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書評・小説 『テレーズ・ラカン』 エミール・ゾラ

エミール・ゾラ初期の中篇小説。2019年春の岩波文庫リクエスト復刊。1953年、マルセル・カルネ監督作品のフランス映画『嘆きのテレーズ』の原作となっている。

19世紀のフランス・パリの裏街。単調な暮らしに倦み肉欲の虜となったテレーズは、夫の友人であり愛人でもあるロランと共謀し、夫を事故死に見せかけて殺害する。周囲の祝福を受けながら再婚し全ての希望を叶えたように見えるテレーズとロランだが、殺害したカミーユの亡霊に怯え、愛欲は消え去り、いつしかお互いを憎むようになっていく。

ゾラのいわゆる「自然主義」の出発点となったとされる小説で、テレーズとロランの心理描写、その細かい心と精神の動きが物語の中心になっている。巻末に掲載された「再版の序」でゾラはこう述べている。

私は『テレーズ・ラカン』で、性格ではなく、体質を研究しようとした。この本のすべてはこの点にある。あくまで神経と血にもてあそばれる人物を選んだ。・・・私の目的は、何よりもまず科学的な目的だった。・・・そこで、私は異なるふたつの体質が結びつくとき、どういう特異なケースになるかを説明しようとした。・・・この小説を注意して読んでいただきたい。そうすれば、一章一章が生理学の興味あるケースの研究になっていることに気がつかれるだろう。

この文章からも分かる通り、ゾラの「自然主義」とは、解剖学とか化学とかの科学的な手法や考え方を、文学にあてはめようとしたことから生まれている。そこには、「啓蒙の時代」から引き継いだ、科学万能主義、合理性崇拝主義のようなものがあって、現代の人間からすると少々的外れの感覚すら覚える。

以前、エミール・ゾラの『制作』の記事でも書いたのだが、「遺伝」や「体質」といった、当時は非常に科学的であると考えられていた要素を強調し過ぎていて、返って「不自然」に感じてしまうのだ。実際、ゾラが強調しているほど、テレーズとローランの心理や行動が、体質からくる化学反応みたいに自動的で自然には、私には感じられない。カミーユを殺害した直後に1年間もなりを潜めて貞淑に暮らす様子や、再婚したその夜から、カミーユの亡霊に悩まされて一度も肌を触れ合うことができないところなど、あんまりリアリティがあるようには思えない。

現代では少々余計に思われる「科学的な手法」に違和感を覚えつつも、ゾラの小説が今なお魅力的に面白く感じられるのは、切り取られた場面場面のリアリティの見事さと、物語や登場人物の躍動感が生き生きと迫ってくるからだ。『テレーズ・ラカン』は、体質的実験には成功したとは思わないが、人間の感情や情念がいかに一時的で儚いものか、というリアリティを描くことには完全に成功していると思う。

「再版の序」でゾラが述べている通り、当時は、この物語がスキャンダラスで不道徳だと世間の顰蹙を買うような時代だった。科学や合理主義を標榜しつつも、キリスト教的道徳観がいまだ強く残る時代において、恋愛や性愛に神聖さを一切認めないとする徹底した姿勢は、見事というしかない。その強さが、ゾラの作品の「凝縮された不変の人間性」みたいなものを形作っているのだと思う。


書評・小説 『パンダ』プラープダー・ユン

先日読んだ『鏡の中を数える』が面白かったので、今度は邦訳されている長篇小説の方を読んでみた。私はこっちの方が好きなくらい、面白かった。

27歳で日本で言えばVシネ的映画制作会社のライターとして勤めていて、太っていて不眠症でいつも目の下に隈があるので「パンダ」と呼ばれているオタク青年が主人公。ある日突然彼は、自分が地球人ではなく遥か彼方の「パンダ・プラネット」からやってきた異星人であることを自覚する。家族しかり、数少ない友人知人しかり、現在の職場しかり、彼が現実社会との強烈な違和感を感じて生き続けていた理由はまさにここにあったのだと気づく主人公。近々訪れるはずの故郷「パンダ・プラネット」への帰還に向け、いけてない半生を省みつつ、地球に間違って生まれてきた同郷の仲間探しをする。

