マイノリティ一覧


レビュー・映画 『柔らかな肌』

GW中にAmazonプライムで観たもう一つの映画。『灼熱の魂』が思いのほか良かったので、予備知識もなくなんとなくセレクトしてみたのだが、こちらはまあまあ。

2009年スペイン映画。日本では劇場未公開。監督は『濁った水』でベルリン国際映画祭にも招致されたへスース・ガライ。ヒロインを演じるのはディアナ・ゴメス。原題は『Eloise』

主人公の女子高生エロイーズが、変わり者で嫌煙されているが個性的な魅力ある女友達と親しくなりやがて恋人関係に。それと並行して周囲の友達や彼氏や母親とか離反していくというストーリー。後から日本のサイトを調べてみると、やたら「レズビアン」と「エロティック」を強調して紹介されているが、実際観てみると、セックスシーンも含めてさほど過激な内容でもない。

これなら、昔話題になった人気ドラマ『Lの世界』のレズ・シーンの方がよっぽど過激である。『Lの世界』では、アダルトビデオにも平気な私が柄にもなくドキドキしてしまったが、この映画では別に何も感じなかったのは、LGBTがフツーになった時代のせいか、私が図太くなったせいか。

話としてもレズビアンを主題にしているわけではなく、それをきっかけに、ありきたりの価値観と生活に縛られた彼氏や周囲の友人、主人公を父親から引き離し束縛する母親への反感や葛藤に主眼が置かれた「青春映画」みたいな感じである。

なんと言っても主役のディアナ・ゴメスが可愛い。この作品で初めて観たが、スカーレット・ヨハンソンのやや白痴的(失礼!)なあどけなさとドラマ『ゴシップ・ガール』のブレイク・ライブリーの天真爛漫さを足して2で割ったような感じで、なんともエモい。男女問わず惹きつけられてしまう感じで、「エロイーズ」という名前がぴったりだ。(日本語のエロい感じとは違う)

映像も結構キレイで雰囲気もあり、まずまずの作品である。


【書評】【小説】『ミドルセックス』ジェフリー・ユージェニデス

ジェフリー・ユージェニデスのピュリッツァー賞受賞作。

近親結婚によって生まれ、女の子として育ち、男として大人になった両性具有の少女/少年・カリオペが主人公。1920年代に祖父母がギリシアからアメリカに渡ったところから始まる。大作だが、あっという間に読み終えてしまう面白さ。性も本書の重要な主題の一つだが、それ以上に、ギリシア系アメリカ移民一族の歴史物語が面白い。

アメリカの近現代史的な要素もあり、そういう意味では、アメリカ移民版『百年の孤独』という感じもする。やはり、アメリカ文学というのは移民の文学で、そこが他国の文学とは決定的に違うファクターであり、それを理解しないことには一歩も前に進めないのだ、と改めて感じる一冊でもあった。

小説の随所に散りばめられた手法の面白さについては、「ALL REVIEWS」の豊崎由美さんの書評が参考になる。

【参考】

歴代ピュリッツァー賞フィクション部門受賞作品についてはこちら


『マーシイ』 トニ・モリスン

カズオ・イシグロの『浮世の画家』の記事でも書いたが、ある種の物語性の強い海外小説というのは批評するのがとても難しい。しかし、これほど批評しにくいものもないのではないか、というくらい難しいのがトニ ・モリスン。それは、カズオ・イシグロの比ではない(笑)

物語に浸っているのが決して心地よくはなくて、痛いくらいなんだけど、それでも引き寄せられる。主語や目的語が曖昧で、文法を無視したような表現が多いので、翻訳家泣かせだなぁと思うのだが、彼女の文章には古典や叙事詩を読んでいるような不思議な感覚を呼び覚ます力がある。

アフリカンアメリカンで初めてノーベル賞を受賞した作家として知られるトニ・モリスン。出会いは大学の英文学の講義だった。『ビラブド』は忘れられない作品だ。アフリカンアメリカンの歴史や差別問題に特別の興味を持っていたわけではないが、この作品はさすがに衝撃的だった。

本作品の『マーシイ』は、その『ビラブド』に対をなす作品とされている。アフリカンアメリカンの歴史、その痛みは、ほかの彼女の作品と同じくここでも重要なファクターではある。だが、『マーシイ』では、ネイティブ・アメリカン、さらには白人の農奴やヨーロッパ本国に居場所がなく追われるように移民してきた白人女性たちまで、迫害され傷つけられた者達の姿が描かれている。

彼女の本には宗教的な救いもない。でも、力強さはある。余りの痛みに、怒りや絶望も一度昇華されてしまったかのような、本当に古典を読んでいるような不思議な感覚なのだ。


『彼方なる歌に耳を澄ませよ』 アリステア・マクラウド

 

カナダでベストセラーとなった作品。18世紀末、スコットランドからカナダ東端の島々に渡ったハイランダー(スコットランド人)一族の物語。「赤毛のキャラムの子供たち」と呼ばれた、力強く逞しい一族の歴史が、その末裔であり、今は裕福な歯科医師として大成した「私」によって、100年前、祖父たちの若い頃、そして、自分の生い立ちなど、過去と現在を行ったり来たりしながら、淡々と語られていく。

