『彼方なる歌に耳を澄ませよ』 アリステア・マクラウド

 

カナダでベストセラーとなった作品。18世紀末、スコットランドからカナダ東端の島々に渡ったハイランダー(スコットランド人)一族の物語。「赤毛のキャラムの子供たち」と呼ばれた、力強く逞しい一族の歴史が、その末裔であり、今は裕福な歯科医師として大成した「私」によって、100年前、祖父たちの若い頃、そして、自分の生い立ちなど、過去と現在を行ったり来たりしながら、淡々と語られていく。

「赤毛のキャラム」一族がたどり着いたのは、ノヴァ・スコシア州ケープ・ブレトン。地図で見ると、『赤毛のアン』の舞台となったプリンス・エドワード島の近くだ。このノヴァ・スコシア地域は、名前の通り(ノヴァ・スコシア=新しいスコットランド)、特にスコットランドからの移民が多く住んでいるところ。と言うことで、この本はモンゴメリファンにとって、非常に参考になる本である。アンに登場する人々がどのようにあそこに渡って来て、そしてどのように今に至っているのか。それを想像してみるのも面白いし、アンシリーズの中で、なぜ「赤毛」や「双子」や「目の色」などが、繰り返し重要な要素として登場してくるのかもわかる。ただし、この作品に登場してくる人たちは、モンゴメリの作品よりも、もっとずっとワイルドだ。もしレイチェル夫人が、「たとえば春の大掃除のとき、おばあちゃんはよく、梯子の上に立っているおじいちゃんの股間を後ろからさわった。」なんてことを耳にしたら卒倒してしまうだろう。
この作品を読んで印象的だったことが2つある。

 

1つは、スコットランドという土地の不思議さ。スコットランドとは、言わずもがな、イングランドの北にある高地一帯のことだが、独自の文化・風土・歴史がある。この本の「赤毛のキャラムの子供たち」も、自分たち一族の血統とともに、スコットランドの言葉(ゲール語)や歌などに、すごくアイデンティティを持っている。そして、スコットランドというのはどこか不思議な、ちょっとこの世とは一線を画したような土地、というイメージがあるように思える。
私がそれを強く感じたのは、『秘密の花園』や『小公子』などで有名な作家バーネットの『WHITE PEOPLE(白い人たち)』という本を読んだ時だ。バーネットはアメリカの作家だが、「WHITE PEOPLE」は、スコットランドを舞台にしており、文字通りこの世のものではない「WHITE PEOPLE」と交流できてしまう不思議な能力をもった女の子が主人公。「幽霊」と簡単に名づけてしまえない存在たち、さまよえる魂なのか、時の流れや生者と死者の境界線を超えてなお生き続ける情念のようなものなのか・・・そういうものが荒野のそこかしこに漂っているような土地である。この作品の中でも、主人公の妹が、スコットランドの土地に渡った時、不思議な体験をした、という話が出てくる。私はスコットランドの土地を実際に見たことが無いので、あくまで想像なのだが、そういう不思議なイメージが、スコットランドにはあるのだろう。
それからもう1つは、イギリスから北米に移住した人々の勤勉さ。モンゴメリの一連の作品やワイルダーの『大草原の小さな家』シリーズなどを読んだ方なら分かると思うのだが、イギリスから北米に渡ってきたプロテスタント派の人々というのは、本当に勤勉で、働き者である。余りにストイックな生活に、現代の大量消費・資本主義に染まったアメリカ人の姿は全く想像できない。カナダとアメリカを一緒にしてはいけないだろうが、もともとの移民、という意味ではそんなに違うとは思えない。

 

