村上春樹一覧

書評・小説『風の歌を聴け』 村上春樹

言わずと知れた村上春樹のデビュー作である。

村上春樹の小説は一通り読んでいるので、こちらも10年以上前に読んでいるはずだが、それほど印象に残っていなかった。佐渡島庸平さんがWe are lonely, but not aloneの巻末に色々お薦めの図書を紹介していて、その中《最も繰り返し読んだ作品。村上春樹作品の中で、この処女作が最も好き。削れる一文を探そうとして読み返しても、どの一文も呼応し合っていて、どれも削れない。完成度がすごく高い小説だと思う。》と大絶賛していて、再読しようかなあ、と少し前から気になっていた。 続きを読む


書評・小説 『パンダ』プラープダー・ユン

先日読んだ『鏡の中を数える』が面白かったので、今度は邦訳されている長篇小説の方を読んでみた。私はこっちの方が好きなくらい、面白かった。

27歳で日本で言えばVシネ的映画制作会社のライターとして勤めていて、太っていて不眠症でいつも目の下に隈があるので「パンダ」と呼ばれているオタク青年が主人公。ある日突然彼は、自分が地球人ではなく遥か彼方の「パンダ・プラネット」からやってきた異星人であることを自覚する。家族しかり、数少ない友人知人しかり、現在の職場しかり、彼が現実社会との強烈な違和感を感じて生き続けていた理由はまさにここにあったのだと気づく主人公。近々訪れるはずの故郷「パンダ・プラネット」への帰還に向け、いけてない半生を省みつつ、地球に間違って生まれてきた同郷の仲間探しをする。

『鏡の中を数える』の登場人物もだいぶ変だったが、こちらの主人公も相当イタイ。だけど、自分が異星人であるという認識に置き換えられた「現実社会へのどうしようもない違和感」というのは若い人誰もが共感できる設定でわかりやすい。違和感を怒りや絶望や虚無感に昇華するのではなくて、ユーモアあり人情味ありで、現代的なドライさとどこかほんわかとした温かみのある物語なのもいい。

もともとタイ文学というものに興味があって読み始めたプラープダー・ユンの作品なのだけど、やっぱりあんまりタイという感じがしない。登場人物たちの名前や、作品中に出てくるちょっとしたタイ語の言葉遊び的要素、それから、主人公の父親が警察官で息子の目前であわや賄賂の受取をしてしまいそうになるところとか、ひそかに主人公に思いをよせるインがいつもおやつとしてチョンプーやらマンゴーやらを用意しているとかのエピソードぐらいしか、読んでいてタイを感じさせるものがないのだ。

(ちなみに「チョンプー」というのは、英名ローズアップルと言って、林檎と梨の中間のような食感と味わいがする果物で、シャリシャリという食感と爽やかな甘みが癖になる。駐妻友達で日本に帰ってきて「チョンプー・ロス」を起こしているくらいハマっている人もいた。ちなみに私は、日本で言う「ザボン」、タイでは「ソム・オー」と呼ばれる、これまたグレープフルーツとオレンジの合いの子のような果物にハマっていた。どちらもメジャーな果物だが、タイにはとかく魅力的なフルーツが多い。)

『鏡の中を数える』と同じで、これが東京を舞台にした小説でも全然違和感がないと思ってしまう。それどころか、村上春樹と村上龍の若い頃の作品に、吉田修一と森見登美彦テイストを加えたような感じだなあ、なんて感じる。それくらい、日本の現代作家の作品に近い感覚が味わえるのだ。それがタイ人作家によって描かれているというの実に面白い。

オタクっぽくてだらしない体つきでそこそこ恵まれた家庭に育って甘やかされていて、アディダス様のスニーカーにユニクロ様の服を着て(実際はコピーかもしれないし、ノーブランドかもしれないが、それは関係ない)、可愛子ちゃんに振り回されてフラれたり、イケてない同僚の女の子に告白されたりしながら、違和感溢れる現実社会を生きていく。そんな「パンダ」くんは、どこの都市にもいる。そういう風土やら歴史から国籍やら、色々取り去られてしまった剥き出しで軽やかな「個」が描かれる時代。プラープダー・ユンがポストモダンの作家って言われるのは、そういう意味なのか、と、なんとなくわかったようなわからないような感じである。でも、村上春樹が世界中で読まれ、アメリカで教育されたタイ人作家のプラープダー・ユンが日本人の私にとても面白く感じられるのは、きっと同一線上にあることなんだと思う。


書評・小説『カイマナヒラの家』 池澤 夏樹

大好きな本。小説と言っていいのか、芝田満之の素敵な写真と共に、池澤夏樹の趣ある文章で語られるショートストーリーの数々をまとめた、まるで詩集と写真集と小説の間にあるような本だ。

