映画と文学一覧

クリスティーナ女王

スウェーデン女王クリスティーナ。本名はクリスティーナ・フォン・シュヴェーデン(後に改宗してクリスティーナ・アレクサンドラ)。1626年ヴァーサ朝スウェーデン王のグスタフ・アドルフの子として生まれ、父王の死後、わずか6歳で即位。 続きを読む



書評・小説 『テレーズ・ラカン』 エミール・ゾラ

エミール・ゾラ初期の中篇小説。2019年春の岩波文庫リクエスト復刊。1953年、マルセル・カルネ監督作品のフランス映画『嘆きのテレーズ』の原作となっている。

19世紀のフランス・パリの裏街。単調な暮らしに倦み肉欲の虜となったテレーズは、夫の友人であり愛人でもあるロランと共謀し、夫を事故死に見せかけて殺害する。周囲の祝福を受けながら再婚し全ての希望を叶えたように見えるテレーズとロランだが、殺害したカミーユの亡霊に怯え、愛欲は消え去り、いつしかお互いを憎むようになっていく。

ゾラのいわゆる「自然主義」の出発点となったとされる小説で、テレーズとロランの心理描写、その細かい心と精神の動きが物語の中心になっている。巻末に掲載された「再版の序」でゾラはこう述べている。

私は『テレーズ・ラカン』で、性格ではなく、体質を研究しようとした。この本のすべてはこの点にある。あくまで神経と血にもてあそばれる人物を選んだ。・・・私の目的は、何よりもまず科学的な目的だった。・・・そこで、私は異なるふたつの体質が結びつくとき、どういう特異なケースになるかを説明しようとした。・・・この小説を注意して読んでいただきたい。そうすれば、一章一章が生理学の興味あるケースの研究になっていることに気がつかれるだろう。

この文章からも分かる通り、ゾラの「自然主義」とは、解剖学とか化学とかの科学的な手法や考え方を、文学にあてはめようとしたことから生まれている。そこには、「啓蒙の時代」から引き継いだ、科学万能主義、合理性崇拝主義のようなものがあって、現代の人間からすると少々的外れの感覚すら覚える。

以前、エミール・ゾラの『制作』の記事でも書いたのだが、「遺伝」や「体質」といった、当時は非常に科学的であると考えられていた要素を強調し過ぎていて、返って「不自然」に感じてしまうのだ。実際、ゾラが強調しているほど、テレーズとローランの心理や行動が、体質からくる化学反応みたいに自動的で自然には、私には感じられない。カミーユを殺害した直後に1年間もなりを潜めて貞淑に暮らす様子や、再婚したその夜から、カミーユの亡霊に悩まされて一度も肌を触れ合うことができないところなど、あんまりリアリティがあるようには思えない。

現代では少々余計に思われる「科学的な手法」に違和感を覚えつつも、ゾラの小説が今なお魅力的に面白く感じられるのは、切り取られた場面場面のリアリティの見事さと、物語や登場人物の躍動感が生き生きと迫ってくるからだ。『テレーズ・ラカン』は、体質的実験には成功したとは思わないが、人間の感情や情念がいかに一時的で儚いものか、というリアリティを描くことには完全に成功していると思う。

「再版の序」でゾラが述べている通り、当時は、この物語がスキャンダラスで不道徳だと世間の顰蹙を買うような時代だった。科学や合理主義を標榜しつつも、キリスト教的道徳観がいまだ強く残る時代において、恋愛や性愛に神聖さを一切認めないとする徹底した姿勢は、見事というしかない。その強さが、ゾラの作品の「凝縮された不変の人間性」みたいなものを形作っているのだと思う。


書評・小説 『異人たちとの夏』 山田 太一

私にとって季節感と読書というのは結構大事で、特定の季節に特定の本を読みたくなる。特に夏を感じたい本というのはたくさんあって、先日記事を書いた池澤夏樹さんの『カイマナヒラの家』なんかもそうなのだが、シドニー・コレットの『青い夏』とか小川洋子さんの『ホテル・アイリス』とか、毎年のように読み返してしまう。この小説は、ちょっと違った感じの「夏」、私にしては珍しいちょっとホラーな「夏」を感じる本として、気に入っている本である。

『ふぞろいの林檎たち』など多くのヒットドラマを手掛けた脚本家山田太一さんが1983年に発表した小説で、第一回山本脩五郎作を受賞、映画化もされた名作である。離婚したばかりで仕事場のマンションに1人住み込むことになったシナリオライターの男性が、同じマンションに住んでいる不思議で魅力的な女性と知り合ったり、幼い頃交通事故で亡くなった両親と故郷の町で再会したりする一夏。

数年ぶりに読み返してみて、主人公の中年男の孤独と哀愁が、ぐっと胸に染みたのはさすがに自分が歳をとったからだと思う(笑)。中年男の脚本家が書いた、中年男のシナリオライターを主人公とした物語なのだから、その孤独と哀愁には自己憐憫と自己陶酔的なものが混じっていそうだが、それすら客観視するような一種のドライさと相反する人情味が両立していて、文章の歯切れもよく、読んでいる者を最後まで惹き付けて離さない。

P59

なんという生活をしているのだろう。次々と目前に現れる出来事に反応し、一時的に興奮し、しかしそれらは次々と遠くなり蓄積にはならず、また私は次々と新しい日に反応して成熟もなく、気がつくとおいさらばえているのだ。

P137

無論それは親が悪い。親としても亭主としても俺が悪い。なにもかも悪い。本気でそう思っているわけではないが、窓から夜景を見て、自分を黒く塗りつぶしていると、小さな快感があった。

全体として不思議な怪奇譚には違いないのだが、あんまりそういう感じをさせないでいて、物語の最後の最後で突然ヒヤっとホラーな展開になるところも好きである。そういう意味では起承転結がはっきりしたストーリーなのだが、大円団とならないところも憎い。うまくいかない息子と打ち解けるわけでも、幽霊となって(かなりお門違いな)恨みを晴らそうとしていたケイと和解するわけでも、主人公の孤独が去るわけでもない。ハッピーエンドではないのに温かみの残るラストである。

あと、歳くってからこの小説が面白いと思う理由はもう一つ、書かれた時代80年代感の漂う懐かしさである。主人公の業界の人たちのバブルっぽさ、主人公の住むマンションのオートロック機能をわざわざ詳細に説明していたり(当時は最新で珍しかったからだろう)、主人公が一人でレンタルビデオでエディ・マーフィーの新作を借りてきてビールを飲みながら見るところなど、なんとも言えず80年代でもはや新鮮でさえある。

調べてみたら、映画化作品の主人公役は風間杜夫、ヒロインの幽霊ケイ役は名取裕子と、これまた80年代を感じられそうなキャスティング。両親役片岡鶴太郎と秋吉久美子というのもぴったりでないか。あまり邦画に興味のない私でも観たくなる。そんな懐かしさで心を動かされているあたりが十分おばさんである。