書評 『カフェの文化史 ボヘミアンの系譜 スフィフトからボブ・ディランまで』 スティーブ・ブラッドショー ②

ヨーロッパからアメリカまで、様々な国、時代の芸術家や文人たち、そして彼らが訪れたカフェの名前など、横溢する文化的知識と固有名詞に埋没してしまいそうだが、タイトルに「カフェの文化史」(Cafe Society)と銘打っている通り、カフェの社会的な側面についても論じているのが、本書の特徴である。世にあまたカフェについての本はあれど(主に欧州の著者によるものだが)、殆どは有名なカフェについてのエピソードを羅列したものである。カフェ文化自体を論じるというのは、捉えどころがなく非常に難しいせいだろう。

著者は、カフェというものを、時にはブルジョワの文化的表現の一面と捉え、そして、ブルジョワ文化への抵抗としての「ボヘミアン」ライフの表現として捉える。ただ、ボヘミアンへの憧憬そのものが、ブルジョワの文化的側面、とも言える。

始まりのロンドンのコーヒーハウスから、カフェは一種の「表現の場」であり、そこに出入りすること自体が「スタイル」を保証する、という性格を帯びていた。

コーヒー店で夜を過ごすことの多かったポウプ、ドライデンといった古典主義者たちにとって、機智という言葉は彼らが宮廷生活の衰微後しないそうになっていたある種の社交上のたしなみとでもいったものをも意味していたー作品を自由に売る販路もなければ、自分たちの代りにそれをやってくれる職業的な批評家集団もいない時代に自分の職業的地位を獲得する一つの方策だったのである。

イギリスでは、《作家たちは機智を武器に友人や競争相手をやり込めようとし》、《文学的成功と機智に富んだ会話といったものの結びつき》が、新たな価値規範となって《文学と品位の融合》が起こり、ボヘミアン的カフェ文化は衰退していく。

フランス革命の火付け役として一役買ったパリのカフェも、革命後に王政が復活すると、資本主義とブルジョワへの「反抗」というよりも「逃避」としての性格が顕著に表れてくる。

また、芸術のための芸術が、ブルジョワジーの権勢に挑むというよりもそれを反映する局面は他にもあった。至上の形而上的芸術は、金融資本の勝利の中にその姿を映していたのだ。フランスに銀行家が増えれば増えるほど、芸術家の中にボヘミアンの姿が増す、というふうに見えるのもしばしばだった。芸術が、天啓を受けた一握りのロマン派たちによってのみ生み出されるものなら、これは分業への傾向と調和をなしていた。(略)ブルジョワジーを芸術のための芸術に惹きつけていたこの密かな吸引力は非常に強かったため、義務はなくて金だけはあるその若き子弟たちは、大通りに面した優雅なカフェで、ゴーチェの規範にしたがって生きることで時間を費やしていた。

かくして、ボヘミアンというのは一種のスタイルとなり、それを表現するためのカフェという場は、主役を次々と乗り換えて回転し続ける。シャルル・ボードレール、マネやドガといった印象派たち、《カルティエ・ラタンやモンマルトルのカフェに集まっていた詩人たちの存在がなかったら、今もって高踏派の小詩人としか見なされていなかったかもしれない》ポール・ヴェルレーヌ、そして《最後のボヘミアン》モディリアニ。

19世紀末に束の間ロンドンで復活したカフェ・ロイヤルもまた、《一種の文芸市場のようになって》、《文学の公開討論の場でもあり、批評のための研究会の場ともなって》いて、《オスカー一派、デカダンスの同類、道徳の破壊活動分子たるイギリスのボヘミアを代表していた》。

同じ頃、ウィーンのラントマンのようなカフェは、フロイトにとって《彼の見解を伝えるのにかっこうの公開討論の場》であった。

カフェは、芸術家たちに創作のインスピレーションを与え、創作活動をする場となっただけではない。(むしろ、その役割はかなり小さかったであろう、と筆者は考えているようだ)ここでは、ボヘミアンとしてのスタイルを誇示することが重要なのだ。その表現と発表の場としてカフェがあるのである。この着眼点は非常に面白い。

私自身、サロン、クラブ、カフェなど、「編集的文化が起こる場」というものに興味を持って、その種の文献を読み漁っているうちに、一般的に考えられているように、こういう場での交流それ自体が、芸術家のオリジナリティやインスピレーションの元になった、というだけではないのではないか、という思いが強くなった。そういう側面が全く無いとは言わないが、活性化したサロンやクラブやカフェというものは、往々にしてそれに参加し集うこと自体が目的となっていたりする。私が想像したのは、そこにある種の「パトロンを見つける」という目的、経済的目的があるのではないか、ということだった。本書でも、孤高のボヘミアン、モディリアニがカフェラパンに通っている様子をこう語っている。