この作品の一族たちも、プロテスタント色は薄いので、大分くだけてはいるが、過酷な環境にもじっと耐え、一族の輪を守って実直に、勤勉に働いていることでは同じ。しかし、現代のいわゆる成功者となった「私」とその妹(エンジニアの妻で、カルガリーでモダンな家に住んでいる)と対照的に、ちょっとした運命の歯車の違いで、世間的な落伍者となった兄キャラムの姿が、そこにある。殺人罪で長年服役し、今はアル中になって、トロントの汚いアパートの一室で孤独に死んでいくだけであろう、兄のキャラム。勤勉で、頑張り続ける、ストイックな人々の陰で、そこからドロップアウトしてしまう人たちが必ずいる。思えば、『赤毛のアン』にも、『大草原の小さな家』にも、「ならず者」と噂されるアウトローの姿がちらついていた。
「赤毛のキャラムの一族」たちは、「血は水よりも濃し」として、一族で強い結束を固めている。それが彼らのアイデンティティだし、移民として過酷な環境を生き抜く術でもあったのであろう。一族や土地といったゆるぎないアイデンティティがあったからこそ、落伍者を救うセイフティネットもあったのかもしれない、と私はふと考えてしまった。。或いは、プロテスタントという宗教の重い足枷。それが徐々に薄れていってしまうと・・・一途な勤勉さで上昇していく人々と、ほんの一瞬の弱さで足を踏み外してしまい、ついていけなくなってしまった人々との間に、超えがたい谷間が生れてしまうのかもしれない。主人公の「私」と兄のキャラムの人生の違いを思う時、なんだかとても切なくなってしまう。そこには、ほんとに紙一重の差しかなかったかもしれないのに、と。いや、それは何も北米に限った現象ではないかもしれない。日本でも同じようなことが起きており、これから中国や新興国でも同じようになっていくのかもしれない。

現代人が忘れ去ってしまっている、自分の一族についての強い誇り、アイデンティティ、それを失った私たちは一体どこに向かっていくのか、ただ遠いカナダの一地方の話としてではなく、色々な意味で興味深く、考えさせられる本だった。


書評・小説 『アルトゥーロの島』 エルサ・モランテ

 

池澤夏樹氏選集の世界文学シリーズ、イタリア文学版。ナタリア・ギンズブルクの「モンテ・フェルモの丘の家」とともに、このエルサ・モランテ作「アルトゥーロの島」が収められている。
ナポリに浮かぶ島で、産まれると同時に母親を亡くし、行方のわからぬ旅に出たまま時折しか家に戻らぬ父親だけを身内に、孤児同然に世間から隔絶した生活を送りながら育った少年アルトゥーロ。ある日、その父親が自分と殆ど歳の違わぬ継母を連れて来る。少年から青年へと成長していく微妙な時期の性の目覚め、憧れの喪失、心の葛藤などが、美しい島の風景とともに時にみずみずしく、時に狂おしく、女性らしい細やかな感性で描かれている。
文章の美しさと緊張感のあるストーリー展開で、終わりまで一気に読めてしまう。素晴らしい作品だったので、改めて作者のモランテについて調べたところ、私の好きな作家アルベルト・モラヴィアの妻で、さらに彼の作品の中でも大好きな『金曜日の別荘』は、そのモランテとルキノ・ヴィスコンティとの三角関係を描いたものなのだと知り、二度びっくり。そのあたりのエピソードは、モラヴィアの『軽蔑』の記事でも少し触れた。

 

以前、パヴェーゼの『月とかがり火』の記事で、私はイタリア映画は好きなだが、イタリア文学はどうも肌が合わない・・・といったことを書いた、最近、徐々にイタリア文学の魅力にはまりつつある。文章が淡々としているのに感覚的で美しくて、作者の思想や登場人物の感情が主張し過ぎないところが良い。以前はそれがつかみどころがなくて物足りない感じがしていたくせに・・・ゲンキンな話だ(笑)
前に読んであまりピンとこなかったギンズブルクやタブツキ、それからちょっと敬遠していたカルヴィーノやブッツァーティなんかにもこれから挑戦してみたいと思っている。

『キホーテ神父』 グレアム・グリーン

 

とっても素晴らしい作品。以前、雑誌の記事か何かで、さる現代作家の女性が「日本では純文学とエンターテイメントを分けたがるけれど、サマセット・モームの作品を読むと、そんな区別は必要ないということがわかる」という種のコメントをされていたのが印象的だったが、グレアム・グリーンにも、まさにこのコメントがあてはまると思う。『情事の終わり』もそうだが、エンターテイメントとして読者を絶対に飽きさせない文章とストーリー展開の巧みさが、主題の深さと見事に両立している。

