書評・小説 『制作』 エミール・ゾラ ①

相も変わらず日本でも人気のある印象派。この作品は、印象派を擁護したことでも有名なエミール・ゾラが、19世紀後半の前衛的芸術を模索した画家の苦悩を描いたものである。主人公は、セザンヌを代表とする、印象派画家たちをモデルにしたことは一目瞭然で、ゾラと親友であったセザンヌが、この作品をきっかけに彼と絶交した、ということでも有名な、いわくつきの作品でもある。

 

主人公の画家クロードは、極度に理想化され硬直的な写実性にがんじがらめになったパリの画壇に、「満ち溢れる光」と「生々しい現実のありのままの姿」という、鮮烈な風を吹き込みむ。しかし、作品の中では「外光派」と呼ばれるこの新しい表現は、当時のパリの一般市民には全く受け入れられない。クロードは不遇のまま歳を重ね、やがて、真の芸術を求める激しい戦いに身も心もぼろぼろになり、永遠に未完のままの作品の前で、自らの命を絶つ。

 

作品のプランを書きとめたメモの冒頭に、ゾラはこう書いている。
《クロード・ランティエを通して、芸術家の自然との闘い、作品創造の努力、肉体を与え生命を生み出すための血と涙の努力を描きたい。それは常に真実との闘いの連続であり、しかも常に打ち負かされる天使との格闘である。つまり私はこの作品で、私自身の内密な創造の営み、絶え間なく苦しい出産を語るだろう。私はこの主題をクロードの悲劇の形で拡大誇張して示そう。クロードは決して満足することができず、自らの天賦の才を実現できないことに激昂し、さいごには実現できない作品の前で自殺するのである。》
『制作』は、ゾラの代表作『ナナ』や『居酒屋』と同じく、自らが生きる19世紀後半の社会を、二つの家系に連なる子孫たちの人生を追うことで描き出すという壮大な物語「ルゴン=マッカール」叢書の一部を成す作品である。『ナナ』や『居酒屋』と同じく、主人公のクロードについては、度々「遺伝的精神的欠陥」を示唆する表現が登場する。正直、ゾラの時代から遥かに科学が発達した現代にあっては、彼が自らの作品の独自性を「病理学的研究作品」だと主張したこのような部分は、少々余計に思える時もあるのだが・・・ゾラの、科学というものの可能性を心から信じていた真摯な気持ちは、現代の私たちにはもう味わえないものなのかもしれない。ただ、たとえ時代背景や人々の心が変わっても、ゾラの作品の精神は死に絶えることなく、また、「人間の真実の姿」「社会のありのままの姿」を的確かつ流麗に描いた作品の魅力は、決して色褪せることがない。