モデル代がただですみ、しかも自分の肖像画を買ってくれるかもしれないカフェでスケッチする習慣はすでについていた。

しかし、ただ単に直接的なパトロンを探す、という以上のものがカフェにはあった。貴族、そしてブルジョワという、分かりやすい「パトロン」が消えていく中で、「大衆」というつかみどころのないパトロンであると同時に消費者であるもの、へアピールするには、カフェという場を使って「スタイル」を提示する、という方法が極めて効果的だったのかもしれない。だからこそ、刺激的な芸術家どうしの交流で、創作のひらめきを掴むとか、直接的なパトロンを探す、という以上に、その場に出入りする、ということ自体が重要だったのである。かくして、人々はボヘミアン的理想郷を追い求め、カフェは次なるアーティストの生贄を探し、その場所を移していく。一つの場としてアピールが完成されたカフェは、ただのスポットであり、理想郷ではない。

このあたりは、もう少し自分なりに考察を深めたいところである。難解で衒学的な文章を我慢して読んだかいもあった。再読する元気が出てくるかは微妙なところだが、自分にもう少し教養がついて、いちいちWikipediaさんにお伺いをたてなくてもよいほど読みこなせるようになったら、もう一度読み返してみたい本だ。


書評 『カフェの文化史 ボヘミアンの系譜 スフィフトからボブ・ディランまで』 スティーブ・ブラッドショー ①

1984年出版の古い本だが、タイトルに惹かれて読んでみた。内容はそれなりに面白いのだが、しかし、読みにくい。イギリスのフリーライターが書いたものだそうだが、いかにも知的エリートイギリス人らしく、持って回ったニヒルな言い方の上に、読者サイドに当然のように教養や知識を要求する前提となっている。冒頭のカフェの考察からこうだ。

もう一つ問題となるのは、一軒のカフェを構築しているものは厳密には何だろう、ということであった。アルゴンキンの円卓(1920年代にニューヨークのアルゴンキン・ホテルにつくられた文学クラブ)がカフェでないことは確かだが、モンマルトルのカフェ・コンセールやトゥールズ・ロートレックが出入りしたいかがわしい店ともなると、一口では言えない入り混じった性格を持っている。(略)この本に出てくるさまざまな芸術家たちのグループはなるほど重要であろうが、彼らがともに抱いていたカフェ生活への愛着もクラレットの嗜好以上の意味は持つまい、という議論も当然なされよう。また、印象主義は穴倉(ビア・セラー)のビール店で創始されたかもしれないし、サヴォイ・ホテルに連れて行かれたとしたら、ヴェルレーヌは一層哀れっぽく見えたろう、ということもあり得る。その一方で、カフェだけが、ヨーロッパに紹介されて以来、知的な会合の場として明確な伝統を保ってきたことも事実である。決疑論の学者なら、クールベからアレースター・クロウリーに至るまで、カフェに出かけることによって違いを摸倣し合ってきた人々の伝統をたどるかもしれない。もっと言えば、この本で語られている重要なできごとの数々が、一匹の山羊によって始まったと考えるのも目新しくておもしろかろう。

なんのこっちゃい、という文章である。前提知識として、ロートレックやヴェルレーヌやクールベがどんな人物なのかはもちろん、サヴォイ・ホテル(ロンドン最初の最高級ホテル)やクラレット(イギリスで飲まれたボルドーワイン)やアレースター・クロウリー(19世紀末イギリスのオカルティスト)などといったマニアックなものまで要求される。(ちなみに、最後の「一匹の山羊」は、次章で言及される、コーヒーがアラビアの山羊飼いによって偶然発見されたという逸話を暗示している・・・)これを訳した海野弘先生のような西欧文化を知悉した方なら良いが、極東の片隅で一主婦が読むにはかなりツライ文章である。とにかくウィキペディアさんにお尋ねする回数が多い多い。その上で、やたらと二重否定やら隠喩やらを挟み込んで婉曲的表現が多用されているので、途中、何度も「結局、何が言いたいねん!」と本を投げ出したくなった。

