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レビュー・映画 『つぐない』

2007年公開、イギリス、フランス、アメリカ制作。『プライドと偏見』で評判の高かったジョー・ライト監督とキーラ・ナイトレイのコンビ第2弾。第65回ゴールデングローブ作品賞、第80回アカデミー賞では7部門にノミネートされ、やはり『プライドと偏見』で音楽を担当したダリオ・マリアネッリの作曲により、作曲賞を受賞した。 続きを読む


書評・小説 『土曜日』 イアン・マキューアン

現代作家で次の作品を読むのが楽しみな作家の一人。

タイトル通り、午前4時の突然の目覚めから始まった、中年の脳神経外科医の男にとってのある土曜日の刻一刻を、濃密に描く。ロンドンに住むある中年男の土曜日一日を描くことで、現代に生きる人々の不安や不条理、戦争、社会的格差、家族、孤独、老い、ジェネレーション・ギャップ・・・あらとあらゆる要素が、この物語の中に凝縮されている。作品の中で、才能ある若き詩人である主人公の娘が、アンナ・カレーニナボヴァリー夫人について述べているように、まさに「神は細部に宿る」ということを体現している。

イアン・マキューアンの語り口は、いつもとても濃密なので、読者はストーリー展開と溢れるディティール描写に巻き込まれて、小説を読む陶酔感にどっぷり浸れる。何と言うか、小説らしい小説を読む楽しみ、みたいなものがあるのだ。

この作品は、特に全体の濃密なディティール描写にうっとりとさせる一方で、ストーリーは何となく不穏なものを含みつつゆっくりと進行し、結末では突然、スリリングでスピーディな展開をするという見事なテクニックが心憎い。作者の意図通りで少々癪なくらい、その鮮やかな対比が読者の心を打つ。

マキューアンの作品を読むのは、贖罪『初夜に続いて三作目だが、翻訳されている長篇ものは是非とも全部読んでたい、という気にさせられた作品だった。

〈参考〉

江國香織さんの書評はこちら



『浮世の画家』 カズオ・イシグロ

実は読むのは3度目。カズオイシグロの作品は、いかにも海外文学らしいというか、本当に繊細で微妙な作風なので、レビューするのをついつい怠ってしまい、結果、なんの話だったかすらあまり覚えてなかったり…(笑)この手の作品って、ただ物語に乗って漂っているのが最高に気分が良くて、読後に分析したり語ったりすることで、何かが損なわれるような感じがしたり(←言い訳)

今度こそ、と重い腰を上げてレビューしてみよう。先日読んだ『遠い山なみの光』と同じく、戦後を舞台にした物語。もっと正面切って「戦争」をテーマにしているが、なんというか、カズオイシグロの場合は、戦争はあくまで歴史的なものではなくあくまで個人的なテーマに還元されている。歳をとってくると、そこが、なんとなく物足りないような、踏み込み方が足りないような感じもするのだが、逆に、その個人の感情や人生の機微を見事にすくい取って繊細に描ききっているところは見事。

戦時中には自らの信念に基づき、若者の戦意を鼓舞する絵を描き、道を外れた弟子を正そうとするあまり、特別警察に密告するような結果になってしまった主人公。

《軍の将校、政治家、実業家」…「連中はみんな、国民をあんな目に遭わせたと言って非難されている。しかし、俺たちの仲間がやることはいつもたかが知れていた。きみやおれみたいなのが昔やったことを問題にする人間なんてどこにもいない」》

こういう言葉の中に、一種の甘さがあって、読む者は何か釈然としない気持ちにさせられる一方で、主人公の家族との細やかなやりとりが繊細に描かれて、グッと感情移入させられてしまう。

中でも、孫の一郎とのやりとりは印象的で、物語の終盤、幼い一郎にした一口お酒を飲ませてやるという約束が、娘たちの強硬な反対により反故にされてしまうシーン(そんなところにも、老画家の権威の失墜が象徴的に描かれる)は、ホロリとさせられる。

