関西一覧

書評・エッセイ 『ほっこりぽくぽく上方さんぽ』 田辺 聖子

ロングアイランドの次は関西が気になる、ということで、関西を舞台にした小説をぽつぽつ読んでいるうちに、関西に縁もゆかりもない私でも段々と土地勘が出てくる。そうすると地理的なことにも興味が出てきて、私にとっては今一番の関西文学ガイド役である田辺聖子さんの、こちらのエッセイを読んでみたくなった。平成7年12月号の『オール讀物』に5年にわたり連載されたのを纏めたものである。大阪出身の著者が知り尽くした大阪キタ、ミナミから尼崎、貝塚の他、和歌山の熊野、京都の祇園や宇治、神戸や奈良に至るまで、編集者と一緒に巡る文学散歩。田辺聖子さんと一緒に「ほっこりぽくぽく」ゆっくり読んでいこうと思っていたのに、あんまり面白くてついつい一気読みしてしまった。大阪人でもないのにせっかちな私である。

続きを読む

書評・小説 『お家さん』 玉岡 かおる

神戸の小さな洋糖輸入商から始まり、大正から昭和初めまで、日本初の総合商社として日本一の年商でその名を知らしめた鈴木商店。その後継会社は、神戸製鋼所、帝人、日商岩井、太平洋セメント、IHI、サッポロアサヒビール、日本製粉、三井住友海上火災保険、三井化学、昭和シェル石油など、錚々たる名前が連なる。女性ながら、事実上の創業から倒産まで、そのトップに君臨した鈴木よねを主人公とした小説である。

初版発行は2007年だが、2014年には竹下景子主演で舞台化、天海祐希主演でテレビドラマ化された人気作だ。自身も兵庫・神戸出身である著者の玉岡かおるが、鈴木商店に勤めたOBやその親族たちで組織される「辰巳会」、のちの子会社にあたる双日・神戸製鋼・IHI、或いは当時の経営者達の親族などに直に取材し、4年の歳月を費やして創作したと言う。関係者も多く生存し多大な協力を仰ぐ中で、色々「忖度」しなければならないところも多かったのだろう。主人公よねの人間像や心理に迫るような描き方はしていなくて、むしろ、実在しない養娘の「珠喜」や継娘となる「お千」をめぐる物語など、フィクション部分を拡大して、ややメロドラマ的な仕上がりになっている。

メロドラマ部分は置いておくとしても、鈴木商店の目を見張るような隆盛ぶりは、そのままドラマとして実に面白い。創業者であるよねの夫岩治郎が急逝してから、よねが女手一つで事業を継続する決断をするところ、経営サイドのトップとして実業を全面的に任された金子直吉が、樟脳の取引で大損し倒産の危機に立たされるところ、それをよねの必死の金策で何とか食いつなぎ、恩を感じた直吉が、八面六臂の大活躍で、台湾植民と第一次世界大戦の好景気を商機に事業を次々と拡大していくところ・・・明治後期から昭和初期の、商都神戸の勢いある様子も面白いし、日清戦争後に植民地化された台湾との関係について詳しく書かれているのも興味深い。

台湾との関係については、日本ではやたらと楽観的・肯定的に受け止めている傾向が強いが(多分、お隣の中国や韓国との関係悪化の反動だろう)、やはり他国を植民地化するということは、原住民との軋轢無しでは成立しなかったのだな、とよく分かる。日露戦争に出征して心にも身体にも生涯癒えない傷を負い、台湾の原住民と結婚して子供までもうけても引き裂かれてしまう田川の姿を通じて、戦争の残酷さと虚しさを描いている。作中で、森鴎外の反戦の詩や、島崎藤村の詩などを繰り返し使っているのも、当時の人々の心情を想像して味わってほしい、という作者の意図が感じられて印象的だ。