とまあ、前置きの愚痴というか、「私、こんな難しい本読破したのエライでしょ」的アピールはこれくらいにして、内容に入ろう。副題にもある通り、スフィフトらが集った18世紀初めロンドンのコーヒーハウスから、ボブ・ディランが歌を紡いだ今世紀ニューヨーク・ヴィレッジのカフェに至るまで、主にそこに通った芸術家たちを軸に語っている。

ロンドンでのコーヒーハウスには、スフィフトやポープらの文筆家が集い、リチャード・スティールの雑誌「タトラー」や「ガーディアン」、ジョウゼフ・アディスンの編集する「スペクテイター」など、優れたジャーナリズムを生み出した。これらがやがて、クラブ文化へと衰退していくあたりは、小林章夫『コーヒー・ハウス』に詳しい。

賭博の巣として、あるいはまた紳士のための優雅な社交場として、コーヒー店は徐々に特殊化していった。(略)この世紀の半ばまでには、アグリー・フェイス、踵までくるナイトガウンを着るレイジー・クラブ、サイレントクラブを初め、数えきれないほどのクラブが乱立し、コーヒー店を徐々に閉め出していったのだった。(略)クラブの隆盛は、この土地本来の潜在的な島国根性ばかりではなく、ブルジョワ社会において新しい地位の形態が必要とされてきたことを反映しているのだ。

ロンドンで衰退したカフェ文化は、革命前夜のフランス・パリで花開く。パリには1788年までに1200軒を超えるカフェがあったそうだが、中でも有名な「プロコップ」には、ヴォルテールやモリエールがやディドロらが足繁く通った。また、オルレアン公によって開かれた、パレ・ロワイヤルのカフェ群も人気であったと言う。《パレ・ロワイヤルのカフェは、フランス革命の公開討論の場であった》とある通り、この時期のカフェでの活発な議論と時にエスカレートした民衆の示威行動が、フランス革命の温床となったことは、寺田元一『編集知の世紀』でも触れられている。

革命後、政治色の抜けたカフェは、いよいよボヘミアン芸術家たちの溜まり場として黄金期を迎える。詩人のヴェルレーヌが、その筆頭だ。18世紀後半になると、印象派達の「カフェ・ゲルボワ」「ヌーヴェル・アテネ」には、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロやゴーギャン、ゴッホらだけでなく、ゾラやマラルメなどの姿も見られた。印象派グループが解体するにつれ、カフェ文化の中心はセーヌ川左岸のモンマルトルに移っていき、ピカソやモディリアニといった外国人が「ラパン」や「クロズリー・デ・リラ」や「ロトンド」などを舞台に新たなボヘミアンの主人公となる。これらのカフェは、パリに住む芸術家だけでなく、トルストイやトロツキーなどの外国人がパリ滞在時に訪れる国際色強いカフェとなっていくが、さらに、第一次世界大戦を挟み、新たな「外国人=アメリカ人」達の独断場となるのである。

左岸のカフェは、フランス社会からの逃亡者たちにとっても、常に避難所となってきた。それらが外国からやって来た若い芸術家たちに一時代まるまる侵略されてしまったことはかつてなかった。

ヘミングウェイやフィツジェラルドといった「ロスト・ジェネレーション」たちの登場だ。ヘミングウェイの『移動祝祭日』には、「クロズリー・デ・リラ」の名前が何度も登場し、「リラでのエヴァン・シップマン」という章まである。

ロトンドは、ラスパイユの角のカフェ群のなかでは今なお一番大きく、最もコスモポリタン的であった。「右岸でタクシーを拾ってモンパルナスのどこのカフェの名を告げても、必ずロトンドに連れていかれる・・・」『日はまた昇る』The Sun Also Rises の中で、ジェイク・バーンズがこんなことを言っている。

「モンパルナスは、アメリカ四十九番目の州とみなされてもおかしくなかった」とシスリー・ハドルストンは書いている。(略)

アメリカから渡ってきたボヘミアン芸術家があるいは交流し、あるいはそこで創作活動をし、パリのカフェ文化は最後にして最高の盛り上がりを見せる。しかし、それすらも、次第にただのパフォーマンスとなっていく。

10年ばかりそういう愉快な晩を過ごしたあとで、シスリー・ハドルストンは自分なりの判断を下す、「カフェはいくつかの点で悪影響を及ぼしてきたかもしれない。なぜならあまりに多くの作家たちがー画家たちも同じだがーモンパルナスやモンマルトルのカフェで一日の長い時間、そして夜すらも過ごすことで満足しているからだ。彼らは怠惰な習慣に陥っている。創作するのでなく話すことで満足しているのだ。彼らは朝から晩まで議論している。そしてその議論は何の実も結ばない。