池澤夏樹は結構読んでいるのだが、長篇小説よりも、『きみが住む星』とかこの『カイマナヒラの家』みたいなジャンル特定が難しいような作品が一番好き。でもエッセイも良いし、『スティル・ライフ』みたいな短編小説も大好きだし、最近では世界文学全集でも日本文学全集でもお世話になっているし、とにかく多才で博識な方であり尊敬してやまない作家さんである。

舞台は、ハワイ・ホノルルのカイマナヒラ=ダイヤモンドヘッドのふもとにある古い一軒の家。そこに管理人として住み込んでいるロビンとジェニー、そしてハワイとサーフィンに取り憑かれて日本から暇をみては飛んで来る「ぼく」たちをめぐる物語。

たった1、2時間で読み終わってしまうくらい短い話なのだが、夏が近づいてくると読み返したくなる。ステキなステキな大人のお伽話。彼らが住んでいる家は、ハレクラニホテルも手がけた有名な建築家チャールズ・ディッキーが設計した古びてはいるが、クラシックな大邸宅。そこに、一時的な修繕と管理のために住むことになったロビンは、ハワイ原住民のエリート出身で、今はヴィンテージ・アロハの仕事をしていて、VWのマイクロバスとゴーギャンの絵の複製をコレクションしていて・・・と、色々出来過ぎではあるのだが(笑)、現実感なんてこのステキなお伽話の前では二の次である。初めて読んだ時は、たぶん、主人公たちより若いくらいの年代で、今回読んだのはもうその歳をだいぶ超えているから、自然と読後感は少々異なってくる。それでも、「いいオトナがこんな暮らしできるかいな」なーんて、羨ましさ半分しかめつらしたくなるオジサンオバサンの口を優しく封じてしまうような不思議な魅力がある。

「サーフィンに出会えたら、それでその人生はもう半分は成功なのよ」

ジェニーのこの言葉はずっと忘れられない。私はサーフィンはリゾート地で数回経験した程度だけど、サーフィンの魅力は、本当にうっかり人生を変えてしまうくらい奥深いものだと思った。

こういうことって、言葉じゃないんだよね。 言葉にならない。 水の上にいると何も考えない。・・・ イメージはきまっているんだ。 着実にやるだけなんだ。 そうなるまでに百回も千回もトライする。 千回やっても、相手は波と風だから千回ぜんぶ違う。 結局あらゆる条件を経験することになるのさ。そこでイメージが生まれる。

こちらは、ジェニーの恋人ミッキーがウインド・サーフィンについて語った言葉だが、「言葉にならない」と言いながら、さすが池澤夏樹は的確に表現していると思う。

蛇足だが、お話の中で出てくる彼らの食事がとっても素敵で、それも私がこの本を好きな理由の一つかもしれない。ちょっと立ち寄った知り合いの有名なサーファーのおうちでつくってくれる、お庭のハーブをたっぷり使ったアルデンテのスパゲティ。みんなが集まるディナーにそなえて、午前中から広いキッチンで粉を捏ねて準備するピザ。メニューはその自家製ピザとローストビーフとたっぷりのサラダ。本当にさりげない描写なのだけど、お伽話には美味しい描写は欠かせないのである。村上春樹が好きな食いしん坊には、きっとこちらも気に入っていただけると思う。


『ラオスにいったいなにがあるというんですか?』 村上 春樹

村上春樹の旅行エッセイと言えば、大好きな『遠い太鼓』をはじめ、『辺境・近境』『雨天炎天』など、思わず全てを投げ出して旅に出たくなってしまうので、出産後には意図的に避けていたのだが…この本は、雑誌のコラム的なものを纏めたということもあり、かなりマイルドな、ややありふれた感さえあるフツーの旅行エッセイでした(笑)

でも、さすが美食家の村上春樹氏、話題の街ポートランドやトスカーナのワイナリー巡りなど、かなりフツーのエッセイながらも、やっぱり美味しそうでそそられる。私は、村上春樹の小説に出てくるなにげない食事シーンが大好きで、特に、主人公が食べるサンドイッチが格別に美味しそうで、サンドイッチが大して好きでもないのに思わず食べたくなってしまうのを常々不思議に思っていたのだが、『遠い太鼓』を読んで、村上春樹氏の美食家ぶりに納得したのである。 『遠い太鼓』があまりに好きだったので、今回、それを踏まえて20年ぶりのギリシア再訪紀行があるのだが、そちらの覇気の無さにはなんとなくガッカリしてしまうのだが…私としては、小説も、『ダンス・ダンス・ダンス』とか『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』とか、昔の作品の方が勢いがあって好きで、最近のはちょっと物足りないんだなあ。。。 などと言いつつ、村上春樹の文章の魅力には勝てず、『1Q84』も一気読みしたし、この本も、アイスランドやフィンランドといったちょっと変わった場所のエッセイもそれなりに面白く読み、さすが著者の真の愛情溢れるニューヨークのジャズバー巡りやボストン野球エピソードなど、ジャズにも野球にも微塵の興味もないくせに行ってみたくなる私であった。