『鏡の中を数える』の登場人物もだいぶ変だったが、こちらの主人公も相当イタイ。だけど、自分が異星人であるという認識に置き換えられた「現実社会へのどうしようもない違和感」というのは若い人誰もが共感できる設定でわかりやすい。違和感を怒りや絶望や虚無感に昇華するのではなくて、ユーモアあり人情味ありで、現代的なドライさとどこかほんわかとした温かみのある物語なのもいい。

もともとタイ文学というものに興味があって読み始めたプラープダー・ユンの作品なのだけど、やっぱりあんまりタイという感じがしない。登場人物たちの名前や、作品中に出てくるちょっとしたタイ語の言葉遊び的要素、それから、主人公の父親が警察官で息子の目前であわや賄賂の受取をしてしまいそうになるところとか、ひそかに主人公に思いをよせるインがいつもおやつとしてチョンプーやらマンゴーやらを用意しているとかのエピソードぐらいしか、読んでいてタイを感じさせるものがないのだ。

(ちなみに「チョンプー」というのは、英名ローズアップルと言って、林檎と梨の中間のような食感と味わいがする果物で、シャリシャリという食感と爽やかな甘みが癖になる。駐妻友達で日本に帰ってきて「チョンプー・ロス」を起こしているくらいハマっている人もいた。ちなみに私は、日本で言う「ザボン」、タイでは「ソム・オー」と呼ばれる、これまたグレープフルーツとオレンジの合いの子のような果物にハマっていた。どちらもメジャーな果物だが、タイにはとかく魅力的なフルーツが多い。)

『鏡の中を数える』と同じで、これが東京を舞台にした小説でも全然違和感がないと思ってしまう。それどころか、村上春樹と村上龍の若い頃の作品に、吉田修一と森見登美彦テイストを加えたような感じだなあ、なんて感じる。それくらい、日本の現代作家の作品に近い感覚が味わえるのだ。それがタイ人作家によって描かれているというの実に面白い。

オタクっぽくてだらしない体つきでそこそこ恵まれた家庭に育って甘やかされていて、アディダス様のスニーカーにユニクロ様の服を着て(実際はコピーかもしれないし、ノーブランドかもしれないが、それは関係ない)、可愛子ちゃんに振り回されてフラれたり、イケてない同僚の女の子に告白されたりしながら、違和感溢れる現実社会を生きていく。そんな「パンダ」くんは、どこの都市にもいる。そういう風土やら歴史から国籍やら、色々取り去られてしまった剥き出しで軽やかな「個」が描かれる時代。プラープダー・ユンがポストモダンの作家って言われるのは、そういう意味なのか、と、なんとなくわかったようなわからないような感じである。でも、村上春樹が世界中で読まれ、アメリカで教育されたタイ人作家のプラープダー・ユンが日本人の私にとても面白く感じられるのは、きっと同一線上にあることなんだと思う。


書評・戯曲『桜の園・三人姉妹』 アントン・チェーホフ

ただ単に、桜の時期だからという理由だけで、実家の本棚から抜き出してなんとなく再読してみたチェーホフ。

特に有名な『桜の園』は、革命前夜のロシアで没落していく貴族階級の様子を描いたものだ。心優しいけれど、金銭感覚はまるでなし、お金にも男にも甘くてだらしないラネーフスカヤが、唯一手元に残された美しい邸宅と領地「桜の園」を最後には手放さざるをえなくなる一部始終。