「赤毛のキャラム」一族がたどり着いたのは、ノヴァ・スコシア州ケープ・ブレトン。地図で見ると、『赤毛のアン』の舞台となったプリンス・エドワード島の近くだ。このノヴァ・スコシア地域は、名前の通り(ノヴァ・スコシア=新しいスコットランド)、特にスコットランドからの移民が多く住んでいるところ。と言うことで、この本はモンゴメリファンにとって、非常に参考になる本である。アンに登場する人々がどのようにあそこに渡って来て、そしてどのように今に至っているのか。それを想像してみるのも面白いし、アンシリーズの中で、なぜ「赤毛」や「双子」や「目の色」などが、繰り返し重要な要素として登場してくるのかもわかる。ただし、この作品に登場してくる人たちは、モンゴメリの作品よりも、もっとずっとワイルドだ。もしレイチェル夫人が、「たとえば春の大掃除のとき、おばあちゃんはよく、梯子の上に立っているおじいちゃんの股間を後ろからさわった。」なんてことを耳にしたら卒倒してしまうだろう。
この作品を読んで印象的だったことが2つある。

 

1つは、スコットランドという土地の不思議さ。スコットランドとは、言わずもがな、イングランドの北にある高地一帯のことだが、独自の文化・風土・歴史がある。この本の「赤毛のキャラムの子供たち」も、自分たち一族の血統とともに、スコットランドの言葉(ゲール語)や歌などに、すごくアイデンティティを持っている。そして、スコットランドというのはどこか不思議な、ちょっとこの世とは一線を画したような土地、というイメージがあるように思える。
私がそれを強く感じたのは、『秘密の花園』や『小公子』などで有名な作家バーネットの『WHITE PEOPLE(白い人たち)』という本を読んだ時だ。バーネットはアメリカの作家だが、「WHITE PEOPLE」は、スコットランドを舞台にしており、文字通りこの世のものではない「WHITE PEOPLE」と交流できてしまう不思議な能力をもった女の子が主人公。「幽霊」と簡単に名づけてしまえない存在たち、さまよえる魂なのか、時の流れや生者と死者の境界線を超えてなお生き続ける情念のようなものなのか・・・そういうものが荒野のそこかしこに漂っているような土地である。この作品の中でも、主人公の妹が、スコットランドの土地に渡った時、不思議な体験をした、という話が出てくる。私はスコットランドの土地を実際に見たことが無いので、あくまで想像なのだが、そういう不思議なイメージが、スコットランドにはあるのだろう。
それからもう1つは、イギリスから北米に移住した人々の勤勉さ。モンゴメリの一連の作品やワイルダーの『大草原の小さな家』シリーズなどを読んだ方なら分かると思うのだが、イギリスから北米に渡ってきたプロテスタント派の人々というのは、本当に勤勉で、働き者である。余りにストイックな生活に、現代の大量消費・資本主義に染まったアメリカ人の姿は全く想像できない。カナダとアメリカを一緒にしてはいけないだろうが、もともとの移民、という意味ではそんなに違うとは思えない。

 

この作品の一族たちも、プロテスタント色は薄いので、大分くだけてはいるが、過酷な環境にもじっと耐え、一族の輪を守って実直に、勤勉に働いていることでは同じ。しかし、現代のいわゆる成功者となった「私」とその妹(エンジニアの妻で、カルガリーでモダンな家に住んでいる)と対照的に、ちょっとした運命の歯車の違いで、世間的な落伍者となった兄キャラムの姿が、そこにある。殺人罪で長年服役し、今はアル中になって、トロントの汚いアパートの一室で孤独に死んでいくだけであろう、兄のキャラム。勤勉で、頑張り続ける、ストイックな人々の陰で、そこからドロップアウトしてしまう人たちが必ずいる。思えば、『赤毛のアン』にも、『大草原の小さな家』にも、「ならず者」と噂されるアウトローの姿がちらついていた。
「赤毛のキャラムの一族」たちは、「血は水よりも濃し」として、一族で強い結束を固めている。それが彼らのアイデンティティだし、移民として過酷な環境を生き抜く術でもあったのであろう。一族や土地といったゆるぎないアイデンティティがあったからこそ、落伍者を救うセイフティネットもあったのかもしれない、と私はふと考えてしまった。。或いは、プロテスタントという宗教の重い足枷。それが徐々に薄れていってしまうと・・・一途な勤勉さで上昇していく人々と、ほんの一瞬の弱さで足を踏み外してしまい、ついていけなくなってしまった人々との間に、超えがたい谷間が生れてしまうのかもしれない。主人公の「私」と兄のキャラムの人生の違いを思う時、なんだかとても切なくなってしまう。そこには、ほんとに紙一重の差しかなかったかもしれないのに、と。いや、それは何も北米に限った現象ではないかもしれない。日本でも同じようなことが起きており、これから中国や新興国でも同じようになっていくのかもしれない。

現代人が忘れ去ってしまっている、自分の一族についての強い誇り、アイデンティティ、それを失った私たちは一体どこに向かっていくのか、ただ遠いカナダの一地方の話としてではなく、色々な意味で興味深く、考えさせられる本だった。