日の出の勢いで拡大する鈴木商店も、第一次世界大戦後の不況、その余波をくらっての本社焼き討ち事件、関東大震災に金融恐慌という荒波を被り、倒産と解散を余儀なくされる。関係者が多い中では、主人公の鈴木よねや経営トップの金子直吉などを悪く描くこともできないので難しいのだろうが、欲を言えば、鈴木商店が破綻する原因については、もう少し突っ込んだ分析が欲しかった。瞬く間に神戸の一商店から日本一の総合商社にのし上がった裏には、それだけあっけなく破綻してしまう無理や歪みも抱えていたに違いない。鈴木商店の突然過ぎる倒産には、時代の流れと世間の妬み嫉みだけでは片付けられないそれなりの理由があったはずである。台湾銀行との癒着、第一次世界大戦のバブルに乗りすぎたこと、天才経営者金子直吉のワンマン経営など、もう少し客観的な原因分析があれば、より面白くなったのになあ、と少し残念である。

タイトルの「お家さん」とは、

それは古く、大阪商人の家に根づいた呼称であった。間口の小さいミセや新興の商売人など、小商いの女房ふぜいに用いることはできないが、土台も来歴も世間にそれと認められ、働く者たちのよりどころたる「家」を構えて、どこに逃げ隠れもできない商家の女主人にのみ許される呼び名である。

商家というのは、文字通り、「商い」でもあり「家」でもあり、それらが別々に両立しているようで、渾然一体ともしている、なんとも不思議な在り方だ。しかし、日本人にとっては、この在り方が長らく自然なもので、戦後のサラリーマン社会においても、どこかその影を引きずっているところがある。そう思って読むと、「お家さん」としてシンボリックにトップを飾り続けた主人公よねと、「商い」のトップとして思う存分力を発揮した番頭の金子直吉と、その心理についても人間関係についても、もっと突っ込んで知りたくなってしまうのは故無いことではないと思う。


書評・小説 『阪急電車』 有川 浩

小川洋子『ミーナの行進』の芦屋に引き続き、阪神間エリアを舞台にしたこちらの小説を読んでみた。阪急電車の中でもちょっとマニアなローカル線、宝塚駅と西宮北口駅を繋ぐ「今津線」が主人公だ。

著者が実際に今津沿線に住んでいたからこそ書いた小説なのだろうが、宝塚から西宮、ハイソな住宅街から落ち着いた下町まで、色々な顔をもつエリアの魅力がよく出ている。学生や社会人など、若い人がメインの登場人物だが、ちょっと歳のいった奥様達も重要な役柄を演じている。廃れた駅前ながら格式高い宝塚ホテルがある宝塚南口駅、ローカルな落ち着いた佇まいの小林駅、関西学院大学キャンパスのある甲東園駅、地元人に「厄神さん」と親しまれる門戸厄神駅、、、、、

続きを読む

書評・小説 『ミーナの行進』 小川 洋子

第42回谷崎潤一郎賞を受賞した、小川洋子さんの長編小説。小川洋子さんの小説は結構好きで、ベストセラーになった『博士が愛した数式』から始まって、『薬指の標本』『妊娠カレンダー』『ブラフマンの埋葬』など読んでいる。実は一番好きなのは『ホテル・アイリス』かもしれない。『ホテル・アイリス』は、初老の男と少女の歪んだ性愛を描いたものだが、彼女の小説はどこかに「危うげなもの」「病的なもの」を奥底に秘めている。それが、どぎつく表現されているのではなくて、ちょっと怖い御伽話のように、どこか甘くひっそりとした感じで潜んでいるところが好きだ。

だから、この『ミーナの行進』も、少女の物語なのだけれど、どこかに病的な危うげなものを隠し持っているんだろうなあ、と思って読んでいた。ところがどっこい、この物語は肩すかしなのである。

