海外文学一覧

書評・小説 『ラブ&デス』 ギルバート・アデア

またまたロングアイランド好きの私にもたらされた朗報。ロングアイランドを舞台にしたこちらの小説、しかも、著者はこの間観たベルトルッチ監督の映画『ドリーマーズ』の原作者でもあるギルバート・アデアで、こちらの作品も1997年に映画化されているという。これは読むしかない。

「多芸は無芸」というけれど、そういう言い方は無芸な側のやっかみも入っているかもしれなくて、ギルバート・アデアみたいな才人を見ていると、やっぱり「多芸は多芸」だなあ、という気がしてくる。

映画評論家。文化批評家。翻訳者。作家。そのどの仕事を見ても、何かかならず、アデア独自のひねりが効いている。

自身も文芸評論家、翻訳者、東京大学名誉教授、と多芸ぶりを見せつけている柴田元幸さんがあとがきで述べている。

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書評・小説 『観光』 ラッタウット・ラープチャルーンサップ

季節柄、読書SNSを見ていると「今年読んだ本ベスト10」的な投稿を多く見かける。新刊なんてほとんど読まないし、今年たまたま読んだ本と限ってみたところで、ジャンルも時代も本当にバラバラ過ぎて、我ながらよくもこんな節操の無い読書してるなあ、と呆れることはあっても、とても順位なんてつけられない、と思っていたのだが・・・暮れも近くここへきて、「これはさすがに今年のベストワンかも」と思える本に出会ってしまった。それが、タイ系アメリカ人作家ラッタウット・ラープチャルーンサップの短編集『観光』である。

弱冠25歳でイギリスの文芸誌『グランタ』にデビュー作を発表し、翌年本書を出版するや、『ワシントン・ポスト』や『ロサンゼルス・タイムス』など有力各紙で絶賛されたと言う。日本でも、2007年に刊行されると、書評家からは「全篇芥川賞を獲れるくらいに素晴らしい」と絶賛され、2010年には、新宿紀伊国屋主催の「文学ワールドカップ」なるイベントで、600冊以上ある海外文学選書の中から見事本書がMVPを獲得したそうだ。

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書評・小説 『五月の雪』クセニヤ・メルニク

休みの日の図書館。3歳の息子が恐竜の絵本を早く読んでくれと喚いている中、海外文学の棚まで小走りで行き、えいっと掴んだ一冊。著者もストーリーもよく分からぬまま、とりあえず新潮クレストなら…と手当たり次第に選んだ本だけど、素晴らしかった。
ロシア出身の女性作家が書いた、ロシア辺境の街、マガダンをめぐる短編の数々。私は、ロシアに行ったこともなく、正直あまり行きたいとも思わないし、旧ソ連やロシアの歴史や文化について大した知識もない。それなのに、いきなり一話目から一気に物語の舞台に引き込まれてしまう不思議。松岡正剛は、物語というかたちでしか伝達できないことがあるのだ、と言っていたけれど、本当にそうだなあ、と実感する。どうして、殆ど予備知識のないような遠い国や昔の物語に、自分がスッと入っていき、すごく懐かしいような、或いは共感できるような気持ちになるのか。論理的には中々説明できないのだけど、物語を読んでいるとそういうことが起こる。『嵐が丘』のヒースの丘に立ったことがあるように(実際にはヒースが何かもよく知らないのに)、『愛人』のメコン河を横切ったことがあるように(実際に横切ったのは何十年も後のことだ)、感じてしまう。
そういう心が攫われるような体験ができるのが、物語の力なんだなあ、と思う。そして、なぜか、そういう心境になるのは、私の場合、女性作家の作品が多い。これは完全に個人的趣味なのだけど、私はディティールにこだわった物語が好きなのだ。心理的ディティールではなく、もっと世俗的で物質的なディティール。女性作家にはそういう作品が多くて、衣装やら調度品やら食べ物やら、そういうディティールを追っているうちに、どっぷり物語の世界にはまっている。『五月の雪』も、まさにそういう類の作品だった。
こういう思いがけない出会いがあるから図書館はやめられない。子供が産まれてからは、児童書コーナーだけしか行けなかったのだけれど、また自分のためにも足しげく通ってみよう、と思い直したのであった。