 

『キホーテ神父』はその名の通り、あの名作「ドン・キホーテ」にちなんだ作品で、かの有名な騎士の末裔であるキホーテ神父が主人公である。「ドン・キホーテ」のパロディ版とも言えるが、私は「ドン・キホーテ」をちゃんと読んだことはないにも関らず、十分楽しめた。スペインの片田舎で神父を務める主人公の「キホーテ氏」は、彼が愛してやまない老朽車の小型フィアット「ロシナンテ」に乗り、彼の親友なのにコミュニストである元市長の「サンチョ」と共に、あてどもない遍歴の旅に出る・・・「ドン・キホーテ」自体がある種のパロディなのに、さらにそれをパロディにしているだけあって、全編、笑う場所には事欠ない。根っから真面目なカトリック信徒のキホーテ神父が、根っからのコミュニストのサンチョと繰り広げる問答は、ぴりっと辛らつなユーモアが効いていて、カトリック信者もコミュニストも読んだら苦笑せざるを得ないであろう。そして、悪気は無いのにどこかずれているキホーテ神父が、サンチョに騙されて泊まった売春宿でコンドームを風船みたいに膨らますシーンや、「処女の祈り」というタイトルを信じ込んでポルノ映画館に入ってしまうシーンなど、抱腹絶倒のエピソードが続く。
それでも、そういうドタバタの中で、キホーテ神父と町長サンチョが交わす会話には、時々深遠なテーマが顔を覗かせる。

ですから、あなたもときには疑惑を抱いてみることです。疑う者こそ人間なんです。」
「わたしは疑うまいと努めている」町長は言った。
「わたしもそうです。そのように努めてはいます。その点、わたしとあなたの考えは一致しましたね」
町長は少しのあいだ、キホーテ神父の肩に手をおいていた。それで神父は、体内を町長の心遣いが電流のように走り抜けるのを感じた。おかしな現象だなと考えながら、とりわけ慎重に、ロシナンテにカーブを切らせた。たしかに、疑惑の意識を共通に持つのが、信仰を分けあうよりも、人の心を近づけるとは奇妙な現象である。おそらく、その理由はこうであろう。すなわち、信仰に熱心な者は、同じ信仰仲間と熱心さを競いあうことになるが、それに疑いを感じるときは、おのれ自身と闘わねばならぬのである。

信じているものがカトリックにせよ、(ある意味で20世紀最大の宗教とも言える)共産主義にせよ、ここには「信仰」というものを問い直す真摯な姿がある。

「・・・あなたと一緒だと、自分ひとりのときよりも自由を感じることができるのです。自分ひとりだと、もっぱら読書に集中して、神学書のなかに埋没してしまいます。もちろん、神学書のなかに、わたしよりはるかに優れた人たちの信仰を見出します。・・・さらには、わたしの信仰なるものは、本来のそれとは違っているのではないかと考えるようになったのです。わたしの信仰自体がそのように考えさせるのです-言い換えますと、それはわたしより優れた人たちの信仰かも知れない。はたして、わたし自身の信仰といえるのか。ひょっとして、聖フランソワ・ド・サールがそのように信じていただけのことではないのか、とです。それが、サンチョ、あなたと一緒だと、このような悩みから解放されます。・・・」
「ところで、神父、わしがエル・トボーソで、とくべつあんたに惹きつけられた理由を知ってるかね?・・・わしはあんたが懐疑を知らぬところに魅了された。羨望の気持ちからと言ってもよい。」
「大へんな思い違いですよ、サンチョ。わたしは懐疑で悩みぬいています。確信を持てることが何もないのです。神の存在でさえ、例外ではありません。ですが、懐疑はあなたたちコミュニストが考えるような裏切り行為ではなくて、それこそ人間的であると言えるのです。もちろんわたしは、すべてが真実と信じようと希っています。・・・」