芦屋のばかでかいお屋敷に住む病弱な少女ミーナ、ペットはコビトカバ、絵に描いたようにダンディでステキな父親は度々別宅に行方をくらまし、母親は一日中煙草室であらゆる印刷物の誤字探しをしている。ドイツからお嫁にきたユダヤ人のおばあさん、孤独な住み込み家政婦の米田さん、ミーナの宝物であるマッチ箱を届けてくれる水曜日の少年、など、「危なげな」要素は満載なのだが、それらは全て、「危なげ」な余韻を残したままで過ぎ去って行く。ミュンヘンオリンピックとバレーボールの熱狂、不思議な光線浴室での仄暗い時間、ジャコビニ流星群の夜、少女たちの恋とも呼べないような淡い恋、、、そういうもの全てが未消化のまま、少女たちは立派に強いオトナになる。いや、未消化というのはふさわしくない、それらをものともせず、乗り越えて、病弱なミーナも母子家庭の「わたし」もオトナになるのである。

読み終わってすぐは、あっけらかんとした不思議な御伽話感に、「なんだかなあ」という感じなのだが、数日すると、じわじわとその良さが沁みてくる。暗くて危ないものに「敢えて」触れない、そのあっけらかんとした明るさと強さが、いつもの小川洋子らしくなくて、なんかいいなあ、と思えてくるのだ。何もないと深みのないおとぎ話になってしまう。でも、本当はどこかに暗い深淵があって、そこに「敢えて」触れていない、という感じ。

読後に検索してみたら、井上ひさしさんの書評が掲載されていて、おんなじような肩透かし感を「背負い投げ」と述べていたので、なるほどなあ、と思った。

この本は再読なのだが、最近、所用があり、久し振りに兵庫の芦屋に行ってきたので、芦屋を舞台にしたこの小説が読みたくなったのである。小川洋子さんは芦屋市在住らしく、ハイソな芦屋を、御伽話の中の外国の街のように仕立て上げているところが面白い。

ミーナのお屋敷は、阪急芦屋側駅の北西、芦屋川支流高座川に沿って山を登った中腹、千五百坪の敷地に建てられたスパニッシュ洋式の洋館である。玄関ポーチやテラスに多用されるアーチ、南東の角に設けられた半円形のサンルーム、オレンジ色の瓦屋根といったスパニッシュ特有のスタイル、南側の庭は日光がたっぷりと降り注ぐよう、なだらかに傾斜しながら海に向かって開けている。庭は昔小さな動物園として公開されており、今ではコビトカバのポチ子の面倒を、専門の庭師小林さんが見ている。

こんなロケーションを日本で設定しようとしたら、芦屋界隈をおいて他には中々望めまい。現実離れした設定ではあるけれど、昭和40年代の芦屋ならもしかしたら、という感じを漂わせている街である。

新神戸駅に大きなぴかぴかのベンツに乗ってお迎えに来てくれたドイツ人ハーフの伯父様、西宮の洋品店で制服を誂えた後、阪急芦屋駅近くの洋菓子屋さんAで食べるクレープ・シュゼット、打出天神の向かいにある石造りの重厚な芦屋市立図書館、六甲山ホテルからシェフとボーイが出張してつくってもらう本式ディナー、現実と虚構ないまぜになった風情が、芦屋を知る者には読んでいてとても楽しい。

芦屋の魅力は、ただ阪神都心に近い高級住宅街というのではなくて、山と海が近い野趣溢れた土地でもあるところである。

芦屋の夏は海の方角から駆け上ってくるようにしてやってきた。梅雨が明けた途端、それまでどんよりと曇った空に飲み込まれてたい海が、鮮やかな色を取り戻し、視界の隅から隅まで一本の水平線を目でたどることができるようになった。光も風も一度海の上に舞い下り、たっぷりと潮の香りを含んでから山裾に向かってせり上がってきた。あれ、海が昨日より近くにある、と思った時が、夏の訪れの合図だった。

