高階秀爾一覧

書評 『バロックの光と闇』 高階 秀爾 ②

バロックを反「古典主義的なもの」と定義し、その対比から特質を捉えることは《便利》だが、一方で、ヴェルフリンのような概念化は《うっかりすると図式化する危険性がある》。実際のバロックは、反古典的様式という概念には収まりきらない、豊穣で複雑なものをもっているのである。単純化した説明の後で、高階先生は、バロックのもつ「写実性」「光」「装飾性」「浮遊性とダイナミズム」「都市空間と建築」「演劇」「音楽」など様々な観点から、その奥深さを分析している。

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書評 『バロックの光と闇』 高階 秀爾 ①

先日、名古屋市美術館の『カラヴァッジョ展』に行き、ミュージアムショップで購入した一冊。小学館版『バッハ全集』全15巻に、「バロックの美術」として掲載した文章をまとめたものだが、タイトルは高階先生の代表的名著『ルネッサンスの光と闇』になぞらえたものだろう。

『ルネッサンスの光と闇』のような大著というのではないが、連載式でも毎回違った観点からバロック美術を扱っており、さすがバランスのとれたわかりやすい解説書になっている。わかりやすく単純化した「バロックの定義」と、古典主義、マニエリスム、写実主義、ロココ美術、ロマン主義とも深く関わりをもつ多義的で複雑な「バロックの奥深さ」の両方を、読者に提示してくれているのだ。

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『聖と俗 分断と架橋の美術史』宮下 規久朗

宗教美術の専門家である宮下規久朗氏の論文をまとめたもの。タイトルに惹かれてよんでみたのだが、予想以上に面白かった。

まずなんと言っても、バロック美術をカトリックのプロバガンダとして分析している点が興味深い。バロックというと、その豪放さから絶対王政との強い結びつきを連想してしまうのだが、元々は、宗教改革後弱体化するカトリック教義を広めるために、《バロック様式は何よりもローマ教皇たちの下で生み出されて世界中に波及したものである》という。

《画像の伝播の速さとその効力をイエズス会は布教に最大限に活用した》

このような映像的プロバガンダが効果的であったのは、聖書の言葉や解釈によって理論的に神に近づこうとするプロテスタントに対して、カトリックがいかに人間の感性や情動に直接訴えかけるような方法をとったか、ということを示している。

《イエズス会創始者イグナチウス・ロヨラによる『霊操』では、キリストが地上で行ったすべてのことは、神の神秘を啓示するためのものであり、キリストの生涯を、自ら観想によって体験すべきであるとした。聖なるイメージを瞑想することの有用性と、感情と想像力を奨励したこうした教義は、必然的に美術の役割を強化し、それを写実的で再現的な正確に方向付けることになる。》

サン・ピエトロ大聖堂とヴァティカン宮殿、或いはウルバヌス8世に代表されるような歴代教皇たち及びその親族たちのパラッツォを壮麗に飾り立てた壁画や彫刻たち。著者は「イリュージョニスティック」という言葉でその特色を言い表しているが、民衆に神と教皇の力を誇示し、或いは幻惑的な宗教的一体感や情熱を鼓舞することにかけて、カラヴァッジョやベルニーニらバロック美術家の右に出る者はいないだろう。

《カラヴァッジョの宗教画は、現実的でありながら、卑俗に陥らずに聖性を感じさせ、日常性ではなく超常的な奇蹟を見ている気にさせるものであった。》

カトリック=バロック芸術の文脈でなんと言っても印象的な作品は、ベルニーニの「聖女テレジアの法悦」である。高階秀爾は『芸術のパトロンたち』で、18世紀のフランス人旅行者がこの彫刻を見て「これが神の愛というものか、それなら私だってよく知っている」と皮肉ったという逸話を紹介してしているが、言い得て妙である。極度に高まった宗教的情熱と神キリストとの一体感は、もはや肉体的エクスタシーと同一視されてしまうほどに、生々しくエロティックだ。