ラネーフスカヤの儚いような美しいようなそれでいて滑稽なような哀愁ある姿に誘われて、偶然同じ実家の本棚にあった太宰治の『斜陽』を続けて読んでみたのだけれど、作品の中にチェーホフの言及があって驚いた。かず子の手紙の中に、《M.C(マイ、チェホフのイニシャルではないんです。私は、作家にこいしているのではございません。マイ、チャイルド)》と署名されているのである。調べてみたら、太宰はチェーホフが大好きで、もちろん『斜陽』もチェーホフの『桜の園』を下敷きに書かれたものだと言う。さもありなん。確かに、『桜の園』のラネーフスカヤと『斜陽』の「お母さま」は似ているところがあるけれど、作品の取り扱う主題や印象は随分違う。

晩年の傑作とされている『三人姉妹』は、衰退していく貴族階級を描いたものではないけれど、時代の大きな変わり目に、厳しい現実に立ち向かいうちのめされる若い女性たちの姿を描いている。ある意味で、三人姉妹のそれぞれが夢破れる結末になるのだけれど、長女おーリガの最期の台詞が痛くて美しい。

「ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだおしまいじゃないわ。生きて行きましょうよ!楽隊の音は、あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聞いていると、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。・・・・・それがわかったら、それがわかったならね!」

ロシア文学は、ドストエフスキーとトルストイだけ読んでいたけれど、チェーホフにも共通の特徴があると感じた。

一つは、なんといってもロシア人の饒舌さ。チェーホフのは戯曲だからある程度誇張されるのはしかたないとしても、アメリカやイギリスの戯曲と比べると、不自然なほど一人一人の台詞が長い長い。そこには、気の利いたウィットや皮肉でぴしゃりとやりこめるようなキレの良さが全くない。ドストエフスキーやトルストイの作品を読んでいると、「こんな長い独白をするやつが本当にいたら誰も相手にしないのでは」ってくらい、延々と喋り続けるわけだが、これはきっとお国柄なのだろう、とチェーホフを読んで改めて感じた。

もう一つは、登場人物の多さとメイン主人公の影の薄さ。というか、メインの主人公というのはあまり存在しない感じの作品が多い。これも強烈な個や自我を問うような英仏の文学作品にはない魅力だ。(それがロシア文学作品の冗長さと読みにくさを演出しているのもだと思うが笑)キャラクター色は決して希薄ではないのに、一種の群像劇的なストーリー展開を見せるところも、ロシア文学作品の面白さだと思う。


書評・小説『鏡の中を数える』 プラープダー・ユン

主人の仕事の関係で、タイ・バンコクに駐在していたことがあり、主人は今でも毎月日本とタイを行ったり来たりしている。そんなこんなで、タイとの因縁は浅からずあるのであるが、文学となると、ずっと昔にトムヤンティの『メナムの残照』を読んだことがあるきりで、タイ文学については全く無知である。そんな中で、Instagramのフォロワーさんに偶然この作家を紹介してもらった。

プラープダー・ユンは1973年生まれ。小説家のほか、グラフィックデザイナー、イラストレーター、映画脚本家など多彩な肩書きをもつアーティストである。親日家で日本との関係も深く、タイ・の日他アジア諸国の共同制作映画で、日本人の浅野忠信主演・タイ人のラッタナルアーン監督『地球で最後のふたり』と『インビジルブル・ウェーブ』の二作品で、脚本を手がけている。2017年には、『現れた男』で初映画監督にもチャレンジするという、多才ぶりである。本作品に収められている短編『存在のあり得た可能性』では、タイで最も権威ある文学賞である東南アジア文学賞(The S.E.A Write Award)を受賞した。

読んでみて不思議な感覚。全然タイ文学という感じがしない。もちろん、舞台は現代のバンコク、登場人物の名前もタイ人だし、タイ語の言葉遊び的な文章も出てきたりして、タイ文学作品には違いない。ただ、読後感が、ちょっと懐かしい感じというか、若い頃の村上春樹や村上龍の作品を読んだみたいで、海外の小説という感じが全然しないのだ。つまり、同年代の日本人作家の作品を読んでいるみたい。それは、国も都市も宗教も違えど、みんなマクドナルドやスタバを気軽に利用して、同じMacやiPhoneを持ち、GoogleやSNSを使っている、あるいは到達点としてそういうライフスタイルやイメージを共有している、グローバル資本主義がもたらす均質性、同質性にも通じている。