小川洋子さんの、芦屋への愛情が伝わってくる一節だ。




書評・小説 『休暇は終わった』 田辺 聖子

夏にぴったりの一冊。

『ジョゼと虎と魚たち』の記事で、私が好きな田辺聖子小説のエッセンスともいうべきものを綴ってみたのだが、これが、まんまあてはまる作品である。むしろ、この作品を意識して記事を書いた、みたいなところがある。自立した女性と女心のバランス、魅力的なオトナの男と若い男、それから、関西弁や関西独特の風俗やロケーション、どきっとする言葉とタイトル。もちろん、美味しそうな食べ物も。

作家の仕事もうまくいきはじめた30初めの女主人公悦子。若くて美しいけれど、何をやっても続かないだらしない男で、彼女につきまとってヒモのような生活をしている類。そこに現れる類の父親の入江。この父親が『恋にあっぷあっぷ』の記事でも書いたような、ユニコーン並みに実在を疑われるほど魅力的な「デキブツ」男なのである。彼の連れて行ってくれるデートは、田辺聖子さんの小説ではお馴染みのロケーションなのだが、分かっていても、やっぱりいちいち素敵である。

日本海に抜ける街道沿いに車を走らせて連れて行かれた鮎茶屋では、新鮮な天然鮎をあたまから食べるやり方を教わる。六甲山上のホテルでは、庭にいくつも提燈を下げたテラスで、炭火焼いたステーキを食べる。それから鄙びた山の中の料理屋旅館のようなところでは山菜のてんぷらや梅のたれでたべる蒟蒻、山梨の実のたいたものや胡麻豆腐などの箱膳が供される。

で、言う言葉がこれ。

「喜ばせ甲斐のある人というのは、可愛げがありますなあ。あんたは一万人に一人の人ですね」

私がくどいほど、「こんな魅力的なオッサンいるわけないだろ!」と半ば怒りを感じる理由がお分かりか。まあ、その怒りの99%はやっかみである。

でも、この作品のいいところは、その息子のどうしようもない男、類の姿が描かれているとこだ。悦子が昔付き合っていた野呂という男もそうだが、彼らの「ダメ男」ぶりと、それに惹かれてしまう悦子の「ダメ女」ぶりの方が、リアリティがあって良いのである。

私はそこに、彼の可愛げみたいなものを見るのである。もしかしたらそれは「若さ」の可愛げかもしれない。彼にはあんまり定見なんてものがなくて(もしくはまだできていない)、どっちにでもころびそうな感じ、私は正直にいうと、そこが類の好きなところである。要するに類は、何もかもがまだホンモノになっていないのだった。

「何を考えてんのん」私がだまると類はすぐ、いう。そんなこという人、自分の中がっからっぽの人。

結局、悦子は類と別れるが、また、「デキブツ」の父親をも選ばない。オトナの御伽話は、甘いばかりではなくて、ほろ苦いものであることを、田辺聖子さんはよく知っているのだ。

それから、ドキッとするような言の数々。

また、ほんとうはそうじゃなく、男と女と金、という三つ巴は、もっと深いからみあいかたをするものなのである。長く生きてると、あとになってわかるものである

「幸福と面白いこととはちがいます。幸福というのは、面白いことが無くても成り立つ。」ふーん。「たとえば、会社は隆々栄えて儲かり、女房は機嫌よく、子供は健康で順調にすくすく伸びてる。そういう風なとき、男は、幸福と思うやろうなあ。しかしそのとき面白いか、というと、そう思うてないのやねえ、これが」

私は、「幸福でない」ということに拘っていた。私は女だから、幸福と面白いこととを結びつけるのが本当のような気がしていた。

そしてラスト。

つまり、その一枚の写真が、夏の決算報告書というわけだった。私はそれを破った。

夏は過ぎた。私の休暇は終ったのだ。

最後の最後の一文で、タイトルに戻ってくる、この印象的なラストは、読んだ人だけが味わってほしい。