書評・小説 『侍女の物語』 マーガレット・アトウッド


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マーガレット・アトウッドはカナダの女性作家で、ノーベル賞と並ぶ世界的文学賞とされるブッカー賞を過去2度に渡って受賞している。ブッカー賞の他にも、イギリスのSF文学賞として有名なアーサー・C・クラーク賞、村上春樹も受賞したチェコのフランツ・カフカ賞など、数々の文学賞を受賞しており、『世界の8大文学賞』でも、「ノーベル賞をもらうべき作家」として紹介されていた。恥ずかしながら、まだ彼女の作品を一つも読んだことがなかったので、彼女の代表作とも言えるこの作品を読んでみた。カナダ総督文学賞やアーサー・C・クラーク賞を受賞、ドイツで映画化され、Huluでドラマ化もされた話題作である。

この小説が話題となったのは、なんといっても、物語の設定が衝撃的だったからだ。元はアメリカ合衆国だった(と思しき)ところに、環境汚染や戦争による破壊の後、キリスト教原理主義を標榜する全体国家として成立したギレアデ共和国という架空の国。この国では、出生率が著しく低下し、新生児の奇形率や死亡率が悪化してしまった為、正常な妊娠能力を持つ女性は、一握りの支配層の男性の子孫を残すために、<侍女>として、強制的に生殖だけの役割を担わされている(支配層男性の配偶者は別にいる)。妊娠の能力がない他の女性は、家事の役割に特化した<女中>や<売春婦>となり、支配層以外の男性も生殖を禁止されている。物語の設定や概要については、トーキョーブックガールさんのブログが参考になるので、興味を持たれた方はぜひ参考にしていただきたい。海外文学についてかなりの量を網羅している、大変面白いブログで、私もいつも参考させていただいている。

この小説は、フェミニズム問題を提起する「ディストピア小説」として話題になった。ディストピアとは、理想郷である「ユートピア」の逆の意味で、地獄郷、暗黒郷などとも和訳される。悪夢のような近未来社会を描いたものだ。そもそも、トマス・モアの『ユートピア』に始まるユートピア文学は、理想郷を描くことで、それと正反対の現実社会を鏡的に批判する、というスタイルなわけだが、それに対し、ディストピア文学は、現代社会における不安や問題を敷衍して、現実社会の延長線上でそれを批判するスタイル、と言えるだろう。

アトウッドのディストピアが面白いところは、アメリカの近未来、という設定ながら、戦争や環境汚染による退化により、人々の生活が、まるで過去に後退してしまったように描かれていることだ。古めかしい身分制度を示すような呼称、因習と信仰に縛られた生活、衣装や住宅や市場の様子など、近未来というよりかは、アメリカのピューリタン時代にでも戻ったかのような生活なのである。未来という設定でありながら、同時に古い歴史を語っているような錯覚を覚える、というスタイルは、最近のSF小説や映画によくあるスタイルだ。「ありえそうな未来」を描くことではなくて、「いままでにあったかのような社会」を描くことが重要なのだ。それは、円環的な歴史観を感じさせる、とも言えるかもしれない。

こういう近未来をよりリアルに描くために、アトウッドはキリスト教の原理的側面や聖書の引用を巧みに使っている。そもそも<侍女>という言葉が、旧約聖書のヤコブとラケルのエピソードからの引用なのである。自身が子供を産めないラケルは、ヤコブとの子をなす為に、自分の侍女と交わらせて子供を得る。(Wikipedia参照)これは、古来から、旧約聖書が「一夫多妻制」を認めている根拠としても引用されてきた。キリスト教徒にとっては、聖書に書かれていることは絶対なので、現代になっても、この一夫多妻制を正当化するために、「弱い立場の女性を守るため」という詭弁が使われることが多い。そして、その考え方は、この小説でもしばしば登場する。《あなたたちは守られている》《そのことに感謝しなさい》というわけだ。

この小説を読めば、いやでもフェミニズム問題について考えざるをえない。『三つ編み』『82年生まれ、キム・ジヨン』の記事で書いた通り、私はフェミニズム問題について語るのが、めっぽう苦手である。その割に、最近、フェミニズムを扱った小説を読むことが多いのは、それこそ時代というものだろう。この小説自体は1985年に発表されたものであり、そういう意味では今の時代を先取りしていたとも言える。フェミニズムは、今や文学の一大トレンドである。アトウッドは、昨年(2019年)に、この小説の続編『Testaments』を出版している。

ギレアデ共和国の革命が起きる前段階として、突如、全ての女性は仕事を失い、全口座を凍結される。お金を引き出すことも、クレジットカードで買い物することもできなくなる。経済主体としての役割を剥奪されるわけだ。(そして、いずれは名前すら奪われるようになる)。現在は<侍女>である主人公も、かつては普通に夫と娘がいる生活を送っていた。主人公が、この出来事を振り返るシーン。

