スノビズム一覧

書評・小説 『休暇は終わった』 田辺 聖子

夏にぴったりの一冊。

『ジョゼと虎と魚たち』の記事で、私が好きな田辺聖子小説のエッセンスともいうべきものを綴ってみたのだが、これが、まんまあてはまる作品である。むしろ、この作品を意識して記事を書いた、みたいなところがある。自立した女性と女心のバランス、魅力的なオトナの男と若い男、それから、関西弁や関西独特の風俗やロケーション、どきっとする言葉とタイトル。もちろん、美味しそうな食べ物も。

作家の仕事もうまくいきはじめた30初めの女主人公悦子。若くて美しいけれど、何をやっても続かないだらしない男で、彼女につきまとってヒモのような生活をしている類。そこに現れる類の父親の入江。この父親が『恋にあっぷあっぷ』の記事でも書いたような、ユニコーン並みに実在を疑われるほど魅力的な「デキブツ」男なのである。彼の連れて行ってくれるデートは、田辺聖子さんの小説ではお馴染みのロケーションなのだが、分かっていても、やっぱりいちいち素敵である。

日本海に抜ける街道沿いに車を走らせて連れて行かれた鮎茶屋では、新鮮な天然鮎をあたまから食べるやり方を教わる。六甲山上のホテルでは、庭にいくつも提燈を下げたテラスで、炭火焼いたステーキを食べる。それから鄙びた山の中の料理屋旅館のようなところでは山菜のてんぷらや梅のたれでたべる蒟蒻、山梨の実のたいたものや胡麻豆腐などの箱膳が供される。

で、言う言葉がこれ。

「喜ばせ甲斐のある人というのは、可愛げがありますなあ。あんたは一万人に一人の人ですね」

私がくどいほど、「こんな魅力的なオッサンいるわけないだろ!」と半ば怒りを感じる理由がお分かりか。まあ、その怒りの99%はやっかみである。

でも、この作品のいいところは、その息子のどうしようもない男、類の姿が描かれているとこだ。悦子が昔付き合っていた野呂という男もそうだが、彼らの「ダメ男」ぶりと、それに惹かれてしまう悦子の「ダメ女」ぶりの方が、リアリティがあって良いのである。

私はそこに、彼の可愛げみたいなものを見るのである。もしかしたらそれは「若さ」の可愛げかもしれない。彼にはあんまり定見なんてものがなくて(もしくはまだできていない)、どっちにでもころびそうな感じ、私は正直にいうと、そこが類の好きなところである。要するに類は、何もかもがまだホンモノになっていないのだった。

「何を考えてんのん」私がだまると類はすぐ、いう。そんなこという人、自分の中がっからっぽの人。

結局、悦子は類と別れるが、また、「デキブツ」の父親をも選ばない。オトナの御伽話は、甘いばかりではなくて、ほろ苦いものであることを、田辺聖子さんはよく知っているのだ。

それから、ドキッとするような言の数々。

また、ほんとうはそうじゃなく、男と女と金、という三つ巴は、もっと深いからみあいかたをするものなのである。長く生きてると、あとになってわかるものである

「幸福と面白いこととはちがいます。幸福というのは、面白いことが無くても成り立つ。」ふーん。「たとえば、会社は隆々栄えて儲かり、女房は機嫌よく、子供は健康で順調にすくすく伸びてる。そういう風なとき、男は、幸福と思うやろうなあ。しかしそのとき面白いか、というと、そう思うてないのやねえ、これが」

私は、「幸福でない」ということに拘っていた。私は女だから、幸福と面白いこととを結びつけるのが本当のような気がしていた。

そしてラスト。

つまり、その一枚の写真が、夏の決算報告書というわけだった。私はそれを破った。

夏は過ぎた。私の休暇は終ったのだ。

最後の最後の一文で、タイトルに戻ってくる、この印象的なラストは、読んだ人だけが味わってほしい。


書評・エッセイ『書斎の博物誌』 海野 弘

海野弘のエッセイ集。

海野弘は、アール・ヌーヴォー、1920年代、シネマ論など興味深いテーマが満載で、高校生の頃ハマってよく読んでいた。

そういう複合的なテーマを自由に軽やかにある種デカダンに論じるのが彼の魅力なんだけど、ちょっとその軽さやデカダンスが鼻につく感じもあり、長らく手にとっていなかった。