宮下氏も、この「聖女テレジアの法悦」を「殉教の愉悦」の章で挙げているが、こちらは、聖セバスティアヌスと三島由紀夫との関わりを論じていて面白い。聖セバスティアヌス像に象徴される、宗教的情熱の極致とも言える殉教による死。それを愛好した三島由紀夫は、ただデカダンスな頽廃的な美意識以上に

《彼が生来抱いていた「死へのエロティックな衝動」や「流血への衝動」を具現化したものであり、・・・そこには、エロスとタナトスが結合し、肉体的な苦痛と霊的な愉悦が激しく交流するきわめてバロック的な美意識が見られるのである》

と結んでいる。

他にも、アンディ・ウォーホールとカトリック的イコンとの関係を論じた章、民間に伝わる絵馬、エクス・ヴォート、遺影などを奉納する風習を、民間信仰やイコンとの関わりから論じた章など、全て興味深い。特に後者については、著者の最愛の娘が早逝した後に書き下ろしたものであり、学術的な論文では敢えて踏み込まない「聖と俗」の隣接点を描いているという点で、非常に興味深いが痛々しくもある。


書評 『フランス絵画史 ルネッサンスから世紀末まで』 高階 秀爾 ②

ロマン主義やバルビゾン派が出てくるあたりから、革新的な絵画が「主題」ということの新しさと「表現」ということの新しさの二つの潮流に分かれていくところは、とても興味深い。ある時は、「主題」の目新しさが、斬新な「表現」を生むかと思えば、革新的な「表現」を追求することで、「主題」そのものが変化していくこともある・・・印象派の中でも、マネやモネが「主題」よりもむしろ「表現」としての新しさが意識されている一方、ドガやゴーギャンは、より「主題」の新しさに傾倒しているように思える。勿論、簡単に二分できるような問題ではないのだが。

 

また、ロマン主義が、いかに、次の時代の新しい芸術、「芸術家個人の感性」がクローズアップされる時代を準備したかについての記述も見事である。
《「悪の華」の詩人シャルル・ボードレールは、1846年のサロンを論じた批評の中で、ロマン主義とは何かという問題を提起して、「ロマン主義とは、主題の選択の中にあるのでもなければ、正確な真理の中にあるのでもない。それは、感じ方の中にあるのだ。」と断定した。18世紀の前半、特に20年代から30年代にかけて、フランスのみならずヨーロッパ全体を風靡したロマン主義運動は、さまざまの複雑な要因を含んではいるが、本質的には、ボードレールの言う通り新しい感受性の勝利であった。・・・ロマン派の画家たちは---そして画家のみに限らず、詩人や音楽家たちも---まず自己の感受性をよりどころとして、新しい美の世界を求めたのである。》
私の中では、「写実主義」を突き詰めた結果が、現実と完全にかけ離れた「印象主義」の絵画に繋がる、というのが、今まで感覚的にどうしても腑に落ちなかったのだが、ゾラの『制作』を読むことで心情的に、そしてこの『フランス近代絵画史』を読むことで理論的に、初めてそのことに納得できた気がする。
《印象派の立場は、自己を一個の「目」に還元して、外の世界を忠実に再現する「客観主義」であるといっても、ラフォルグが指摘するように、「この世の中に、器官として、または視覚能力として、全く同一の目は二つと存在しない」とすれば、その「客観主義」は、そのまま、それぞれの「目」だけの世界、すなわち、画家個人の、それもある瞬間における画家個人の世界という最も極端な「主観主義」に転化せざるを得ない。点一点の画面は、逃げ去ってもはやふたたび戻って来ないある特定の瞬間におけるきわめて特殊な視覚の記録であって、同じ画家でさえも、もう一度同じ対象を同じ視覚で眺めることはできない。・・・何よりも現実に密着していた筈の印象派の画面は、このようにして、最も現実から遠い幻影の世界に次第に入り込んでいく。そして客観的世界から主観的世界へのこのような転換こそ、近代絵画そのものの担った大きな運命だったと言えるのである。》


