吉」「日露の戦聞書」「おはん」の3作品が収められている。全て、主人公の「語り」のスタイルをとった作品だ。
宇野千代は、数年前に実家の本棚にある古い『おはん』の文庫を何気なく読んでみて、「これはすごい」と思った。
再読した「おはん」がやはり一番素晴らしかったが、「人形師天狗屋久吉」も「日露の戦聞書」も、思わずひきつけられる語り口調が見事な作品だ。
「人形師天狗屋久吉」は、70年間浄瑠璃人形をつくり続けた実在の名人人形師が、自分の半生と人形づくりへの想いを語る、というもの。3人目の娘のことを「ああ、名前も忘れて了うた」とか、死んだ妻のことを「さあ、いつ時分に死んだのであったのやら」とか言う、のんびりとしたおじいさんの語り口調は、日本文学にありがちな、ストイックで頑固な職人的イメージを、ある種破壊するものだ。それでも、70年間一日も休まず人形をつくり続ける人形師の職人根性は凄まじい。その凄まじさをストレートには感じさせないところが、「語り」のミソのような気がする。
日本文学にありがちなイメージを壊す、という意味では、「日露の戦聞書」という作品も同じ。こちらはタイトル通り、日露戦争に軍医として従軍した舅への聞き語りを綴った作品。戦争ものにありがちな悲惨さや残酷さ、或いは政治的・歴史的省察などがこの作品には一切ない。極めて卑近で、生活感があって人間的な戦争の様子が、至極飄々としたある種ユーモラスな口調で語られている。兵士たちが、何を食べ、何を喜び、いかにわけがわからないままドタバタしながら従軍し、戦争が進んでいったか。そして、暗く重たい言い方はしていないのだけれど、その合間に確かに人は死んでいく。これも、ある意味戦争というもののありのままの姿だなあ、と、ちょっと目から鱗が落ちるような気持ちになる作品。
そして、「おはん」は語りの美しさと柔らかさが秀逸で、結末を知っていながらも語りに引き込まれて最後まで読んでしまった。前妻おはんと、その妻を捨てる原因となった元芸者のおかよとの間で揺れるどうしようもない男の話。単なるだらしない二股男の問わず語りなんだけれど、それが不思議に哀れで切なく、人間の情念の深さ、おろかさがしみじみと感じられて、胸が苦しくなる。
それにしても、初めて読んだ時にも、おはんというただただ哀れな女には、なぜか不憫な気持ちよりも、気味が悪いような印象をもったことを覚えているが、今回もやっぱりどこか不気味な女だな、と思った。自分を捨てた男に再びいそいそと抱かれに行き、元々はれっきとした妻であり実の子供までいながら愛人のような立場にじっと耐え、男のはかない約束を一途に信じてついてきた挙句、息子を死なせ、男にも騙されて黙って去って行く。
主人公の男も、おはんから男を奪ったおかよも、どうしようもなく業の深い人間なのだが、なぜだか私にはおはんが一番業深い女に感じられる。間接的とは言え、両親のごたごたのせいで小さな命を落とした息子についても、「亡うなりましたあの子供、死んで両親の切ない心を拭うてしもうてくれたのや思うてますのでござります」とさらっと言ってしまう怖さ。
最後に、全く恨み言を言わず、自分は身を隠して二度と男に会わない決心を告げるおはんの手紙に、男が一瞬「逆恨みに打って打って打ちすえてやったらば」というほど怒りを感じる気持ちが、なんとなくわかるのだ。おはんのその行為によって、男は自分一人が一生抜けられない、業深い世界に取り残されたような気がしたのではないか。おはんの柔らかい体と細い目となよなよとした態度に魅せられて、情欲の深い泥の中にもろとも身を沈めていた男であったのに・・・と、これはちょっと男を弁護しすぎだろうか。どうしようもない男のこころの弱さを、女の読者にまで体感させ納得させてしまう、これが「語り」の感情移入のすごさなのかもしれない。