書評・小説 『宇野千代聞書集』 宇野千代

ここのところ、海外文学作品の翻訳調の文体が続いたので、少し対照的なものが読みたくなった。
平凡社ライブラリーのこの文庫には、宇野千代の「人形師天狗屋久吉」「日露の戦聞書」「おはん」の3作品が収められている。全て、主人公の「語り」のスタイルをとった作品だ。
宇野千代は、数年前に実家の本棚にある古い『おはん』の文庫を何気なく読んでみて、「これはすごい」と思った。
再読した「おはん」がやはり一番素晴らしかったが、「人形師天狗屋久吉」も「日露の戦聞書」も、思わずひきつけられる語り口調が見事な作品だ。
「人形師天狗屋久吉」は、70年間浄瑠璃人形をつくり続けた実在の名人人形師が、自分の半生と人形づくりへの想いを語る、というもの。3人目の娘のことを「ああ、名前も忘れて了うた」とか、死んだ妻のことを「さあ、いつ時分に死んだのであったのやら」とか言う、のんびりとしたおじいさんの語り口調は、日本文学にありがちな、ストイックで頑固な職人的イメージを、ある種破壊するものだ。それでも、70年間一日も休まず人形をつくり続ける人形師の職人根性は凄まじい。その凄まじさをストレートには感じさせないところが、「語り」のミソのような気がする。
日本文学にありがちなイメージを壊す、という意味では、「日露の戦聞書」という作品も同じ。こちらはタイトル通り、日露戦争に軍医として従軍した舅への聞き語りを綴った作品。戦争ものにありがちな悲惨さや残酷さ、或いは政治的・歴史的省察などがこの作品には一切ない。極めて卑近で、生活感があって人間的な戦争の様子が、至極飄々としたある種ユーモラスな口調で語られている。兵士たちが、何を食べ、何を喜び、いかにわけがわからないままドタバタしながら従軍し、戦争が進んでいったか。そして、暗く重たい言い方はしていないのだけれど、その合間に確かに人は死んでいく。これも、ある意味戦争というもののありのままの姿だなあ、と、ちょっと目から鱗が落ちるような気持ちになる作品。
そして、「おはん」は語りの美しさと柔らかさが秀逸で、結末を知っていながらも語りに引き込まれて最後まで読んでしまった。前妻おはんと、その妻を捨てる原因となった元芸者のおかよとの間で揺れるどうしようもない男の話。単なるだらしない二股男の問わず語りなんだけれど、それが不思議に哀れで切なく、人間の情念の深さ、おろかさがしみじみと感じられて、胸が苦しくなる。
それにしても、初めて読んだ時にも、おはんというただただ哀れな女には、なぜか不憫な気持ちよりも、気味が悪いような印象をもったことを覚えているが、今回もやっぱりどこか不気味な女だな、と思った。自分を捨てた男に再びいそいそと抱かれに行き、元々はれっきとした妻であり実の子供までいながら愛人のような立場にじっと耐え、男のはかない約束を一途に信じてついてきた挙句、息子を死なせ、男にも騙されて黙って去って行く。
主人公の男も、おはんから男を奪ったおかよも、どうしようもなく業の深い人間なのだが、なぜだか私にはおはんが一番業深い女に感じられる。間接的とは言え、両親のごたごたのせいで小さな命を落とした息子についても、「亡うなりましたあの子供、死んで両親の切ない心を拭うてしもうてくれたのや思うてますのでござります」とさらっと言ってしまう怖さ。
最後に、全く恨み言を言わず、自分は身を隠して二度と男に会わない決心を告げるおはんの手紙に、男が一瞬「逆恨みに打って打って打ちすえてやったらば」というほど怒りを感じる気持ちが、なんとなくわかるのだ。おはんのその行為によって、男は自分一人が一生抜けられない、業深い世界に取り残されたような気がしたのではないか。おはんの柔らかい体と細い目となよなよとした態度に魅せられて、情欲の深い泥の中にもろとも身を沈めていた男であったのに・・・と、これはちょっと男を弁護しすぎだろうか。どうしようもない男のこころの弱さを、女の読者にまで体感させ納得させてしまう、これが「語り」の感情移入のすごさなのかもしれない。

「きみが住む星」 池澤夏樹 

 

著名な写真家エルンスト・ハースの写真を、一枚一枚の絵葉書に見立てて、旅に出た男が愛する女に届けるラブレターを、池澤夏樹の透明で美しい言葉が紡ぎます。写真集と詩集を兼ねたような、不思議な一冊。

 エルンスト・ハースの写真は、自然や町の景色を、ヴィヴィッドな色彩で切り取ったもので、ちょっと不思議な印象を残すものばかりが選ばれています。それに、池澤夏樹が自由なイマジネーションを加えて、男がさらっと旅先で見たことや感じたことを書いたような手紙に仕上げる。イマジネーションはすごく飛躍していて、実際の写真の映像とは全く違っていますが、池澤夏樹のしんとした文章を読んでいると、写真がまるで違うストーリーをもったものに思えてくるから不思議。子供が雲のかたちや、満面の星空を見上げて、型にはまらない奇想天外な生き物や物語を描き出すような、そんな自由奔放で力強い想像力に満ちています。

 

 具体的に色々ご紹介したいところですが、写真が無いとせっかくの雰囲気が出ないので、シンプルで美しい文章の余韻だけお伝えするために、少々引用。
「最初の手紙」
最後に空港できみの手を握って、抱き合って、別れた後、飛行機に乗った時、離陸して高く高く上がり、群青の成層圏の空を見た時、ぼくはこの星が好きだと思った。それから、どうしてそんな気持ちになったのか、ゆっくりと考えてみた。飛行機の中って、時間がたっぷりあるからね。そうして、ここがきみが住む星だから、それで好きなんだって気がついた。他の星にはきみがいない。
愛する人がいる大地を離れ、空高く舞い上がってみて初めて、愛する人がいるその大地そのものを愛しく思う、美しいけれど切ないような真実があるような気がします。

