森瑤子と亀海昌次の共著エッセイ。「サイド・バイ・サイド」の名の通り、「六本木」「ドア」「カレンダー」など様々なテーマを元に、森瑤子と亀海昌次が順番に重い思いのショート・エッセイを綴る。
グラフィック・デザイナーの亀海昌次は、森瑤子の本の装飾を50冊以上手がけており、この本の他に『もう一度、オクラホマミクサを踊ろう』『おいしいパスタ』などの共著も出版している。島崎今日子著『森瑤子の帽子』によれば、二人は若い頃恋人関係にあり、婚約までしていたという。若かりし時代に恋人同士であり、それぞれ小説家とデザイナーという名を成してから仕事も協力し合う無二の親友になる、なんて、ちょっと出来すぎた話みたいだが、事実なのである。
森瑤子は、既にデビュー作の『情事』から、かつて恋人であった親友の建築家、という彼をモデルにしたと思しき人物を登場させている。また、婚約まで至りながら破談に至った顛末を、「自立していない女が依存し過ぎて相手の男にフラれる」という構図で、エッセイ『風のように』や短編集『イヤリング』の「指輪」といった小説で何度も取り上げている。本書でも、「ドア」というお題で、若い頃恋人に捨てられた自分について書いているが、《恋人が私に別れを宣告したのは、ジョン・F・ケネディが車の中で撃たれた前夜であった》と、亀海とのことを暗示している。彼女のことだから、小説やエッセイで繰り返し取り上げているうちに、かなり誇張されデフォルメされて、パターン化されたエピソードになってしまっているような気もするが、亀海昌次が、彼女の生涯を通じて重要な男であったことは、前述の『森瑤子の帽子』の「運命の男」の章を読めばよく分かる。
と言うことで、森瑤子ファンとっては、亀海昌次と言えば彼女の「運命の男」であり、そこにはいつも、森瑤子の、、、という枕詞がついてしまう。そういう興味で読み始めた本書だったが、亀海昌次の文章が思いの外、と言ったら大変失礼なのだが、素晴らしくてびっくりしてしまった。ちょっとこの時代の人らしい、デカダンでぺダンティックなところはあるけれど、ドライで辛口で余韻があって心憎い文章なのである。自分の父親について書いた「夜遊び」とか、引退していく記者について書いた「ドア」とか、男の哀愁もあってすごく良い。
むしろ、このエッセイでは、森瑤子の方が「またか」という、お決まりのエピソードが多くて、あまり新鮮味が感じられず、印象が薄い。「今ひとたびの森瑤子」の記事で書いた通り、多作を極めた彼女は、エピソードだけでなく言い回しや文章事態にも使い回しが多く、88年に出版されたこのエッセイでも、それは同じである。
いくら、『森瑤子の帽子』でも「名文家」であると紹介されていた亀海氏とは言え、本業はもちろんれっきとしたグラフィック・デザイナー。これじゃあ、森瑤子という作家の名折れじゃありませんか、、、と思ったが、巻末の二人の対談を読んで、おや、と思う箇所があった。
森 苦しんで書かないということが、よくないということなのよ、カメちゃん。わかる?私、やっぱりすごくマゾなところがあるから苦しい仕事が好きなのね、苦しむ作業が。でも、カメちゃんとの仕事でね、カメがああいうスタイルで書いてるでしょう。私がまたあれに対抗して自分のなにか出しちゃったら、あのページ野暮くさくなるし重くて、バランス的にどうしようもなくなっちゃうのよ。
亀海 バカやろう、(笑)じゃ、まるで全部お前がディレクトしてるみたいじゃないか。(笑)
森 いや、はっきり言って、カメちゃんがああいうふうにするから私はこういうふうになっていくと。で、私は全然苦しくないの。
当時、このエッセイは雑誌の連載だったようで、どのような形式で掲載されていたかははっきりしないが、毎回テーマごとに二人のエッセイが並んで掲載されていたのかもしれない。言われてみると、確かに、亀海昌次の文章は余韻はあるけれども、雑誌で軽く読むには結構暗いテーマも多くて、森瑤子の軽いタッチの文章が、良い「前座」のようになっている。これを本当に計算してやっていたとしたら、相当な<ディレクト>のテクニックだと思う。まあ、彼女の場合、80年代後半になると、あまりに多作過ぎて、勢い全てが「軽く」ならざるを得なかったのでは、という感じはするのだが。
私は、森瑤子のエッセイはあまり好きじゃなくて、やっぱり彼女はフィクションを纏った方が彼女の文体が生きてくるんじゃないかと思う。エッセイだとストレート過ぎたり、気障過ぎたりして、なんとなく作家のエゴイスティックさが剥き出しな感じで鼻につく。でも、この亀海昌次との共著とか、同じように公私共に付き合いのあったイラストレーター橋本シャーンとの共作『スクランブル』というエッセイ集なんかは、軽さが返って心地よいレベルに達していて個人的に好きなのだ。相変わらず使い回しのエピソードや文章が多いのだが、なんだか肩の力が抜けていると言うのか、さらっと表だけなぞったようなエレガントさがある。相手の文章やデザインをさりげなく生かそうとする森瑤子の一歩「退いた」感じが生きているのかもしれない。なんとなく、作家としてだけではない、森瑤子の性格が偲ばれる本である。
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