書評・小説 『結婚しよう』 ジョン・アップダイク

あいも変わらずロングアイランド好きの私に、インスタグラムのフォロワーさんが紹介してくださった本だ。こちらは、ロングアイランド自体ではなく、ロングアイランド峡を挟んだコネチカット州の海沿いにある架空の街、グリーンウッドを舞台にしている。

タイトルからの予想に反して、不倫の物語である。しかも、お互い子供が3人ずつもいる、ミドルアッパークラスのカップルのW不倫。ロングアイランドを望む浜辺での美しく官能的な逢引シーンから始まるが、2組の夫婦の一夏のゴタゴタを綿密に綴ったメロドラマとも言える。冒頭のシーンで、主人公のジェリーが、モラヴィアの小説を批判しているのが、実にシニカルで印象的だ。

「あまりね。嘘っぱちだからってわけじゃないんだがね。何というか・・・」彼は本を手の中でゆすりかたわらにぽんと放りだしたー「実のところ、わざわざ小説にするまでもない話だと思うのさ」「でも、わたしはいいと思うわ」「きみはね、何でもいいとすぐ思うんだ、そうじゃない?だって、モラヴィアはいいと思うし、なまぬるいワインはいいと言うし、それにセックスだってすてきだ、と思っている」

もしかしたら、サリーが読んでいたのは、モラヴィアの『軽蔑』だったのではないかしら、と思うくらい、この小説も、同じように不倫の男性がうだうだする話である。

モラヴィアの小説と違うのは、主人公の男性ジェリーに漂うヒロイズムだ。アップダイクは比較的最近の現代作家だけれど、主人公ジェリーのヒロイズムや独特の女性像は、フィッツジェラルドの小説と同じくアメリカ的なものを感じた。

「いいや、違うよ、それは。きみが悪いんじゃない。悪いとすれば、それはぼくだ。ぼくは男で、きみは女だ。すべて事をうまく処理するのは男のぼくの役目だ。それなのに、ぼくはそれをやれないんだ。きみは善い人だ。素晴しい女だということをきみは自覚していなくてはいけない。自分が素晴らしい女だということをきみは知ってるかい?」

見よ、この徹底したヒロイズム。男たるもの、こうでなくてはいけない。男たるもの、強くあり、うまくことにあたり、そして世間と女を御するものなのである。このヒロイズムが、女性を徹底してヒロイン化し、偶像化し、その性的魅力に極度に心酔して振り回されるとともに、ほとんど定型化されたような、ヒステリーで神経症な女神を産んできた。フィツジェラルドの『夜はやさし』や『グレート・ギャツビー』にあるようなヒロインたち、そして、この小説のサリーのような女性たちである。ヒーローである男たちは、こうしたヒロイン達にかしづき、さんざん振り回され、そして最後は彼女たちを犠牲にして旅立ってゆく。

アメリカはウーマンリブの国、日本よりもずっと女性差別が少ない社会を実現しているように見えるけれど(事実そうだけれど)、こういうヒロイズムとヒロイニズムが根付いていた社会が、そこまで行き着くには、フェミニスト達の並々ならぬ苦闘があったであろうなあ、と思うのである。そしてまた、意地の悪い私は、きっとこの神話は消え去ったのではなくて、捻じ曲がって歪んで、今もアメリカ人たちの深層心理と社会生活の奥底に横たわっているんだろうなあ、とも思う。

アメリカ文学お定まりのヒロイズムの他に、もう一つアメリカ的で面白いのは、キリスト教との関わりである。主人公のジェリーやヒロインのサリーは、姦通については何の疚しさも感じないが、それでも、キリストについての一種の敬虔さを持っている。特に、ジェリーは、サリーとの愛欲を優先して妻子を捨てる決意をするような非情さを持ちながらなお、自身の魂の救済について思い悩んでいる男である。むしろ、宗教の不在が、ジェリーとルースという夫婦の不和の元凶になっているのである。この小説もその登場人物も、決して宗教的ではないのに、でも、やっぱりキリスト教はそこにある。これもまた、日本人には中々理解しがたい、アメリカの一つの側面だと思う。