書評 『フランス絵画史 ルネッサンスから世紀末まで』 高階 秀爾 ①

印象派前後の歴史的推移を知るには、同じ高階先生の「近代絵画史」という新書がとてもわかりやすかったのだが、こちらはもう少しフランス絵画に的を絞った本である。
以前、「想像力と幻想」の記事でも書いたのだが、高階先生の本は、歴史の「流れ」とか「ダイナミズム」をとても大事にしていて、素人でもとてもわかりやすく面白い内容になっていまる。今回読んだ「フランス近代絵画史」もそう。個々の作品や画家にクローズアップするのではなく、文化芸術全体の潮流が、バロックからロココへ、そして新古典主義からロマン主義へ、と変化していくその歴史の「流れ」自体がわかるように書かれている。なので、高階先生の本を読むと、自分が思っていたのとは違うところに興味を惹かれたりする。印象派を知ろうとして、ロマン主義に興味を持ったり、バロック芸術の箇所に惹かれて読み進めていくうちに、ロココやマニエリスムの奥深さに目覚めたり。

 

それぞれの時代・流派を代表する画家について説明する文章が、そのまま、その時代や流派の特質及び歴史的本質を暗示しているところが見事である。

 

例えば、フランス古典主義を代表する画家ヴーエについての記述
《おそらくヴーエは、十七世紀フランスの画家のうち、イタリアのバロック藝術の持つ意味を最も良く理解し、その様式をフランスにもたらそうと努めた人である。その意味で彼はフランスにおける代表的バロック画家と言ってよいが、しかし同時代のイタリアの仲間たちに比べると、空間構成において、より合理的な秩序を志向する傾向が強く、また色彩もいよいよ明るく洗練されたものとなって、豊麗さを保ちながらも、晴れやかな装飾性を強調するようになる。このような傾向は、フランスに戻ってから以後の作品でいっそう顕著なものとなっていく。》
或いは、フィリップ・ド・シャンパーニュの、尼僧たちを描いた作品についての記述
《奇蹟は表面的に華やかに演じられるのではなく、内面化され、精神化されているのである。造形的な完成度とともに、その奥深い静謐さのなかに、われわれはフランス精神の勝利を読み取ることができるのである。》
偉大な画家プッサンについては
《・・・バロック的な激しさは本来彼の性格の重要な一部をなしていたものであった。プッサンの古典主義は、奔放なまでのその内面の激情を強い意志と理性の力によって統御し、抑制するという厳しい努力の上に築き上げられたのである。1630年代以降のプッサンの画業は、いわばそのバロック克服の長い道程にほかならない。》
このような、具体的な画家や作品についての鋭い批評を読むことで、初めて読者は、著者が言うところの《ヨーロッパ中にバロックの嵐が吹き荒れた十七世紀において、フランスだけが静謐厳格な古典主義藝術を生み出した秘密》に思い当たり、フランスの文化そのものの特色についての見事な論評に深く頷かされるのである。
《このような背景の中に生まれ育ったフランスの文化は、安定したバランス感覚と持続性の故に、成熟した内実を具えるものとなった。それは派手な技巧の誇示よりも節度ある落ち着きを好み、華やかな外面よりも充実した内面性を大切にした。明晰な合理的精神と、洗練された繊細な感覚性とをともに兼ねそなえ、一見もの静かな外観の奥に豊かな情念を秘め、抑制された激しさにも欠けていない完成された表現のなかに、フランスの文化は人間存在の全体像を凝縮して提示している。フランス精神の中心である「ユマニスム」(人間主義)と呼ばれるものは、まさしくそのような全体的な成熟した人間理解を基礎とするものである。》
バロックに打ち勝ったフランス精神が古典主義を生み、それは一方でロココのような繊細さ、新古典主義のような合理的で抑制された美しさに発展し、やがては、ロマン主義や印象主義のような、新しく激しい表現に開花していく・・・フランス絵画史の華麗な豊潤さを、凝縮された文章で見事に言い表していると思う。