ということで、多分、そろそろ『騎士団長殺し』も購入してしまうことでしょう…


『騎士団長殺し』  村上 春樹

村上春樹は好きなのである。もともと、『ダンス・ダンス・ダンス』や『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』などの長篇小説が大好きで、それから短篇やエッセイを読むようになってまた好きになった。

だけど、一番最近に読んだ彼の本『ラオスにいったい何があるというんですか?』のレビューで書いた通り、なんだか最近の村上春樹の本に、勢いと魅力を前ほど感じなくなっていた。

そして、この最新作である。

はっきり言って、もう村上春樹の長篇小説はこれで最後かもな・・・と思ってしまった。

それくらい、なんというか、私にとって魅力の無い作品だったのだ。

一言で言うなら、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の出来損ないみたいな作品。シュワっとはじける炭酸の抜けた『ダンス・ダンス・ダンス』。村上春樹の長篇ではお馴染みの仕掛けが出てくるところに、魅力ではなく「またか」という気持ちを感じてしまう残念さ。

まず何よりも、70歳近い作者が30代の男性主人公を現代の設定で描く、というところに無理があるのだと思う。今回は特に主人公が30代後半、自分と同年代もしくは少し若い年齢ということもあり、そこがすごく気になってしまった。30代後半の男性が、ミレニアムも10年以上経過した現代で、インターネットも全く使わず、アナログ音楽や車へのこだわりを垣間見せると「いやさすがにこんなやついないでしょ」と、作者の時代感覚のズレを感じざるをえない。何も、大河ドラマの時代考証をうるさく言うおじいさんみたいなことをしたいわけではないし、村上春樹の小説にリアリティなんか求めちゃいないのは百も承知だが、そういう時代感覚のズレが、村上春樹の小説主人公に重要な「軽さ」にも、極度の違和感を感じさせてしまうのだ。だから、ストーリーにも素直にノッていけない。主人公と同年代の友人雨田が、車のカセットデッキでデュランデュランを聴いていたり、やはり同年代の秋川笙子がヘレンボーンのジャケットにミッソーニのスカーフを巻いていたりするといちいちひっかかってしまう。

結局、70歳近い大御所作家が主人公の中に「軽さ」を演出する、というのは無理な話なのだ。だから、若い頃の作品の焼き直し的なことになってしまうのではないか、と思ってしまう。そして、もともとは村上春樹作品の魅力であったいろいろなもの・・・「まるで~みたい」というユーモラスなたとえ、なにげない食事や家具調度などのディティール描写、突然赤裸々に語られるセックスシーンなどなど・・・が、全部とってつけたようなものに感じられてしまう。

『1Q84』でも感じたが、話がよりわかりやすく、具体的で直接的な言葉で語られるようになっているのも面白くない。これは企画サイドの意向なのだろうか・・・

村上春樹は、それだけ歳をとり、大御所になってしまったのだ。もう「軽さ」では読者を惹き付けられないのではないか。『騎士団長殺し』には、南京大虐殺や第二次大戦についての(今までの村上作品よりはかなり具体的な)記述があり、これはこれで物議を醸している。史実の正当性の問題はひとまず置くとして、作者がここに今まで以上に踏み込んだこと、今までの「軽さ」を捨てて、歴史的見解あるいは社会的メッセージを出していこう(今までの作品はそれらが希薄であったことが魅力であったことは百も承知の上で)としたことは、理解できる。でもそのやり方が中途半端なのではないだろうか。やるなら、今までの「軽さ」は捨てきって180度の方向転換が必要なのだ。こんな昔の若い頃の作品の焼き直しみたいなことでお茶を濁していても、今の若い人たちはもちろん、結局、今まで村上春樹を読んできた中年層にも共感は得られないように思う。

まあ、ここまで好き勝手言っておいて何だが、売れる作家になる、ということは、とてもとても大変なことなんだなあ、としみじみ感じた作品でもあった。それくらい、私は、村上春樹の作品が好きなのである、作品もそうだし、彼の文章がとてもとても好きなのだ。だから、これからもエッセイや短篇は読むと思う。「これぞこの作家の魅力」ともてはやされていたものが、いつのまにか読者に陳腐に感じられるようになってしまう。そういうのって本当にこわいな、と思う。売れる作家になんてなりたくないなあ、などど、全くする必要のない心配をしてみたりするのであった。