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書評・小説 『ジョゼと虎と魚たち』 田辺聖子

ことし6月、田辺聖子さんの訃報を聞いてから、また読み直したいなあ、と思いながら、ずるずると日が経ってしまった。「多作」というだけであまり良いイメージをもっていなかった私が、今から10年くらい前だろうか、田辺聖子さんの本を読むようになったきっかけとなった本だ。久しぶりに読んで、うん、やっぱり、私の好きな田辺聖子さんのエッセンスが詰まった短編集だなあ、と思った。

で、今回は少し、そのエッセンスをまとめてみたいと思う。もちろん、田辺聖子さんは引き出しの多い作家さんなので、ここに挙げたのは、あくまで私が個人的に好きな部分ということだけど。

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『すいかの匂い』 江國 香織

これも、夏が近づいてくると、なにげなく手にとってしまう類の本。

少女の夏の物語11篇。少女と言っても、10歳には届かない、本当に小さな子供くらいの年齢だ。昭和のノスタルジックな空気が溢れている。今回、読み直してみて、「おしろい花」と「枇杷の木」がよく出てくるなあ、と思った。どちらも、昔はそこらへんにあったのに、あまり見かけなくなった。

なんと言っても、五感のすみずみに届いてくる江國香織さんの文章が良い。

畳に置かれた大きなお盆にならべられたすいかにかぶりつくと、「だらだらとしるがたれ」て、ふと見るとお盆のすいかには真っ黒な蟻がたくさんたかっていてぎょっとする。「ぬかみその様な匂いのする台所」で「紙のカップに入った小さなバニラアイスを、木べらのようなスプーンですくっては口に運ぶ」ようす、壁いっぱいにくっついた小さなかたつむりをはがして長くつで踏んで歩くときの「しゃり、という刹那の、あの儚さ」、真夏の葬式から帰宅し、仄暗い八畳間の中で母が喪服をベンジンで拭くときの「揮発性の匂い、甘い頭痛」、団地のなかを通ると「よその家に入るとする匂いが、家の外まではみだして」いる。

情景だけでなく、味、匂い、肌触り、までが本当にありありと感じられる。文章と物語の力ってなんてすごいんだろう、と、なんだかヴァーチャルアトラクションでも体験したかのように思ってしまう。

このお話、わかる。たぶん、こんなにこれがわかるのは私だけじゃないのかな。僕だけじゃないのかな。・・・江國香織さんのファンは、江國さんの書く小説について、たぶん全員がそう思っているんじゃないろうか。じつは、私だって、そう思っている。

巻末の川上弘美さんの解説。江國香織さんの描く子供は、病気がちだったり神経質だったりいじめられっ子だったりが多い。私は、兄2人の末っ子で、こういうタイプの子供とは完全真逆、むしろ、そういう子達を槍玉にあげて苛めてやるくらいの少女版ジャイアンみたいな子供だったのに、それなのに、この物語を読んでいると、なぜだか「わかる」と思ってしまうのだから、やっぱりすごい。

子供の物語なのだけれど、あけっぴろげな無邪気さはなくて、どれもしんとして怖かったり切なかったりする。団地や田舎をモティーフに、貧しさ、病気、犯罪、精薄といったダークな部分が見え隠れする。(「はるかちゃん」で、幼女に性犯罪する青年の姿がさらっと描かれているあたりは、きょうび出版したらなにかと言われそうなくらいである)それなのに、不思議と暗く重たいだけにはならなくて、それをはねのける、いや、後ろに置いて進んでいくだけの強さがある。少女と夏の強さみたいなもの。

そういう夏から何十年も過ぎた。私はいつしかそういう夏から遠く隔たってしまい、今度は私の小さな娘がその入り口にいる。


書評・小説 『夜はやさし』 スコット・フィツジェラルド

フィツジェラルドの最長作品で、自伝的要素が強いとされている作品である。若く優秀なアメリカ人の精神科医ディックは、患者である大富豪の美しい娘ニコルと恋に落ちて結婚する。しばらくはディックは富も名声もある華やかな生活を送っていたが、若い女優ローズマリーと恋仲になる。それを境に、次第にニコルの病気の再発や彼女の莫大な財産が重荷となり、酒に溺れて彼女との愛も消え、彼の人生は転落していく。 続きを読む


書評・小説 『きのね』 宮尾 登美子

久しぶりにめくるめく小説の世界にどっぷり浸かりたい!と思って、宮尾登美子さんの中ではなぜか読み残していたこの作品を手にとった。結果は・・・期待通りのどっぷり2日間の宮尾ワールドに浸れて幸せでした()