その夜、つまりわたしが仕事を失った日の夜、ルークはわたしとセックスをしたがった。拒む理由はなかった。絶望感からだけでも、セックスに駆り立てられて不思議ではなかったからだ。でも、わたしの体は麻痺したままだった。体にのせられた彼の手さえ感じられなかった。

どうしたんだい?と彼は尋ねた。

わからないわ、とわたしは答えた。

僕たちにはまだ残っているじゃないか・・・と彼は言いかけた。でも、彼はまだ何が残っているのかを最後まで言わなかった。ふと、彼は僕たちと言うべきではないような気がした。わたしの知る限りでは、彼は何も失っていなかったのだから。

わたしたちにはまだお互いが残っているものね、とわたしは言った。これは本当だった。それなのに、わたしの言葉は自分の耳にさえすごくよそよそしく聞こえた。

すると彼はキスをした。まるでわたしがそう言ったことでふたりの関係が元に戻ったというかのように。でも、何かが、何かのバランスが変わっていた。わたしは自分が縮んだように感じられた。彼がわたしを抱こうとして体に腕をまわした時には、自分が人形のように小さくなったように感じられた。愛がわたしを置き去りにして進んでいくように感じられた。

この人はこれを気にしていないんだわ、とわたしは思った。まったく気にしていないんだわ。この状態の方が好きなのかもしれない。もうわたしたちはお互いのものではない。わたしは彼の所有物になってしまったんだわ、と。

そんなことはされるいわれはないし、あってはいけないし、あるはずもなかった。でもそれが現実に起こったことだった。

この小説は、全体としてはかなり突飛な設定であるディストピア小説なのだが、部分部分の情景や感情がドキッとするほどリアルに描かれている。ここでは、フェミニズムを突き詰めて考えると出てくる、非常に難しい問題が体現されていると思う。

主人公の女性は、革命が起こるまでは、夫と娘と共に、それなりに満足いく生活を送っていた。夫との間にも愛情はあったはずなのだ。それなのに、革命によって完全に力関係が変化したことで、夫婦の関係自体も微妙に壊れていくのである。彼女は、<侍女>になってからも、夫の身を案じているし、折に触れ思い出す。しかし、人間としての尊厳と主体を奪われた生活の中では、彼女は次第に夫のことも娘のことも忘れていく。

もう一つ。印象的な箇所を引用しておこう。主人公の学生時代の友人、同性愛者のモイラが語るシーン。

彼女はそれは問題が違うと言った。女と女のあいだでは力が平等だから、セックスは五分五分の取引なのだ、と。わたしは「五分五分の(イーヴン・スティーヴン)」なんてあなたらしくない性差別的な言い方じゃない、と言った。だいたいそんな議論は時代遅れよ、と。彼女はそれは問題のすり替えであり、もしも時代遅れだと思うなら、わたしが現実から目を背けているだけなのだと言った。

男女の性が「五分五分の」関係で無い限り、男女の恋愛関係は、もっと言えば信頼関係自体が、不公平な偽りの関係に過ぎないのか?片一方が常に不平等を強いられている関係は、真の「人間対人間」関係にはなり得ない。そのバランスが少しでも崩れた瞬間、「愛」すら疑問を投げかけられてしまう。主人公の女性が、身分を奪われたと感じたこの夜のように。

実際問題として、男女の性が「五分五分の」関係になる社会、を想定するのは極めて難しい。それは、女性の雇用や役員比率や、子育て環境の充実や、男性側の育児や家事への参加率の上昇や、そういったものだけで解決される問題ではない(もちろん、それは社会的に重要だし、その程度のことは努力して公平にするようなされてしかるべきだ)。男性は肉体的に性行為の強制を拒める構造になっているが、女性はそうではない。同じように、男性は強制的な妊娠や出産をさせられる恐れはないが、女性はそうではない。また、女性は、妊娠や出産において、男性には全く覚えのない一方的なリスクを負う。そういう、人間としてのどうしようもない「性」のあり方を突き詰めると、結局は、女性というのはやはり「弱い性」ということなのではないか?それは、究極的には「弱い性」=「守られるべき性」という、今までにもさんざん使われてきた欺瞞、あの、旧約聖書のヤコブとラケルのエピソードから導き出される欺瞞を、肯定することに繋がってしまうのではないか?

この難しい問いへの答えは、残念ながらこの小説には無い。文学は常に、問題を警告し挑発し提示するものであって、解決策を提示するものではないから。でも、私が知る限り、この難しい問いをここまで具体的に提示してくれている文学作品は他に無いように思う。

この小説には他にも、『世界の8大文学賞』で現代文学の一つのキーワードとして語られていた「記憶の揺らぎ」という問題、また、もう一つ、私が個人的にキーワードと感じている「母と娘」という問題が、隠されている。これについては、また別の記事で考察してみたい。

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