《「ママがおさけをのませてくれなかったこと、しんぱいしなくていいからね」「おまえは急に大きくなったな」と、わたしはまた笑いながら言った。》

人間の弱さはかなさを厳しく追求しきってなお優しい物悲しさが、カズオ・イシグロの作品の底辺には流れていると思う。


『ロビンソン・クルーソー』 ダニエル・デフォー ②

『ロビンソン・クルーソー』は、ニーチェが「神は死んだ」と宣う200年近くも前に書かれた小説であり、娯楽小説と言えども、やはりそこには敬虔なピューリタン思想が全篇に満ちている。主人公のロビンソンは繰り返し神の救いと刑罰に言及し、長い孤独な生活の中でやがて本当の神の教えに目覚めていく。

そういう宗教的な基調とは別に、この物語には、孤島に漂着した主人公が、家屋、家畜、小麦やパン、土器に至るまで生活に必要なあらゆるものをどのように一人でつくり調達したのか、その様子が実に細々と書かれている。何もここまで、というくらいに細々と書いているのは、たとえ創造小説であっても、出来るだけ科学的・実証的に物語を描こうという、当時の啓蒙主義的考えの表れだろう。はっきり言って読んでる私は食傷気味になるくらいなのだが、これが、アウトドア好き&仕組み好きの世の男性読者の興味を惹き、この本が長年愛されてきたゆえんなのかもしれない。

それから、先に述べた突然の貸借対照表の他に、物語終盤で、ロビンソンが所有するブラジルの農園の所有権や利益分配についてのやたら詳細な記述も印象的である。物語のクライマックスでこれ?と思うくらい、具体的な法的手続きについての詳細な説明が並ぶのだ。『ロビンソン・クルーソー』は、18世紀初めに書かれたフィクションでありながら、西欧の資本主義の萌芽が如実に現れた経済史的史料としても興味深い作品なのである。

と、ここまでダラダラと書き連ねて何が言いたいかと言うと、この古典的名作には、西欧近代の敬虔なピューリタニズムと共に、明らかな啓蒙主義、合理主義、そして資本主義的考え方が見事にないまぜになって成立しているのである。これらが矛盾なく両立しえることの違和感というのか不思議さというのが、私にとってはある意味長年のテーマでもある。その不思議さを解明したくて、マックス・ウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』を読み、ジェイコブ・ソールの『帳簿の世界史』を読んでいるのだが、その不思議さは増すばかりである。

そして、これらの行き着く先に植民地主義がある。植民地主義は、グローバル資本主義と壮絶な格差社会として現在に生き残っている。そして、もちろん『ロビンソン・クルーソー』には植民地主義も顕著に現れている。

面白いのは、ロビンソンが食人を習わしとする蛮族を激しく軽蔑しながらも、それを許されている神の摂理との整合性に悩むシーンがあることだ。そして、たとえ食人が忌むべき風習であっても、神がそれを許している限り自分が彼らを裁く権利はないのだし、自分が攻撃されたわけでもないのに蛮族だからと言って無分別に殺すようなことは正しくない、として、スペイン人が行ったアメリカ原住民の大虐殺を厳しく批判しているのである。

しかし、ロビンソンの高邁な思索はそこでストップしてしまう。そして、自分の保身のために実際には攻撃される前に数多の蛮人を殺害し、食人の生贄とされかけていた蛮人の1人を救出して絶対服従の上に改宗させ事実上の奴隷にしてしまう。そこには一片の良心の呵責もなく、物語は大円団に向かう。敬虔なピューリタニズムと合理主義と啓蒙主義と資本主義とそして植民地主義の圧倒的勝利である。

小説の古典的作品が常にそうであるように、『ロビンソン・クルーソー』も、社会史的史料としても思想史的史料としても十分に参考になる作品である。