書評・小説 『おめでとう』 川上 弘美

川上弘美の短編集。まず何より私がこの本が好きなのは「おいしそう」だからである。

「いまだ覚めず」で、のっけから主人公は列車の中でお土産に買った笹かまぼこを食べている。あんまり美味しくないくせに一袋食べてしまったので、駅前のお店で「半身のきんめ鯛をざっくりとざるに盛りあげたのを無造作に売っていたので、ひとつビニール袋に入れて」もらう。帰りにはタマヨさんと一緒に相模湾の生の蛸を食べさせるとお店に寄って、蛸を「むつむつ」噛む。「春の虫」でショウコさんがつくる、「赤飯のおむすび、蕗、さといも、海老フライ、つけもの数種類、ほうれん草のごまよごし、焼き豚、豆」が「きれいに詰められている」「豪華なおべんと」、温泉旅館で失恋話をしながらほたて貝のひもにわさびをつけて食べるところ、「夜の子供」で元彼のポケットから出てくる「いちごみるくキャンディ」ですら食べてみたくなる。

何気ない描写の中に、食べることを大事にする姿勢みたいのがあって、読む方は素直に食べるのを楽しみたい気分になる。江國香織さんの小説にもそういうところがあるけれど、江國さんの方は、もっときちんとしたオサレな食べ方をしないといけない感じがしてしまうのに対し、川上弘美さんの方は「コンビニ弁当でも美味しいよ」的気楽さがある。実際、「川」の中で恋人たちが川沿いで食べる、おでんにやきとり、山菜おこわにたこやき、といったコンビニグルメも十分美味しそうである。

全部のお話がどことなく(というか、時には吹き出してしまうほど)ユーモラスで、のんびりしていて、ちょっと寂しい。川上弘美ワールド全開の短編集。今流行りの「脱力系」と言われればそうなのだが、そこに繊細できりりとしたところもある。

いくつかのお話は、ちょっとレズっぽいお話だったり(「いまだ覚めず」「春の虫」)、不倫のお話だったりする(冬一日」「冷たいのが好き」)。

ちょっとだらしないところや弱いところのある登場人物たち。その弱さが暖かい哀感に変わっているところが川上弘美の小説のいちばん好きなところだ。哀感、というとちょっと強すぎるというか、悲しい感じがしてしまうけれど。

幼児2人の育児中で毎日ドタバタ、鬱陶しさはあれど寂しさとは無縁の生活で、旦那ともラブラブってわけではないけど特に不満もない生活の私なのに、なぜだか川上弘美ワールドの人たちがちょっぴり羨ましくなってしまう。なんだか「寂しさ」がとっても魅力的なものに見えてきてしまうから要注意の本なのだ。


書評・小説 『異人たちとの夏』 山田 太一

私にとって季節感と読書というのは結構大事で、特定の季節に特定の本を読みたくなる。特に夏を感じたい本というのはたくさんあって、先日記事を書いた池澤夏樹さんの『カイマナヒラの家』なんかもそうなのだが、シドニー・コレットの『青い夏』とか小川洋子さんの『ホテル・アイリス』とか、毎年のように読み返してしまう。この小説は、ちょっと違った感じの「夏」、私にしては珍しいちょっとホラーな「夏」を感じる本として、気に入っている本である。

『ふぞろいの林檎たち』など多くのヒットドラマを手掛けた脚本家山田太一さんが1983年に発表した小説で、第一回山本脩五郎作を受賞、映画化もされた名作である。離婚したばかりで仕事場のマンションに1人住み込むことになったシナリオライターの男性が、同じマンションに住んでいる不思議で魅力的な女性と知り合ったり、幼い頃交通事故で亡くなった両親と故郷の町で再会したりする一夏。

数年ぶりに読み返してみて、主人公の中年男の孤独と哀愁が、ぐっと胸に染みたのはさすがに自分が歳をとったからだと思う(笑)。中年男の脚本家が書いた、中年男のシナリオライターを主人公とした物語なのだから、その孤独と哀愁には自己憐憫と自己陶酔的なものが混じっていそうだが、それすら客観視するような一種のドライさと相反する人情味が両立していて、文章の歯切れもよく、読んでいる者を最後まで惹き付けて離さない。

P59

なんという生活をしているのだろう。次々と目前に現れる出来事に反応し、一時的に興奮し、しかしそれらは次々と遠くなり蓄積にはならず、また私は次々と新しい日に反応して成熟もなく、気がつくとおいさらばえているのだ。

P137

無論それは親が悪い。親としても亭主としても俺が悪い。なにもかも悪い。本気でそう思っているわけではないが、窓から夜景を見て、自分を黒く塗りつぶしていると、小さな快感があった。

全体として不思議な怪奇譚には違いないのだが、あんまりそういう感じをさせないでいて、物語の最後の最後で突然ヒヤっとホラーな展開になるところも好きである。そういう意味では起承転結がはっきりしたストーリーなのだが、大円団とならないところも憎い。うまくいかない息子と打ち解けるわけでも、幽霊となって(かなりお門違いな)恨みを晴らそうとしていたケイと和解するわけでも、主人公の孤独が去るわけでもない。ハッピーエンドではないのに温かみの残るラストである。