物語は、「風車」との戦いに傷つき病に臥したキホーテ神父が、錯乱した状態のまま、町長サンチョに聖体拝領を施して息絶える、という結末を迎える。キホーテ神父の遺体を残して旅立つサンチョの最後の姿が印象的だ。
《疑うことにのみ、人間らしさがあると、キホーテ神父がいった。だが、懐疑こそ、行動の自由を失う原因だと、彼自身は考えた。人間は懐疑によって、二つの行動のあいだに往きつ戻りつする。ニュートンが重力の法則を発見し、マルクスが資本主義の将来を予見したのは、懐疑によるものではなかった。》
《彼の頭脳には、きわめて異常な考えが宿っていた。人間への憎悪は、たとえその相手がフランコ総統のような男であっても、その男の死亡とともに消滅するのに、愛は---彼がいま、キホーテ神父に感じはじめている愛は---いつまでも存続して、死による別れを告げ、最終的な沈黙に隔てられたのちまでも、消え失せることがないのはなぜなのか。愛はいつまで継続するのか、そしてその行き着く先は、と彼は、恐怖のおもいで考えていた。》
「信仰」とは本質的・絶対的にプライベートなものでありながら、それを一つの「宗教」として統一してしまうことのパラドックスが、キホーテ神父の姿を通して見事に描かれている。信仰と自由の問題、カトリック教における「地獄」とは、そして「愛」の姿とは・・・とてもブログの一記事では扱いきれない壮大なテーマを秘めている。
でも、この作品の醍醐味は、小難しいテーマを唸って考えるのではなく、キホーテ神父と町長サンチョのユーモア溢れる会話やエピソードを楽しむところにあるのかもしれない。そして、この作品のもう一つの楽しみは、スペインの芳醇なワインを浴びるほど飲みながら、キホーテ神父と町長サンチョと一緒にスペイン全土を放浪しているような気分が味わえるところである。特に、主人公たちの(著者の)ワインへの愛情が溢れていて、お酒を全く飲めない私でも、ワインを飲みながらスペインを旅してみたい気分にさせられた。こういうロードムービーがあったら観てみたい・・・やっぱりグリーンは最上級のエンターテイメントをつくる天才である。

『雨・赤毛』 サマセット・モーム

 

多分、中高生の頃に一度読んでいるはずだが、いまいち記憶に残っていなかった。先日、宮本輝の『本をつんだ小舟』でモームの「雨」が紹介されていたので、改めて読んでみたくなった。

 

新潮文庫の短編集には、「雨」のほかに「赤毛」と「ホノルル」が収録されている。流麗な文章と言い、しっかり伏線を張って含みをもたせ、最後は一気に読ませて余韻を残す構成と言い、本当によく出来た(と言うとなんだかえらそうだが)名作、という感じがする。現在の短編集の名手と呼ばれる作家も、きっとモームの手法を随分参考にしているであろう、それくらい、短編のお手本的作品だな、と思う。

 

印象的だったのは、やはり「雨」。ストーリーは今更説明するまでもないだろうが、狂信的な宣教師のディヴィッドソン夫妻と医者のマクフェイル夫妻は、最終目的地エイピアに向かう途中、伝染病によりパゴパゴの港に足止めされてしまう。雨季真っ最中のパゴパゴでは、毎日滝のような雨が降りしきり、ディヴィットソン夫妻たちはなすすべもなく、地元の一商人の家屋に仮の宿をとり、無聊を慰めていたが、偶然ホノルルから夫妻と同じ船に乗り、やはり足止めをされて同じ宿の地階に滞在していた、ミス・トムソンという自堕落な女の存在を知る。

 