ただ、なんとなく、若い頃の村上春樹や村上龍の作品と違うのは、そこに「演出された病的さや虚無感」が無いということだ。プラープダー・ユンが描く登場人物は、実に明るくトリッキーでイカれていたりアブなかったり孤独だったりする。もしかしたら、それがタイ風の「ポストモダン」というテイストなのかもしれない。でも、タイの現代病とか、ポストモダンがどうとか、あんまりそういうことを考えずに、そこが東京でもソウルでもバンコクでもあるいはパリでもニューヨークでもいい、無名の大都市の無名の若者になって読みたい、そういう作品なのである。


書評・小説『移動祝祭日』 アーネスト・ヘミングウェイ

フィツジェラルドの『夜はやさし』を読んで、むしょうに、第一次世界大戦後のパリに集結しているアメリカ人たちの様子を綴ったこの本が読みたくなった。『移動祝祭日』は、若きヘミングウェイが滞在したパリ、いわゆる「ロストジェネレーション」と呼ばれる友人たちとの交流などの日々を、晩年になって回想し綴ったものだ。

まず何より、若さに溢れている様子がいい。先日読んだ海野弘さんの『書斎の博物誌』にも、この『移動祝祭日』のことが度々触れられていた。

私はこの本がとても好きだ。パリのカフェで黙々と書きつづけている若者の姿が、いきいきと伝わってくるのである。

海野弘さんも取り上げていた冒頭のシーン、パリのカフェでラム酒のセント・ジェームズを飲みながら短編を書こうとしているヘミングウェイ、そこに美しい娘が一人入ってくるシーンは、とても象徴的だ。

ぼくはきみに出会ったんだ、美しい娘よ。きみがだれを待っていようと、これっきりもう二度と会えなかろうと、いまのきみはぼくのものだ、と私は思った。きみはぼくのものだし、パリのすべてがぼくのものだ。そしてぼくを独り占めにしているのは、このノートと鉛筆だ。

ヘミングウェイというとどちらかと言うとハードボイルドなイメージがあるが、この『移動祝祭日』はどこか感傷に満ちている。生涯四度も結婚した中々のプレイボーであるヘミングウェイだが、最初の妻ハドリーとの新婚生活の思い出はみずみずしく甘く切ない。

ヘミングウェイの死後発表されたこの作品は、スコット・フィツジェラルドはもちろん、エズラ・パウンド、ガートルード・スタイン、ジュール・パスキン、アーネスト・ウォルシュなどさまざまな友人知人について語られている。その口調は時に非常に辛辣であり、この作品が発表された時には有名人の暴露本的な話題も呼んだし、そのことでヘミングウェイを非難する論調もある。

でも、きちんと読んでみると、ヘミングウェイの口調は、後年に恨みを綴ったというよりは、ユーモアと温かさが満ちているもののように思う。よく言われるガートルード・スタインとの確執にしても、確かに彼女の俗物的なところや高圧的なところを批判的に(結構意地悪く)書いてはいるが、一方的に貶める意図は感じられない。

ヘミングウェイが、ガートルード・スタインに、例の「ロストジェネレーション」という言葉を投げつけられ、家に帰る途中カフェに立ち寄って、ビール片手にネイ元帥の銅像を眺めながら思いにふけるシーンが私はとても好きだ。

ネイ元帥が何日間も後衛舞台を率いて奮戦したことを思い出しているうちに、ミス・スタインがどんなに心の温かな、情愛に満ちた友人だったか、あのアポリネールと彼の死に際のことを、どんなに美しく語ってくれたかをあらためて思った。(略)そんなことを思い返しているうちに、よし、自分はこれからも彼女のために尽くし、彼女の立派な仕事が評価を得られるように最善を尽くそう、と誓った。だから神よ、私とマイク・ネイを助けたまえ。でも、ロスト・ジェネレーションなんて彼女の言い草など、くそくらえ。