あと、歳くってからこの小説が面白いと思う理由はもう一つ、書かれた時代80年代感の漂う懐かしさである。主人公の業界の人たちのバブルっぽさ、主人公の住むマンションのオートロック機能をわざわざ詳細に説明していたり(当時は最新で珍しかったからだろう)、主人公が一人でレンタルビデオでエディ・マーフィーの新作を借りてきてビールを飲みながら見るところなど、なんとも言えず80年代でもはや新鮮でさえある。

調べてみたら、映画化作品の主人公役は風間杜夫、ヒロインの幽霊ケイ役は名取裕子と、これまた80年代を感じられそうなキャスティング。両親役片岡鶴太郎と秋吉久美子というのもぴったりでないか。あまり邦画に興味のない私でも観たくなる。そんな懐かしさで心を動かされているあたりが十分おばさんである。


書評・小説 『若冲』 澤田 瞳子

2016年に東京都美術館で開催された「伊藤若冲展」が、今年になって再び福島県立美術館で開催され話題となっている。遅まきながら、直木賞候補作でもあるこの小説を読んでみた。

一応、大学で美術史を専攻していた身としては、芸術家の内面を描く小説、というのはどうもあまり好きにはなれない。個人の内面的葛藤や感情を作品で表現するといういわゆる「芸術家」的捉え方が、極めて現代的過ぎる気がするのだ。西欧でも日本でも、18世紀くらいまでは、真の純粋芸術家などは存在せず、と言うかそもそもそういう考え方すらなく、芸術家はかなり職業人的要素が濃かった。工房とか流派で作品を仕上げていたことからもよく分かる。絵画を純粋な観賞用作品として仕上げるのではなく、屏風や襖絵など、権力者達の調度品の一部として用いることを前提としていた日本美術の文化ではなおさらのことだ。もちろん、その事実が作品の芸術的価値を減じるわけでは決してない。むしろ、そうやって経済的あるいは物理的な制限を受け、時代の特殊性を反映し、パトロンの趣向や欲望を代弁し、なおかつ数百年経った後まで時代や国を超えて鑑賞者に情動的なインパクトを与えうる作品とはなんと素晴らしいものだろう、と思う。だから、芸術作品を作者の個人的な側面から分析するのはあまり好きではないのである。

作者の澤田瞳子さんは、小説家であると共に同志社大学大学院博士課程を修了したれっきとした美術史家でもある。本作は、伊藤若冲の個人的な人生や内面にスポットをあてた完全なる創作物語にはなっているが、美術史家としてはタブーなことを、小説家として自由にやってみたかったんだろうなあ、という感じがする。しかし、さすが、豊富な知識に裏打ちされた時代考証や当時の風俗描写の確かさ、漢語の多い格調高い文章で、感情的な安っぽい物語になはっていない。与謝蕪村や池野大雅、円山応挙、谷文晁などの脇役も面白い。

ストーリーの大きな鍵として、美術史界では大きな話題となっている『鳥獣花木図屏風』(プライスコレクション)の真贋問題を持ってきたのは美術史家らしい。従来、伊藤若冲で最も有名な作品と言えば、静岡県立美術館所蔵の『樹花鳥獣図屏風』と、それとほぼ同じ構図をとったプライスコレクションの『鳥獣花木図屏風』が双璧であった。しかし、近年、東大美術史学科教授の佐藤康弘氏が、後者は「稚拙な模倣作である」と主張。『奇想の系譜』を著し日本美術史の大家としても有名な同大学名誉教授惟雄氏の主張と真っ向から対立し話題となった。本作では、実在の画家市川君圭が若冲を憎む義弟であるという設定になっており、彼が『鳥獣花木図屏風』を描いたのを知りながら若冲が「これは自分の作品だ」と言明し、「あの屏風が誰の手になるかなぞ、若冲どのを知らぬ百年ーいや千年先の暇人どもが、言い争えばよきことでございまするな」と粋な言葉で結んでいる。

この論争について知りたい方は、日本美術サイト「ARTISTIAN」の記事がわかりやすい。ちなみに、佐藤氏と辻氏はどちらも私の在学中の専攻科目の教授であるが、何か逸話を付け加えれるほど授業に出席しておらず、向こうも不肖学生の名前も顔も記憶しておられぬであろうから、これ以上語ることもない(笑)

とにもかくにも、奇矯の画家、伊藤若冲は人目を引かずにはいられない作家である。いや、作家である、というより、人目を引かずにはいられない作品群である。こんな絵を描く人物ってどんな人なんだろう、と興味が沸かずにはいられないのだが、また、そんなことどうでもいいくらいに完結していて素晴らしい、とも思う絵なのである。

<参考>

日本美術サイト「ARTISTIAN」の記事はこちら


レビュー・映画 『灼熱の魂』

2010年のカナダ・フランス映画。レバノン出身の劇作家ワジディ・ムアワッドの原作を、ドゥニ・ヴィルヌーヴが脚本・監督で映画化した。重たい作品だったが、非常に良かった。

