書評・小説 『鬼龍院花子の生涯』 宮尾登美子


宮尾登美子の長編小説が大好物なのである。このブログでは、『きのね』を紹介したのみだが、それは10年以上も前に、彼女の長編小説を既にほとんど読み終わっているからだ。『櫂』三部作をはじめとして、生家の土佐芸妓ものも好きだし、『一弦の琴』や『伽羅の香』などといった芸事一徹の女性を描いたものは特に好き、『松風の家』や『蔵』のようなお家もの、歴史ものの『東副門院和子の涙』や『天璋院篤姫』も、珍しく女性主人公の影が薄い『菊亭八百膳の人々』も全部好き。

ストーリーの面白さや登場人物の葛藤や心理を印象的に描いているのも良いのだけれど、何と言っても好きなのは、作者の「語り」口としか表現のしようのない独特の文体や表現方法である。《例えば『源氏物語』とか『平家物語』とか樋口一葉とか、日本の古典芸能とか・・・そういうものの伝統を受け継いだような巧みさと力強さがあると思う》「きのね」の記事で私はこんな風に書いたが、この日本古来から受け継がれてきた「語り」の魅力が、小説のどこか雅で同時に土臭く生臭く、力強い世界と一体となって、目眩く「物語」が体感できる、それが、宮尾作品の醍醐味なのである。

宮尾登美子さんの話になるとついつい熱くなってしまい、前置きが長くなったが、彼女の代表作の一つ、この『鬼龍院花子の生涯』も、そんなわけで読むのはもう三度目だ。宮尾作品は、歴史風俗、ドラマティックさ、キャラクターと揃っているので映像作品とはことさら相性が良く、映画だけでなく大河ドラマでも取り上げられている。この『鬼龍院花子の生涯』は、監督は五社秀雄、仲代達矢や岩下志麻ら豪華キャストに加え、若かりし夏目雅子が当たり役となり、宮尾登美子さんを一躍メジャーにした作品である。

大正昭和の「家」と「女」を描き方が秀逸な宮尾登美子さんだが、この小説の鬼龍院家は俠客だけにあまりにはちゃめちゃだし、その周囲の女性たちは人権無視でひたすら「忍従」するしかない立場で、ちょっと感情移入するには難しいので、個人的には、宮尾作品の中で特別好きと言うわけではない。

たまたま、実家帰省先の手持ち無沙汰で、母親の本棚から拝借して期待せず読み始めた。予想に反して興味を惹かれてしまったのは、「大正、昭和初期時代の俠客業」という極めて特殊な世界の様子である。戦後の「極道もの」とはまたイメージが違う。財界人や警察といった権力とも結びつきながら、労働争議に介入したり、相撲や飛行機の興行に参加したり、大きな社会的役割を担っていたことが分かる。

鬼龍院政五郎の生い立ちや土佐随一の任客として成り上がるまでを綴った冒頭で、飛行機興行に入れ上げるエピソードを紹介していて、おや、と思った。平成令和の日本では、成り上がった経営者が宇宙飛行やロケット開発に実利を度外視して入れ込んでいるのを思い浮かべてしまったのだ。

侠客の一大事業が「興行」であると言うのは、世界的に見ても単なる偶然ではない。興行と賭け事はセットであり、莫大な儲けの機会が潜んでおり、だからこそ、そこにはいつも反社会勢力がいる。鬼龍院政五郎の飛行機興業の様子を読んでいると、まるで、現代のスポーツビジネスと新テクノロジー投資の中間のような感じだ。相撲は伝統的に黒い世界との結びつきの噂が絶えないが、現代の功成り名を遂げた実業家たちが、野球にサッカーに、スポーツビジネスに参入したがるのも、やっぱりなんだか似ている。

ヤクザの資金源は盛り場にシマを持つことだが、そこから一歩踏み出して興行ものに手を染め始めたのは、西日本一帯ではたぶんこの鬼政あたりが最初ではなかっただろうか。士魂商才、と鬼政はよくいい、当今の俠客は頭を働かさんならんと子分たちにいい聞かせていたが(略)

自分の手によってた多数の観客を動員するのは一種の壮挙であり、それが賭博の要素を多分に孕んでいるものなら鬼政の闘志をかき立てずにはおかず、この東京相撲と、それから少し遅れて流行りはじめた浪花節の興行をずっと一手に引受けて、一時は四国内で打つものは鬼政の了解なしでは成り立たないとまで云われたものであった。

こうした興行へのこだわりに加え、《「労働争議の源というのは、つまり俠客道とおんなじこっちゃ」》と大正デモクラシーで盛んになった労働争議に精を出したり、その一方で土佐実業界の大物でのちには貴族議員も務める須田翁に重用されたり、右も左も関係なく、活躍する。賭場をはったり、飲食店や市場などからみかじめ料を巻き上げたり、といった、極道の正業(なんてものがあるのか知らないが)ももちろんやるが、いわゆる仲裁などのフィクサー的な仕事だけでなく、「火消し」とか「大火事の炊き出し」といった現代での社会的ボランティア事業まで請け負っているのだから、当時の俠客業は相当に奥深い。

興行ビジネスへの目はし、左右両方との政治的繋がり、社会的ボランティア、と、めちゃくちゃなようでいて、鬼政のやることは現代の経営者に通ずるものがあって面白い。こういう視点で、宮尾登美子作品の面白さを感じたのは初めてのことだった。名作は、何度読んでも、自分の環境や知識や状況に応じて、新しく学ぶことがある。

内館牧子さんの『終わった人』の記事でも書いたが、女性作家が描く男の世界というのが実に面白い。男性作家だと、どうしても過度に美化したり感情移入したり、或いはその反対に非難がましい感じになったりしがちだが、女性作家はやはり距離を置いて客観的に(少々冷めた目で)見ることができるからだろう。山崎豊子さんは限りなく男に近い目線で書いているが、宮尾登美子さんのは飽くまで女性目線だ。でも、返ってその距離感が、男の世界をありのままに映し出すこともある。白と黒だけでは割り切れない、複雑な(殆ど支離滅裂な)男社会のあり方、というものが、論理的な解説書でどんなに言葉を尽くしても説明できない暗部や深部に至るまで、小説という「語り」によって浮かび上がっている。

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