同じ建物の中で毎晩蓄音機で派手な音楽を流して客をとり、夫妻たちに侮蔑的な態度をとるに怒りをつのらせるディヴィドソンは、あの手この手を尽くしてミス・トムソンを追い詰め、遂には監獄送りになるのを承知で、サンフランシスコに強制送還する手はずを整える。完全に追い詰められたミス・トムソンは、態度を一変してディヴィドソンにすがりつき、ディヴィトソンはこのチャンスを逃すまいと、毎晩彼女の元を訪れ、今までの堕落した生活を悔い改めるよう熱狂的に指導する。そして、ミス・トムソンは殆ど別人のように悔悛しきったようになり、いよいよ明朝サンフランシスコに送還されるという夜が訪れる。その夜、ディヴィドソンは、深夜遅くまで彼女の部屋で過ごした後、突然、浜辺で自ら剃刀で首をかき切って自害してしまう。憔悴してディヴィドソン夫人とマクフェイル夫妻が宿に戻ると、地階から再び喧しい蓄音機の音楽が聞こえてくる。
 彼はずかずかと行って、レコードをはねのけた。女はきっとなって向かって来た。
《「ねえ、先生、馬鹿なことおしでないよ。他人の部屋へ入ってなにするんだい?」
「その口はなんだ?その口はなんだ?」
 だが彼女はぐっとこたえて居直った。そしてそれはなんともいえない嘲笑の表情と侮蔑に満ちた憎悪を浮べて答えたのである。
「男、男がなんだ!豚だ!汚らわしい豚!みんな同じ穴の狢だよ、お前さんたちは、豚!豚!」
 マクフェイル博士は息を呑んだ。一切がはっきりしたのだ。》
ストーリーの進行の合間に、一見関係の無いようなさりげない調子で、牧師の身体的特徴や徐々に人々の理性を奪っていく南国の雨の様子が語られ、それが不吉なクライマックスを予感させる。
《冷たい何か死体をさえ思わせるものがあった。それでただ唇だけがひどく肉感的に見えるのがかえって意外なくらいだ。・・・太い、長い指をした形の美しい手、それは彼の力強い性格を想わせるようだった。だが彼を見て一番に感じるのは、なにか抑圧された火といった感じだった。
《あのしとしとと降る英国のような雨ではないのだ。無慈悲な、なにか恐ろしいものさえ感じられる。人はその中に原始的自然力のもつ敵意といったものを感得するのだ。降るというよりは流れるのである。まるで大空の洪水だ。神経も何もかきむしるようにひっきりなしに、屋根のナマコ板を騒然と鳴らしている。まるでなにか凶暴な感情でも持っているかのように見える。》
昔読んだとき、「言いたいことはわかるが、それにしても南国の降り続く雨程度で自我を破壊されてしまう英国人って、なんて弱いんだ」と感じたことを覚えている。フォースターの作品とかでも同じようなことを感じた記憶が・・・。好き勝手に生きている現代の私たちは、プロテスタントの禁欲主義に、固定化された階級社会制度の抑圧というのが、どれほど人間の本質的な部分を蝕み、すり減らしていたか、ということについて、もっと想像力を高めなければいけないのかもしれない。
もちろん「雨」というのは象徴的な役割なので、それだけでディヴィドソンが破綻するわけではない。むしろ重要なのは、欧米の宣教師がすべからく持っている、未開人たちを啓蒙しようという熱狂の危うさ、ひいては、欧米植民地主義・啓蒙主義に内在する、どこか不遜で狂信的な熱意の危うさ、とも言うべきものだろう。キリスト教の歴史や思想を知れば知るほど、信仰の外にいる者として、この危うさ、この脅威を強く感じられるようになる。激しくSMの両極端を揺れ動くような、不健全で不自然な情動とでも言おうか。
《「・・・あなたは私が平気でいるとでもお思いになりますか?私は私自身の妻、姉妹のようにあの女を愛しています。彼女の監禁ちゅう、私はあの女と同じ苦しみを苦しむのです。」
「馬鹿馬鹿しい話だ」博士はたまらなくなって叫んだ。
「あなたにはおわかりにならない。つまりあなたが盲いておられるからなんです。彼女は罪人です。だから苦しまなければならない。どんなに苦しいか、私にはよくわかっています。・・・私はあの女に、人間の与える刑罰を紙神への犠牲として受入れてもらいたい。喜んで受入れてもらいたいのです。・・・」
 ディヴィドソンの声は興奮に震えていた。溢れる熱情のままに唇から迸るその言葉は、ほとんどはっきり聞き取れないほどだった。》

『情事の終り』 グレアム・グリーン

私にとって、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』『クオ・ヴァディス』と並んで、キリスト教の真髄について最も深く考えさせられた作品である。

