書評・エッセイ 『ほっこりぽくぽく上方さんぽ』 田辺 聖子


『ほっこりぽくぽく上方さんぽ』をお得に読む

ロングアイランドの次は関西が気になる、ということで、関西を舞台にした小説をぽつぽつ読んでいるうちに、関西に縁もゆかりもない私でも段々と土地勘が出てくる。そうすると地理的なことにも興味が出てきて、私にとっては今一番の関西文学ガイド役である田辺聖子さんの、こちらのエッセイを読んでみたくなった。平成7年12月号の『オール讀物』に5年にわたり連載されたのを纏めたものである。大阪出身の著者が知り尽くした大阪キタ、ミナミから尼崎、貝塚の他、和歌山の熊野、京都の祇園や宇治、神戸や奈良に至るまで、編集者と一緒に巡る文学散歩。田辺聖子さんと一緒に「ほっこりぽくぽく」ゆっくり読んでいこうと思っていたのに、あんまり面白くてついつい一気読みしてしまった。大阪人でもないのにせっかちな私である。

古典に大変詳しい著者なので、歴史古い関西の寺社や風習について、あらゆる文学作品を引っ張り出して解説してくれるのが実に面白い。住吉大社では藤原俊成の『新後選集』から秋里籬島の『摂津名所図会』に井原西鶴の大矢数徘徊興行のエピソード。尼崎では晩年を過ごしお墓もある近松門左衛門に、歌舞伎の『義経千本桜」や謡曲「舟弁慶」で出てくる大物の港、「万葉集」の古歌にある猪名野。貝塚の水間寺では井原西鶴の『日本永代蔵』、熊野では言わずとしれた『古事記』や『日本書紀』の古の神々の話も出てくるが、『梁塵秘抄』の熊野を歌った今様や『平家物語』からは熊野育ちの薩摩守忠度なども紹介してくれる。京都の御所や宇治ではむろん、『枕草子』に『源氏物語』、奈良では『新古今集』の西行法師など。

古典だけでなく、大阪のキタでは、織田作之助の足跡を辿るのも楽しいし、堺の与謝野晶子、著者イチオシの「浪速の学び舎」の章では、有名な適塾を訪問し、福沢諭吉や箕作秋坪、橋本左内など幕末明治初期の志士達に思いを馳せている。『ひねくれ一茶』や『道頓堀川の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』といった本を書いている著者なので、俳句や川柳もたくさん引用されているし、折にふれ、田辺先生の記念の一句も挟まる。

こんな風に書くと、なんだか難しそうに聞こえるが、由緒正しい場所の小難しい話ばかりではなくて、海遊館でジンベエザメを見た後、無料クーポンでひいた占いに一喜一憂したり、田辺ファンにはお馴染みのつれあいの「カモカのおっちゃん」と豪華客船の「飛鳥」で旅したり、宝塚歌劇でキャーキャー言ったり、新撰組のお土産を買ったり、ミーハーなところもめいっぱい楽しんでいる。

何より良い味出しているのが、随所に出てくる「口の悪い大阪の知人」と読んでいる、大阪のおっちゃんのトーク。<そらオマエ>や<ごっついわ>を連発し、銭勘定やイモリの黒焼惚れ薬や賭け事ばかりに興味を示す生粋の大阪男(おおさかもん)である。このトークが本当に面白くて、読むたびに吹き出してしまう。

<ともかく、ごっついねン。豪華客船ちゅうか、ま、小ぶりのアパートぐらいあるやろな、そいつが、水の中を

のたーっ。

のてーっ。

と泳いどるねん。>

という話。大阪はミナミの海っぱたにできた水族館、「海遊館」の呼びもの、ジンベイザメのことである。それを見てきた友人(やつ)の話。

この、<のたーっ>と、<のてーっ>と、どう違うのかと聞くと、

<そらオマエ>

大阪男の<オマエ>は他人への呼びかけではなく、親しい仲での会話に時々挿入される間投詞であることは先にも書いたが、それを知らない他郷人は<オマエ呼ばわりとは無礼な>とむくれるかもしれない。これはいうなら、<それはネ>とか、<それはナ>というのと同じ強調の語尾でもある。

<のたーっ、ちゅうのは、向うからこっちさして、すすんで来よるときの格好や。のてーっ、ちゅうのはオマエ、そいつが反転してくらっと反りかえって、向うへいきよる格好や>

<ナニ、奈良が近頃ハイカラやて、か。あほいえ、オマエ。あのシルクロードのどんづまりが、やな。何やったってハイカラになるかいや。大仏つぁんと鹿、メシの種にしてやな、茶粥すすって浮かしたゼニ握って競輪へ走っていきよんねん、ほんでオマエ、たいがい、スッとすワ、どこがハイカラやねん>

この男、競輪・競馬・競艇、すべて<競>とつくものにだけ関心があるゆえ、西大寺の競輪場しか、視野に入っていないのである。

ついつい引用が長くなってしまったが、「のたーっ。のてーっ。」とか「ほんでオマエ」とかの口調の面白さというか機微というのか、一言一句再現しないと中々伝わらないものである。旅の道連れ、若い女性編集者の「鉄線コスモス嬢」や戦中派の「カモカのおっちゃん」も中々良い味出しているが、何と言っても、この大阪のおっちゃんのインパクトにはかなわない。当時、この連載を読んでいた人達も、このおっちゃんが出てくると、「きたきた」とにんまりしていたに違いない。

田辺聖子さんのエッセイは初めて読んだのだが、物知りで機知に富んでいて、そのくせユーモアたっぷりな語り口は、田辺さんの小説の主人公さながらである。村上春樹さんのエッセイもそうなのだが、小説の主人公がまんま抜け出したみたいに、行動したり発言したりするのが、なんとも慕わしい。スヌーピー愛好家でも知られる田辺聖子さん、神戸散歩の始まりについつい大きな犬のぬいぐるみを買い、道中でこのぬいぐるみを使って案内役の「おのころ青年」に話しかけるところがある。田辺聖子さんの中でも私が大好きな本『ジョゼと虎と魚たち』に「それだけのこと」という短編があって、ちょっといけない関係の二人が「チキ」という小さな指人形を挟んで会話するのが、なんとも艶かしくて印象的なのだが、それを思い出した。エッセイ連載中で御歳七十近い田辺先生、別にその若い青年とどうこうということではなくて、自然にらしく振舞って、十分チャーミングで色っぽい様子が、読んでいて微笑ましかった。

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