そして、世界恐慌が訪れると、《アメリカ人たちはあっという間にカフェを去った》。第二次世界大戦の嵐が吹き荒れ、復興の必要の無い新しい街、アメリカ・ニューヨークで、ボヘミアン芸術家による最後のカフェ文化の残照が見える。この頃になると、もはやボヘミアンは「ヒップ」という言葉にとって代わられる。前述したように、この本は1980年代に書かれた古いものだが、最後のボヘミアン芸術家としてシンガーとしてだけではなく詩人としてのボブ・ディランにスポットを当てているのは、世間をあっと驚かせた20年後の彼の「ノーベル文学賞受賞」の事実を照らし合わせると、非常に興味深い。

(ヴィレッジのカフェ「コモンズ」で)簡単なメモを走り書きしグラスを干すと、ディランは帰って『風に吹かれて』Blowin’in the Wind を作り始めたのだった。この曲は、市民権運動の賛歌(アンテム)となり、ディランをコーヒーハウスの外の世界でも有名にした。シェルトンはこう結ぶ。「彼はどこにいても躍り出ただろう。だが、カフェ社会という布石が決定的だった。彼は現に怒っているあらゆることを総合し、強調し、それらを通して稲妻を放ち、玉虫色に光らせた。

大まかな流れを説明したが、本文では、ここに、19世紀末ロンドン、オスカー・ワイルドら頽廃的芸術家達が跋扈した「カフェ・ロイヤル」や、やはりハプスブルク帝国治下ウィーンの「カフェ・グリーンシュダイドル」などの挿話も挟まっている。特に、ウィーンのカフェは少し独特で、格式張ったマナーや内装をしていたこと、図書室や文化クラブを兼ねたような場所であったこと、シュニッツラー、キルケゴール、ホフマンスタール、ツヴァイク、カール・クラウスら文学者や哲学者の他に、フロイトやアルフレッド・アドラー、エルンスト・マッハー、ブルックナーにマーラー、シェーンベルクら多彩な人物達が集まった様子は、クラウス・ティーレ=ドールマン『ヨーロッパのカフェ』にも描かれている。

政治的生活というものがなかったので、ウィーンのブルジョワジーーはその精力を芸術に注ぐ傾向にあった。貴族たちはもはや芸術の積極的な庇護者とはいえなかったし、(略)ブルジョワには対抗する相手がほとんどいなかった。何にも増して彼らは、その演劇的な性質が自分たちの情況を反映しているかのように見える芸術や娯楽の形態を助成した。(略)暗黙の内にも至るところに姿を現わす性の妄想も、その執拗さの一部はこうした政治的フラストレイションから発しているようであった。ワルツの中に、ウィーン人はエロティックでかるまた現実から目をそむけさせてくれる芸術形態を見出していたー独特の友情と敵意の儀式、流動的な知的同盟を形づくろうとくっつけられた大理石のテーブル、煙の立ちこめた部屋を隔てて射かけるまなざしによって成立したり破られたりするロマンティックな関係・・・・こうしたものを含むウィーンのカフェ社会の性格もまた、このエロティシズムと演劇という感覚によって説明できるのだ。

シュテファン・ツヴァイクが書いているように、ウィーンのコーヒー店は「入会金がコーヒー一杯の料金ですむ民主的なクラブのようなものであった」


書評・小説 『鬼どもの夜は深い』 三枝 和子

どうしようもなく好きなものを人に分かるように説明するのは難しいけれど、どうしようもなく苦手なものを分かるように説明するのはもっと難しい。三枝和子の『鬼どもの夜は深い』は、私の最も苦手で生理的に嫌いなそれこそ「忌避」したいとしか呼べないような世界が表現されている。

三枝和子は、神戸出身の作家で、夫は文芸評論家の森川達也。歴史上の女性を主人公とする歴史小説を多く書いた他、フェミニズム文学の走りとしても知られる。この『鬼どもの夜は深い』は、1983年に上梓され、泉鏡花文学賞を受賞した。

舞台は、丹波と播磨国境、加古川の上流黒田の庄あたりの山深い村である。この山ばかりの貧しい地域から、戦時中には農家の息子達が数多く出征して命を散らし、また、それに巻き込まれて女たちが犠牲になった。それから一世代、二世代経った後でも、その閉鎖的で因習めいた村では、女たちと若い男たちが、或いは人生を囚われ、或いは命を散らしている。