主人公の中年の作家モーリスと高級官吏の妻サラァは、不倫の関係にありながら、激しい恋=情事を重ねている。主人公がサラァの不実を疑い始めるところから物語は始まる。推理小説風に、サラァの足跡を追いながら、主人公がやがて見出すサラァの秘密・・・それは、「情事の終り」から「愛」、それも究極の神への愛、唯一無二の愛を選ぼうとする殉教者の姿だった。

サラァは、モーリスが火事に巻き込まれて死んだのではないかと思った時、「彼を生かしてくれるのなら、彼をあきらめ、あなたに一生の愛を誓う」と神に祈ったのだった。そして、彼が生還したために、神への誓いと彼への愛の狭間で苦しみ、その苦しみゆえに死んでいくのである。

日本人の無宗教の私には、サラァのとった行動は理解しづらい。多くの現代人はそうだと思いう。「やったー!助かった!神様、ありがと!」それでお終いであろう・・・そこを乗り越えて想像しないと、この作品を楽しむのは難しい。神への愛は唯一無二、地上の愛とは究極的に両立しあえないのだ、という緊張関係、とでも言うのだろうか。

 

この作品は、男女の愛と神への愛、神と自己、肉体・迷信と神性・・・それらの類似性とパラドックスが、よく描かれている。ストーリーや文章も無駄が無く、率直で、読む者を飽きさせない。サラァや主人公の自己との長い対話の場面ですら、何か、読む者を生き生きとその中へ引き込んで捕らえてしまう魅力がある。
サラァの日記
「仮に神が存在したとして、彼がああいう肉体であったとして、彼の肉体が私の肉体と同じくらい確かに存在していたと信じることはどこがまちがっているのだろうか?もし彼が肉体をもたなかったら誰でも彼を愛したり彼を憎んだりできるだろうか?私はモーリスが煙霧になったとしてその煙霧を愛することはできない。それは卑しいことだ、獣みたいだ、唯物主義だ、それは知っている。けれどもなぜ私が獣的で卑しい唯物主義者であってはいけないのか。」
そこには人間=肉体を超えて究極の神性=神への愛へ飛翔しようとして苦しむ人間の姿がある。
「あの傷痕は彼の嫉妬と同じほども彼の性格の一部なのだ。だから私は考えた、私はあの肉体が煙霧であってほしいのか(私の肉体についてはそうだが、彼の肉体は?)そして私は自分があの傷痕を永遠にわたって存在させたがっていることを知った。けれど私の煙霧はあの傷痕を愛せるだろうか?すると私は自分の憎む自分の肉体がほしくなりはじめた、ただし私の肉体があの傷痕を愛せるからというだけの理由で。私たちは心で愛することもできるけれど、心だけで愛することができるのだろうか?」

彼の傷痕=肉体を存在させたい」と思う気持、そしてそれと同時に「その肉体を愛すために自分の肉体をとどめたい」と願う気持ち。

究極の愛との闘いに疲弊し、命を散らしたサラァの日記を読み、モーリスが呟く言葉。
「あなたはあの幾年かのあいだ、彼女を所有していなかった。ぼくが所有したのです。最後にはあなたがお勝ちになった、なにもそれをぼくに向って改めておっしゃるには及びませんよ、しかし彼女は、この部屋で、このベッドの上で、この枕を背中の下へ入れて、ぼくといっしょに横になっていたとき、あなたのことでぼくを騙してはいませんでした。彼女が眠ったとき、ぼくがいっしょにいた、あなたではなかった。彼女の肉体に入りこんだのはぼくだ、あなたではない。」飛翔しようとして苦しむ人間の姿がある。

神性と肉体・人格性がここまでぎりぎりと対立しあう、その緊張感。そして、対立しあいながら同一性を持つ、というパラドクス。そこまで思想を追い詰めて、考え抜く・・・西欧哲学・キリスト教の思想、というのは本当に理解しがたいなあ、と改めて思った。「煙霧」のような神、というのを何となく受け容れるアジア人と、「persona」=人格性が神の絶対条件だとして、考え抜く西洋人と・・・同じ神様でも、随分と違うものだと思う。

この作品でグレアム・グリーンのファンになった。主題は深くても、エンターテイメント性を忘れずに小説を構成できる、第一級の作家である。