宮尾登美子さんの長篇小説は殆ど全て読んでいると思うが、この人の「語り手」としての力量は現代作家の中でも随一だと改めて思う。文章が美しいとか味がある、という作家さんは他にもいると思うが、宮尾登美子さんは「語り口」という意味で言えば、例えば源氏物語とか平家物語とか樋口一葉とか、日本の古典芸能とか・・・そういうものの伝統を受け継いだような巧みさと力強さがあると思うのだ。

そんでもって、このきのねは、ストーリーも面白い。何て言っても先代市川団十郎の妻、つまり、何かと話題の現市川海老蔵のおばあちゃまにあたる方をモデルにした物語なのだ。貧しい千葉の塩焚きの娘に生まれ、身よりもないまま歌舞伎俳優のお家の下働き女中として奉公に出た主人公。「おぼっちゃま」のお姿を拝見するだけでも眩しくてまともに見ていられないほどだった下の下の女中だったのだが、神経質で気難しいおぼっちゃまに献身的に仕えに仕え、主がチフスにかかれば命にかかわるほどの大量輸血を自ら買って出て、苦しい戦時中にはお給金も出ないまま主のための食糧探しに奔走し、ついに主人からお手がついた後も、二人の子供まで授かりながらずっと日蔭の身に甘んじた末に、最後の最後で本妻に認められるという・・・まさに耐えがたきを耐え忍んだ忍耐の女の一生。

特に圧巻なのが、主人公がたった一人で長男(現市川団十郎)を産むシーン。誰の助けもないまま陣痛の苦しみに頭を柱にぶつけてのたうちまわり、厠で力んで自らの手で赤子を掴みだして、お産婆さんが駆けつけたその時には、へその緒のついたままの赤子を横に寝かせ、髪を梳いて着物を着て正座していたという・・・宮尾登美子さんは、この小説を書くにあたり(そもそも関係者が多く生存しているので)色々逆風もあった中、「コレ書かなきゃ死ぬ」という思いで挑み、ついに現市川団十郎を取り上げたというお産婆さんを探し当てて、頼みこんでの一度きりの取材に応じてもらった、というから、このシーンの真に迫った迫力はひとしおである。

それにしても、歌舞伎界は古い世界とは言われているものの、たった数十年前でこの階級差や女性蔑視は、イスラムやヒンドゥー社会にもひけをとらない中々のものである。そういう意味では、色々言いたくもなるのだが、何しろ、昭和の女の強さと作者の語りの力量の前に、もう言葉もない私である。


『阿部一族』 森鴎外

今更ながらの森鴎外ブームでkindle無料版にてまずはこちらを読んだが、いきなり衝撃作であった。

あらすじについては説明しない。この作品は、有名な明治天皇崩御時の乃木希典殉死事件を受けて書かれたものとされている。確かに、殉死に始まり殉死に終わる物語なのだが、殉死そのものがテーマなのではない。「殉死」が表彰する男の不退転の決意、見栄、プライドがないまぜになったものとでも言おうか。松岡正剛の『千夜千冊』に拠れば、鴎外は『遺書』や『阿部一族』をまとめて『意地』という作品集に入れたそうだ。

栖本又七郎の『阿部茶事談』という書物を下敷きにしているという。森鴎外についてまとまった評伝を書いた松本清張は、『阿部一族』は、この『阿部茶事談』のいわば現代語訳に過ぎないと論じている。松本正剛も、「千夜千冊」の『阿部一族』の回で、最後の「参考」部分でこの論について触れているが、それだけ「読み手に投げ出された」創作ができる森鴎外はやっぱりすごいと思う。その上で、私は、やっぱり『阿部一族』について、作者の創作真意は翻訳以上のものにあったのではないかという印象を拭えない。

何よりも、この物語を読んで感じるのは、執拗に繰り返される殉死の異様さである。主君忠利の逝去を受け、殉死の名誉に与った18名の列挙は無論のこと、阿部一族の討伐を命じられた竹内数馬や高見権右衛門の小姓に至るまで、我先にと殉死したがる。その異様さは、ただの伝統的・武士的殉死美談からは感じられないものだと思うのだ。

その異様さの陰で、作者の冷徹な筆は、殉死を許された人々の一族が、どれだけの栄誉と経済的利益を被ったか、そういう打算的一面があったことにさりげなく、しかし具体的に事細かく触れている。