特攻に志願した若い出征兵の子供を身籠り、村人の冷たい視線を浴びたまま産後3ヶ月で飛び込み自殺をした満子、その娘で「父なし子」と蔑まれながら十七で村を飛び出し、その後村に帰ってきて1人でスナックを開き、「男たちを誑かす雌狐」と呼ばれる日佐子、義父に犯され続けることを黙認する家族たちから出奔した印一の母、その娘は思春期の戯れに同級生のバイクの後ろに乗せられて事故死する。やはり出征直前の男性と無理矢理に結婚式を挙げ、たった一夜の関わりで身籠り、戦争未亡人となった後は子供と舅姑に縛り付けられる人生を送った真志乃、その孫娘の仙子は同級生達に強姦されたことをきっかけに自ら売春行為に身を落としていき、ついには妊娠、発狂して自殺する。

とにかく、貧困と差別と因習が根深く巣食った山奥の集落。これだけでも十分嫌いなのだが、さらに、その死や狂気や病の陰に、禍々しい得体の知れないものが潜んでいて、そこが恐ろしい。特攻さんの落とし子である日佐子狐には特攻さんの未練が取り憑いて若い男を餌食にする。知恵遅れのきよちゃんは、誰とわからぬ兵隊さんの子を身籠り、添い寝の最中に赤子を窒息死させて、死んだ赤ちゃんを抱いたまま北山の黄泉の国をさまよっているという。死に急ぐようにバイクを爆走させる高校生の省吾を、鬼が坂の鬼たちが岩陰に潜んでじっと窺っている。そんな世界観の中で、耐え難い差別や不幸が、どこか幻想的に非現実的に映ってしまう。

山奥の村落に伝わる昔話やわらべ歌、神隠しや鬼や天狗や狐のような得体の知れない生き物たち、そんな中に禍々しい貧困や差別や狂気が隠されている、そういうのが一番恐ろしくて苦手なのだ。幼い頃から、山麓にある小さな神社、とか、どこか気味わるくて近づきがたかった。ジブリ映画の『もののけ姫』を観て、もののけに対抗して森を切り開こうとする悪役の方に共感してしまう。柳田国男もなんとなく怖くて一度も読んだことがないし、深沢七郎の『楢山節考』で無邪気な童歌に恐ろしい姥捨や子間引きの真実が隠されているラストシーンなど、ショックで眠れなくなってしまった。この感覚、お分りいただけるであろうか。

私自身は、港町で生まれ育ち、その後も都市にしか住んだことがなく(日本はもちろん、世界的に見ても、都市というのは基本的に海運の便の良いところに発達するのは言うまでもない)、山深い集落で因習めいたわらべ歌に耳を傾けた体験など微塵も無いはずなのに、どうしてこんなに生理的に拒否したくなるのだろう。もしかしたら、前世から引き継いだ魂みたいな、遺伝子の記憶みたいな、そんな深い深いところに原因があるんじゃないか、と疑ってみたくなる。ちなみに、私の食いしん坊のつれあいも、とにかく山深いところが嫌い、山奥に入ると寒くて惨めな感じがしてくる、広々とした水田や海岸線が広がっていると心安らかになる、という人なので、「前世に山奥の寒村で餓死したに違いない」と揶揄ってみたりするのだが、私だって前世は、差別と因習の染み付いた昔話に怯えていた女子供だったのかもしれない。もしかしたら、日本人の大多数が、遠くない過去の、こんな魂の記憶を、どこかに密かに抱えているのかもしれない。


書評・小説 『お家さん』 玉岡 かおる

神戸の小さな洋糖輸入商から始まり、大正から昭和初めまで、日本初の総合商社として日本一の年商でその名を知らしめた鈴木商店。その後継会社は、神戸製鋼所、帝人、日商岩井、太平洋セメント、IHI、サッポロアサヒビール、日本製粉、三井住友海上火災保険、三井化学、昭和シェル石油など、錚々たる名前が連なる。女性ながら、事実上の創業から倒産まで、そのトップに君臨した鈴木よねを主人公とした小説である。