「心のガラス窓」
ぼくたちはみんなピカピカの傷一つないガラスを心の窓に嵌めて生れてくる。それが大人になって、親から独立したり、仕事に就いたり、出会いと別れを重ねたりしているうちに、そのガラスに少しずつ傷がつく。時にはすごく硬い心の人がいて、そういう人が大急ぎでそばを走りぬけると、こっちの心にすり傷が残る。夜の空から隕石のかけらが降ってきて心の窓にぶつかってはねかえることもある。少しずつ傷の跡が増えてゆく。
 でもね、本当は、傷のあるガラス越しに見た方が世界は美しく見えるんだよ。花の色は冴えるし、たった一本の草がキラキラ光ることもある。賢く老いた人たちがいつもあんなに愉快そうに笑っているのは、たぶんそのためだろうとぼくは思う。歳をとるって、そういうことじゃないかな。だから元気を出して。バイバイ
使われている写真は、実際は、摺りガラスの写真ではなくて、細かい銀色の雨の向こうに色鮮やかに美しいブーゲンビリアが咲いている景色を写したもの。細い線のように降り注ぐ雨のせいで、花も葉もぼやけていて、それが摺りガラス越しに眺める景色のように見えます。男の手紙を読んだ後では、細かい心の傷ですら、柔らかくて美しいもののように感じられます。

からだもこころも疲れた時に、読み直してみたくなる本です。


「図書館 愛書家の楽園」 アルベルト・マングェル ③

 

「おわりに」での、マングェルの言葉は、「図書館」への彼の熱い想いを吐露したものになっている。

 混乱の時代に、使徒ヨハネはこう語った。現世とこの世にあるものを愛してはいけない。なぜなら、「すべてこの世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たもの」だからである。この言葉は、どこから見ても矛盾している。人間が受け継いできた遺産、ささやかではあるが、驚くべき遺産は現世であり、この世だけなのである。この世の存在をたえず確認(そして証明)するために、私たちはこの世について語りつづける。人の理解がおよばない、不可解と混沌のうちにありながらも首尾一貫した何か、また、私たちもその一部をなす何か―――そのイメージのなかにこそ、人間とこの世界が作られているのではないかという問い。かつて爆発をへた宇宙と、宇宙の塵たる私たち人間には、言葉で表せない意味や秩序があるにちがいないという希望。私たちが読む本、そして、私たち自身が読まれる本としての世界、それを指し示す古い比喩を何度も語りなおすときに感じる喜び。人が現実から知りうるものは、言語で組み立てられた想像の産物ではないのだろうかという思い―――これらすべてが、図書館と呼ばれる人間の自画像のなかに具現化され、形をなしている。そして、人が書物に注ぐ愛、もっと多くの本を見たいという欲望、果てしない喜びを約束してくれる本がぎっしり詰まった書架のあいだを歩くとき、豊かな教養を秘めた書庫に対して感じる誇らしさは、何よりも胸を打つ瞬間であり、最高に幸福な所有の喜びを示している。人生には悲惨なことや悲哀があふれているが、この狂気の裏にはなんらかの道筋があるはずだという確信、嫉妬深い神々の意のままにはなるまいとする意志のなかに、私たちを慰め、救いとなってくれる力強い信念がこめられているのだ。

 

この文章は、人類の歴史に常に存在した理知と信仰との葛藤というテーマの、(前者に信頼を置く側の)ある種ステレオタイプな意見を語っているが、マングェルの本、図書館、そして人類の知への深い信頼と愛情が、文章全体に行き渡り、読むものの心にあたたかく潤いに満ちた何かを呼び覚ます力を持っている。

 

私は全くもって理知的な人間ではない暢気な人間なので、統一と多様の両極に心を引き裂かれることもなく、ホームを求めてさまようこともないわけだが・・・そして、このとりとめもない闇のような世界の中で人類の知に全身全霊をかけて期待したい、と願う切なる気持ちになることもあまり無いのだが・・・ただ、本を読む喜び、ひととき己と違う生を生き、ひととき人類の英知と遺産をこの手に収める喜び、殆ど純粋で肉体的な悦楽に近いような喜びは、確かにこれという手ごたえで感じることがでる。

 

最後に、怠け者読者の私にとって救いとなったヴァージニア・ウルフの言葉を引用。

学問好きの人間は、たった一人で机に向かい、目の前のことに集中し、熱中する。彼らは読書を通じてなんらかの真理を発見しようと努力し、そのことに全身全霊を捧げている。そんな人が読書の情熱にとらわれると、せっかく得たものがどんどん小さくなり、やがて指のあいだをすりぬけて消えてしまう。一方、読書好きの人間は、最初から、何かを学ぼうという欲求を抑えなければいけない。知識にこだわり、それを追求しようとすれば、読書も系統立ててしなければならず、専門家や権威にならなければいけない。そうすると、利害関係のない純粋な読書に向ける、より人間的な情熱がそがれてしまう。