中にも殉死の侍十八人の家々は、嫡子にそのまま父のあとを継がせられた。嫡子のある限りは、いかに幼少でもその数には漏れない。未亡人、老父母には扶持が与えられる。家屋敷を拝領して、作事までも上からしむけられる。先代が格別昵懇にせられた家柄で、死天の旅のお供にさえ立ったのだから、家中のものが羨みはしても妬みはしない。

さらに、この悲劇(という言葉が妥当とは思えないのだが)の直接の発端が、非常に脆いごく些細なこと、主君の忠利がなぜ阿部弥一右衛門に殉死の許可を与えなかったかというと、「ただなんとなく虫が好かないから」以上の理由がなかったことを暴き出す。

人には誰が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿してみると、どうかすると捕捉するほどの拠りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。

主君として非の打ち所がなく、将軍からの覚えもめでたい忠君細川忠利でさえも、真面目すぎてけむたいというだけで「なんとなく」家来を疎んじて差別してしまうのである。そりゃそういうこともあるだろう、と今までの上司や上役を思い浮かべて、現代の我々は思うわけであるが、そこから端を発して最終的には一族郎党皆殺し、ついでに討伐する方まで次々殉死という大飛躍は、江戸時代初期とはいえ中々のトンデモ感である。

極め付けの異様さは、まさにこの物語の土台をつくったとされる又七郎(物語の中では柄元又七郎)の姿である。物語の中盤、突如として登場する又七郎は、年来懇意にしていた阿部一族に同情し、立てこもった彼らを妻にこっそり見舞わせる。四面楚歌となって追い詰められた阿部一族は、彼の厚意に狂喜する。そうやって人情に厚い姿を見せた又七郎と思いきや、討伐の前夜になって『武士たるものがこの場合に懐手をして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である』と、命じられてもいないのに、突然阿部一族討伐に加わることを決意するのである。

読者が「え、なに、そのどさくさ感!?」と思う間もなく、阿部一族の討伐シーンが始まり、又七郎は筆頭の弥五兵衛を討ち取る一方で、まだ前髪の残る幼い七之丞から隙を突かれて深傷を負う。彼は勝手にこの討伐に加わったのであり、この物語に吹き荒れる「殉死」の嵐の中にはいないから、家来に運び出されて生き延びる(この時に家来の一人は主君をかばって討ち死にするという無味簡潔な一文があるが、いい迷惑である)。

かくて、阿部一族の討伐が終わった後は、当主の光尚からその功績を讃えられ、屋敷地まで封ぜられる。挙句の果てに、その裏にある『藪山もつかわそうか』と問われると、戦争時には竹がたくさんいるという理由で辞退するという美談を添え、『元亀天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった。阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ』と笑うのである。先に述べた『阿部茶事談』というタイトルは、この言葉が元になっている。この物語で初めて人情味のあるところを見せたかと思いきや、呼ばれてもいないのに悲遇の阿部一族の征伐に参加し、家来には無駄死にさせ、自分はちゃっかり恩賞を貰い受けた上に美談でアピール、過去の自分の豪傑自慢の笑い声で幕を閉じる、なんと気味悪い存在であろうか。

こういう異様さが繰り返されたところで、最後に、阿部一族討伐の当日に見せる主君細川光尚の冷酷な姿が際立つのである。阿部一族を討ちにやった当日、近くの家へ遊びに出かけるついでに物音を聞き「今討ち入ったな」とつぶやいて駕籠に乗る。出先の庭先で、血みどろの姿で阿部一族討ち取りの成果を報告する家来たちを迎え、最後に座を立ちながら「皆出精であったぞ。帰って休息いたせ」の一言。男でなくとも、読む者に万感の思いを生じさせる見事と言うしかないシーンだ。

森鴎外は確かにこの異様さを強調したのだと思う。それを評価したかったのではないかもしれない。でも、殉死という悲劇の陰に潜む喜劇的なほどの必然性の無さや、それをめぐる打算的一面についても客観的に描くくらいには、批判的だった。

余談だが、軍隊とか官僚組織とかには所属した経験がないので、私にとっての男社会は、大企業のイメージである。池井戸潤あたりが、大企業を舞台に『阿部一族』の現代版でも書いてくれたら面白いのになあ、なんて思う。(本当は山崎豊子先生にお願いしたいかも)柄山又七郎みたいなバブリー世代の部外役員あたりが、ロスジェネ世代の阿部弥五兵衛や竹内数馬を踏み台にしての仕上がり、「俺たちの時代はなあ・・・」なんて過去の栄光自慢して幕を閉じ、読者サラリーマンに万感の思いをさせる小説なんて、ちょっと読んでみたいではないか。ものすごい余談ですみません。