初版発行は2007年だが、2014年には竹下景子主演で舞台化、天海祐希主演でテレビドラマ化された人気作だ。自身も兵庫・神戸出身である著者の玉岡かおるが、鈴木商店に勤めたOBやその親族たちで組織される「辰巳会」、のちの子会社にあたる双日・神戸製鋼・IHI、或いは当時の経営者達の親族などに直に取材し、4年の歳月を費やして創作したと言う。関係者も多く生存し多大な協力を仰ぐ中で、色々「忖度」しなければならないところも多かったのだろう。主人公よねの人間像や心理に迫るような描き方はしていなくて、むしろ、実在しない養娘の「珠喜」や継娘となる「お千」をめぐる物語など、フィクション部分を拡大して、ややメロドラマ的な仕上がりになっている。

メロドラマ部分は置いておくとしても、鈴木商店の目を見張るような隆盛ぶりは、そのままドラマとして実に面白い。創業者であるよねの夫岩治郎が急逝してから、よねが女手一つで事業を継続する決断をするところ、経営サイドのトップとして実業を全面的に任された金子直吉が、樟脳の取引で大損し倒産の危機に立たされるところ、それをよねの必死の金策で何とか食いつなぎ、恩を感じた直吉が、八面六臂の大活躍で、台湾植民と第一次世界大戦の好景気を商機に事業を次々と拡大していくところ・・・明治後期から昭和初期の、商都神戸の勢いある様子も面白いし、日清戦争後に植民地化された台湾との関係について詳しく書かれているのも興味深い。

台湾との関係については、日本ではやたらと楽観的・肯定的に受け止めている傾向が強いが(多分、お隣の中国や韓国との関係悪化の反動だろう)、やはり他国を植民地化するということは、原住民との軋轢無しでは成立しなかったのだな、とよく分かる。日露戦争に出征して心にも身体にも生涯癒えない傷を負い、台湾の原住民と結婚して子供までもうけても引き裂かれてしまう田川の姿を通じて、戦争の残酷さと虚しさを描いている。作中で、森鴎外の反戦の詩や、島崎藤村の詩などを繰り返し使っているのも、当時の人々の心情を想像して味わってほしい、という作者の意図が感じられて印象的だ。

日の出の勢いで拡大する鈴木商店も、第一次世界大戦後の不況、その余波をくらっての本社焼き討ち事件、関東大震災に金融恐慌という荒波を被り、倒産と解散を余儀なくされる。関係者が多い中では、主人公の鈴木よねや経営トップの金子直吉などを悪く描くこともできないので難しいのだろうが、欲を言えば、鈴木商店が破綻する原因については、もう少し突っ込んだ分析が欲しかった。瞬く間に神戸の一商店から日本一の総合商社にのし上がった裏には、それだけあっけなく破綻してしまう無理や歪みも抱えていたに違いない。鈴木商店の突然過ぎる倒産には、時代の流れと世間の妬み嫉みだけでは片付けられないそれなりの理由があったはずである。台湾銀行との癒着、第一次世界大戦のバブルに乗りすぎたこと、天才経営者金子直吉のワンマン経営など、もう少し客観的な原因分析があれば、より面白くなったのになあ、と少し残念である。

タイトルの「お家さん」とは、

それは古く、大阪商人の家に根づいた呼称であった。間口の小さいミセや新興の商売人など、小商いの女房ふぜいに用いることはできないが、土台も来歴も世間にそれと認められ、働く者たちのよりどころたる「家」を構えて、どこに逃げ隠れもできない商家の女主人にのみ許される呼び名である。

商家というのは、文字通り、「商い」でもあり「家」でもあり、それらが別々に両立しているようで、渾然一体ともしている、なんとも不思議な在り方だ。しかし、日本人にとっては、この在り方が長らく自然なもので、戦後のサラリーマン社会においても、どこかその影を引きずっているところがある。そう思って読むと、「お家さん」としてシンボリックにトップを飾り続けた主人公よねと、「商い」のトップとして思う存分力を発揮した番頭の金子直吉と、その心理についても人間関係についても、もっと突っ込んで知りたくなってしまうのは故無いことではないと思う。


書評 『バロックの光と闇』 高階 秀爾 ②

バロックを反「古典主義的なもの」と定義し、その対比から特質を捉えることは《便利》だが、一方で、ヴェルフリンのような概念化は《うっかりすると図式化する危険性がある》。実際のバロックは、反古典的様式という概念には収まりきらない、豊穣で複雑なものをもっているのである。単純化した説明の後で、高階先生は、バロックのもつ「写実性」「光」「装飾性」「浮遊性とダイナミズム」「都市空間と建築」「演劇」「音楽」など様々な観点から、その奥深さを分析している。

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