書評 『図書館 愛書家の楽園』 アルベルト・マングェル ②

 

個人的に印象に残ったのは、「心のあり方としての図書館」の章に出てくる、アビ・ヴァールブルクのエピソード。ヴァールブルクは、19世紀後半に、ユダヤ人銀行家の長男としてドイツに生まれるが、13歳にして、父親の仕事も家族の信仰も放棄し、将来自分の欲しいと思う全てを買え与えるということを条件に弟に相続権を譲る、そして、その膨大な蔵書をもとに、「自由連想式」の図書館を設立するのである。

 

ヴァールブルクの考えによれば、図書館とは、何よりもまず関連性の積み重ねであり、関連性のそれぞれがさらに新たなイメージや文章の結びつきを生みだし、その関連性がついには読者を最初のページへと引き戻すのだった。ヴァールブルクにとって、図書館はつねに円環をなしていた。

 

ヴァールブルクは、人類の「記憶」は人類の文明の中核にあるものであり、「記憶」による関連性の積み重ね、次々と連鎖反応を起こして自由に羽を広げていくイメージを、そのまま知の集大成である図書館にあてはめようとした。その過程で、ヴァールブルクの精神はバラバラに引き裂かれてしまい、療養所に入ることを余儀なくされる。

 

療養所で過ごす日々は、ゆっくりとした回復と自己の再生に費やされた。ヴァールブルクは、ばらばらに砕けた心と何千もの図像と無数の断片になった文章をもう一度一つにまとめようと努力した。「神は細部に宿りたもう」と彼は好んでくりかえした。それでも、「私は細部に死ぬ」といったルソーのように、かつて追い求めた図像と思考がずたずたに引き裂かれたいま、それを元通りにすうことはとても無理だと感じてもいた。

 

ヴァールブルクは自分直観を科学的な法則で結論づけたかった。芸術や文学から得られるスリルと恐怖が、原因と結果を理解するための道程になると信じたかったのだろう。それでもなお、彼は欲望としての記憶という考えにくりかえし立ち返った。さらには、知識としての欲望そのものへと回帰した。・・・ヴァールブルクがその図書館を通じて創りだそうとしたのは、・・・好奇心と尊敬と畏怖の念に突き動かされてこの世のすべてを知りたいと願う彼の知的な探究心を、愛情とともに映し出したものでもあった。

 

この本の中では、ヴァールブルクのエピソードにもあるように、図書館における「知の集大成・統一」とと「知の無限の多様性」という相反する二つのイメージが語られている。本を読み終わった後に気づいたのだが、第一章の「神話としての図書館」のエピソードに、そのことは象徴的に暗示されていた。

 

屹立するバベルの塔は(実際にあったとして)、宇宙の統合を求める人類の思いの証である。伝承によれば、バベルの塔の影がどんどん伸びてゆくころ、人類は共通言語をもった一つの世界に暮らし、しっかりと揺るがない足元の大地と同じように、天国が確実に存在することを信じて疑わなかったという。アレクサンドリア図書館は、それと逆のことを証明しようとした。つまり、この世界は途方にくれるほど多様性に富み、その多様性には隠された秩序が存在するにちがいないということである。私たちがまず最初に直感的に思い描くのは、永続性をもった単一言語を司る唯一神の存在であり、その言葉は地上から天国にいたる全宇宙で話されていたという考え方だ。二つめに思い描くのは、さまざまな言語で書かれた本がそれぞれ固有の複雑な宇宙をもち、独自のやり方でこの世界全体について言及しようとしている考えである。・・・いたるところに偏在するこの無言のアレクサンドリア図書館という建築物は、宇宙の秩序を求めようとする人類の夢に永遠につきまとう。

 

しかし、この人類の夢には、ヴァールブルクのような稀有な天才、徹底した思想家、純然たる哲学者たちにとっては、精神を破壊しかねないほどの危険を孕んでいる暗部があることも事実である。
また、最終章「帰る場所としての図書館」の章で、マングェルは、全ての可能性と多様性を受け入れることの不幸な帰結について、「一つの土地が故郷(ホーム)であることと、世界全体が故郷(ホーム)であることは、どちらにしても辛い体験になりうる」と語っている。
しかしその上でマングェルは、「人間の知を共有することで人間としての限界から解き放たれる」と説いたセネカや、「輪廻転生のように知は受け継がれ、過去は現在にとって無尽蔵の知の源泉となりうる」としたトマス・ブラウンの言葉を例に挙げ、無限な広がりを持つ図書館に、「なんとか耐えられそうな未来への望みがある」と語っている。