レバノン内戦をモデルとしているが、具体的な国名は伏せられ、架空の都市名が使われていたりして、中々背景がわかりにくい。敢えて、そのような演出をしたのは、この映画が「レバノン内戦」について具体的に描きたかったのではなく、戦争というもの一般を、と言うよりも「戦争が生む憎しみの負の連鎖」というものを描きたかったからなのだろう。

カナダで育った2人の双子姉弟。母から託された遺言を元に、故郷で死んだと聞かされていた父と、故郷に置いてこられた見も知らぬ兄それぞれに宛てた手紙を託され、2人を探す旅に出る。その過程で、内戦に振り回された母の凄まじい過去を徐々に知っていく。ラストでは、15年囚われていた収容所で母を拷問・レイプし双子を孕ませた父と、若い頃に難民との許されぬ恋を引き裂かれて産み落としてすぐに孤児院い預けられたまま行方知らずになっていた兄が、実は同一人物であったという衝撃の事実が明るみに出る。

つまり、母は知らずに自分の息子に犯されて二人を産んだのである。そして、偶然に、母は死の直前にその事実を知る。(と言うか、その事実のショックが母を死に至らしめる)母は、それを知りながら、双子の「父」と「兄」それぞれに手紙を託すのである。「兄」への手紙は、迎えに行けなかった後悔と愛の言葉が綴られている。親の顔も知らずに孤児院に預けられ、内戦で孤児院を破壊された後は武装グループの一員として教育を受け、いつかどこかで「母が自分の活躍を目にとめてくれるかもしれない」と願いながら、血も涙もない戦闘員となり、図らずもその母を犯すことになった彼もまた、戦争の被害者なのだった。

ラストの事実は衝撃的だが、子供が実母を犯すというのですぐに思い浮かぶのはギリシア悲劇の『オイディプス王』だ。『オイディプス王』と言うと、すぐエディプス・コンプレックスの方を連想してしまうが、「母犯し」というのは、西欧文化では究極のタブーであり罪として認識されているのである。今でも、「motherfucker」がスラングで最大の侮辱言葉であるように。

原作を書いたワジディ・ムアワッドは、カナダの有名な劇場の芸術監督を務めたり、さまざまな受賞や受勲を受けている劇作家である。劇作家ということであれば、なおさら『オイディプス王』を意識したのは間違いないだろう。だからこそ、描かれている戦争は匿名なのであり、ラストの事実はストーリーを盛り上げる為ではなくて、象徴的なものなのである。

憎しみの連鎖の挙句、究極の罪に手を染めることになる母と子。最悪の真実に打ちのめされてなお最後に赦しを与えようとする母は、負の連鎖を乗り越えられたと言えるのか。その結果生まれた双子が母から受け取った愛の手紙を読むラストシーンが、微かな希望の光を暗示するようで痛かった。


書評・小説『君の膵臓をたべたい』 住野 よる

映画化もされた話題作。高校生が主人公の青春小説。表紙からなんとなく春っぽさをイメージして手にとったのだが、ヒロインの名前が「桜良(さくら)」という以外は、春よりも初夏から夏休みの間の「一夏」的な物語だった。

正直、全然期待せずに読み始めたのだが、思いのほか面白かった。主人公は、本だけが友達で他人と関わることをできるだけ避けている高校生の「僕」。ある偶然から、クラスメイトの桜良が膵臓の病気で余命いくばくもないということを知る。家族以外には知らせていないというその重大な秘密を共有したことをきっかけに、正反対の性格の二人は次第に仲良くなっていく、

設定だけ聞くと、薄幸の美少女の悲哀物語を想像してしまうが、そのあたりは、現代的なキャラクター設定で、ニヒルな主人公と真逆の性格のヒロインとのやりとりは、どこまでも明るく、ある意味死に対して冒涜的なほどユーモアに満ちている。

いかにも現代的な二人の会話や主人公のつぶやきも面白いのだが、一番面白いと思ったのは、すごく性的なものが希薄なところだ。こういう設定の男女2人なら、当然恋愛関係に発展するところが描かれそうだが、現代っ子は安直にそこには飛び込まない。お年頃なのでそういう匂いはもちろんあるのだが、最後まで恋愛っぽさは「ぽさ」のままで、友情なのか恋なのか判然としないまま終わる。そこの区別は敢えて必要無いと言わんばかりのラストもいい。だからと言って、純真無垢だからそうだというわけではなく、二人で焼肉屋でホルモンを食べながら火葬について冗談を言い合ったり、平然と親に嘘をついて豪華ホテルでお泊り旅行をしたりするような現代的な主人公たちである。

こういうストーリーやキャラクターが今の若い人達に、「面白い」とか「共感できる」とか感じられてもてはやされる、ということが、私にとっては一番興味深い。若い男女が死を目前にそれだけ一緒に過ごして何もないなんて!と、林真理子みたいなギラギラしたことを言うのは、オバハンくさいということか。極めて性的に希薄な、それでも真剣で深い男女の関係。そういう年代だからということ以上に、そういう時代なのかなあ、としみじみ感じたのでありました。