久しぶりに読んでみて、それなりに(昔よりは)積み重なった知識が、自由に広がって刺激されるのがとっても楽しかった。

雑誌掲載されたショートエッセイなどをまとめたものなので、テーマはそれこそ多岐に渡るのだが、繰り返し出てくるのは、プルースト、ヴィスコンティ、文学と映画の違い、ヘミングウェイ、書斎や書机や絵画の中に表現される書物などの歴史を辿ることで見えてくる「エクリチュール=書くこと」の変化、などなど。

1920年代のパリをキーワードに、ヘミングウェイやピカソやコクトーが繋がっていくのはいつ読んでもワクワクする。

シネマ論や書斎論で出てくるインテリア解説もまた面白い。

と思ったら、突然ディケンズ論や日本近世の俳諧や商人ネットワークについての興味が出てきたりする。

浅いところをたゆたっているようで、深い知識や教養が底を流れているが分かる。ゆらゆらしていると、深い流れがあることに気づかされてハッとしたりする、そこから自由に想像力と知識が繋がっていく。色々勉強してみて、それからまた戻ってきても楽しい、そんな本である。


書評 小説 『ラッフルズ・ホテル』 村上龍

1989年村上龍の作品。最近、このあたりの作品をたまに読み返している。ストーリーは読んだ瞬間から忘れてしまいそうなくらいどうでもいい(失礼!)。読み返してみてまず感じるのは、ある種の「こっぱずかしさ」である。作品全体に独りよがり的な自己陶酔感とバブル的スノビズムが何とも言えなく時代を感じてしまう。

私は中学・高校時代、村上龍や山田詠美や(今や完全に消え去った)森瑤子などの作品をかたっぱしから読みまくった。そして、最も敬愛する作家はフランソワズ・サガンだった。それ以来、色々な作品に出会って、私の乱読習慣はかなり色んな方面に渡るようになったけれども、それでもやっぱり私は相変わらずサガンが好きである。以前、サガンについてある読書ブログで語っていたところ、「サガンはスノビズムの作家なのだ」とおっしゃった方がいた。それで、なるほど、と思った。スノビズムは、貴族的趣味をひけらかす俗物根性、みたいな悪い意味でつかわれるのが一般的だが、そこには一種の美学と自己陶酔があると思う。そして、バブル時代の村上龍や山田詠美や森瑤子の作品にも、やっぱり日本バブル的スノビズムが満載なのだ。やたらリッチなシチュエーションや即物的・感覚的な嗜好とか・・・

この作品で言えば、表題の「ラッフルズホテル」の豪奢でエレガントなティフィン・ルームやライターズ・バー、ブーブ・クリコのイエロー・ラベルではないグラン・ダム、マレーシアの高地にあるフレーザーヒルという別荘地、その別荘の暖炉の傍で食べるスパゲッティ・ポマドーロ・ア・ラ・フィオレンチーナ、葉山の自宅で時折チェロをオールヌードで弾く美しい妻、カンボジアの戦場に咲き乱れる野生の蘭のような女優が囁くウィリアム・ブライクだかアナトール・フランスだかの詩句・・・たまらない、スノビッシュなモティーフとディティールの数々・・・そして、何よりもめくるめく自己陶酔。

「私達はこんなに物や金や感覚的快楽に満たされているのに、なぜ幸せじゃないの?」みたいな自己陶酔。最近になって、これらの作品を読み返すと、そういう単純な問いを発していられた幸せな時代を感じてしまう。今の私達は、「こんなに物や金や感覚的快楽に満たされているのに、なぜ幸せじゃないの?」なんて言わない。「物や金や感覚的快楽に満たされていたって幸せなわけないじゃない」そこから始まってしまうので、自己陶酔している暇もないのだ。せちがらい世の中になったものだ。なんだかんだ言ってもサガンが好きな私は、実はスノビズムを愛しているのである。だから、こんなつましい今の世の中で、たまに時代遅れのこういう本を読むのは、こっぱずかしいけれども密かな楽しみでもある。