そして、フィツジェラルド。ヘミングウェイとフィッツジェラルドの関係はなかなか複雑である。『移動祝祭日』でも、フィッツジェラルドについては終盤の「スコット・フィッツジェラルド」「鷹は与えない」「サイズの問題」の連続した3章を割いている。ここで描かれているフィッツジェラルドは、ちょっと短足で、軟弱で、アル中で、妻のゼルダに振り回され、初めて訪問したヘミングウェイ夫妻に自分の全作品の原稿料や印税の一覧票を見せて喜んだりする俗物根性も持ち合わせている。アル中のフィッツジェラルドにヘミングウェイが振り回される珍道中や、フィッツジェラルドがレストラン・ミショーで真剣な面持ちで(自分の男根の)「サイズの問題」を打ち明けるところなど、ヘミングウェイらしい意地悪なユーモアが満ちていて噴飯ものだ。

でも、ヘミングウェイは本気でフィッツジェラルドを小馬鹿にしていたわけではないのがよく分かる。むしろ、ヘミングウェイはフィッツジェラルドの才能に嫉妬さえしていたのかもしれない。巻末の訳者解説で紹介されていた、ヘミングウェイの書簡の一節はとても印象的である。

ぼくはスコットに対し、愚劣な少年が抱くような優越感をいつも抱いていたーそう、ちょうど腕白なガキが、軟弱だが才能のある少年を嘲笑うような優越感をー

こういう想いを秘めたヘミングウェイだからこそ、アル中で弱虫でわがままなフィッツジェラルドにさんざん振り回された旅の後、彼が持参した『グレート・ギャツビー』を一気に読んだこの文章が際立つのだ。

最後まで読み終わったとき、私は覚ったのだった。スコットが何をしようと、どんな振る舞いをしようと、それは一種の病気のようなものと心得て、できる限り彼の役に立ち、彼の良き友となるよう心がけなければならない、と。スコットには良き友人が大勢いた。私の知るだれよりも大勢いた。しかし、彼の役に立とうと立つまいと、自分もまた彼の友人の輪の新たな一人になろう。そう思った。もし彼が『グレート・ギャツビー』のような傑作をかけるのなら、それを上まわる作品だって書けるにちがいない。

これは、作者の人間的な弱さや欠点を思い知ったにも関わらず、いや、それだからこそ、『グレート・ギャツビー』が稀に見る傑作であることを告白した、最大級の賛辞だと思う。

私は、『夜はやさし』記事でフィッツジェラルドの描く男性像、そのヒロイズムについて触れた。この本で描かれるフィッツジェラルドは、彼の理想のヒーローとはだいぶかけ離れていた。作家ヘミングウェイもまた、一つのヒーロー像である。(多くのヒーローがそうであるように)ヘミングウェイが彼や世間が思うほどに強かったとは思わない。ただ、精神を病んだ妻に振り回され、自分もアル中で作品に集中できなくなり、手っ取り早い収入を求めて仕事の質を下げて身を持ち崩しついには世間からも忘れ去られていったフィッツジェラルドに比べて、何人も女性を変えながらも一種職人的な根気強さで自身の作品を磨いていき、生存中にある程度の名声を勝ち得たヘミングウェイの方がよりタフだったと言えるだろう。ヒロイズムはヘミングウェイの方がよりふさわしく感じられる。

もしも、タフなヘミングウェイが『グレート・ギャツビー』のようなヒロイズムを描いたなら。もしもそうだったら、少なくとも女性の私は読んでいて反吐が出たかもしれない。でも、もちろん、ヘミングウェイは『グレート・ギャツビー』を書かないし、書けない。『グレート・ギャツビー』は、あの軟弱な愛すべきフィッツジェラルドだからこそ書けたのである。それを誰より分かっていたのはヘミングウェイなのかもしれない。