松岡正剛一覧

『クラブとサロン なぜ人びとは集うのか』 松岡 正剛 ほか

私が個人的に興味を持っている「編集的文化が発生する場」としてのクラブ、サロン、カフェ論に一番イメージの近い本。「クラブとサロン」を切り口に、古今東西様々な分野の専門家のエッセイをまとめたものだ。 続きを読む


『阿部一族』 森鴎外

今更ながらの森鴎外ブームでkindle無料版にてまずはこちらを読んだが、いきなり衝撃作であった。

あらすじについては説明しない。この作品は、有名な明治天皇崩御時の乃木希典殉死事件を受けて書かれたものとされている。確かに、殉死に始まり殉死に終わる物語なのだが、殉死そのものがテーマなのではない。「殉死」が表彰する男の不退転の決意、見栄、プライドがないまぜになったものとでも言おうか。松岡正剛の『千夜千冊』に拠れば、鴎外は『遺書』や『阿部一族』をまとめて『意地』という作品集に入れたそうだ。

栖本又七郎の『阿部茶事談』という書物を下敷きにしているという。森鴎外についてまとまった評伝を書いた松本清張は、『阿部一族』は、この『阿部茶事談』のいわば現代語訳に過ぎないと論じている。松本正剛も、「千夜千冊」の『阿部一族』の回で、最後の「参考」部分でこの論について触れているが、それだけ「読み手に投げ出された」創作ができる森鴎外はやっぱりすごいと思う。その上で、私は、やっぱり『阿部一族』について、作者の創作真意は翻訳以上のものにあったのではないかという印象を拭えない。

何よりも、この物語を読んで感じるのは、執拗に繰り返される殉死の異様さである。主君忠利の逝去を受け、殉死の名誉に与った18名の列挙は無論のこと、阿部一族の討伐を命じられた竹内数馬や高見権右衛門の小姓に至るまで、我先にと殉死したがる。その異様さは、ただの伝統的・武士的殉死美談からは感じられないものだと思うのだ。

その異様さの陰で、作者の冷徹な筆は、殉死を許された人々の一族が、どれだけの栄誉と経済的利益を被ったか、そういう打算的一面があったことにさりげなく、しかし具体的に事細かく触れている。

中にも殉死の侍十八人の家々は、嫡子にそのまま父のあとを継がせられた。嫡子のある限りは、いかに幼少でもその数には漏れない。未亡人、老父母には扶持が与えられる。家屋敷を拝領して、作事までも上からしむけられる。先代が格別昵懇にせられた家柄で、死天の旅のお供にさえ立ったのだから、家中のものが羨みはしても妬みはしない。

さらに、この悲劇(という言葉が妥当とは思えないのだが)の直接の発端が、非常に脆いごく些細なこと、主君の忠利がなぜ阿部弥一右衛門に殉死の許可を与えなかったかというと、「ただなんとなく虫が好かないから」以上の理由がなかったことを暴き出す。

人には誰が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿してみると、どうかすると捕捉するほどの拠りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。

主君として非の打ち所がなく、将軍からの覚えもめでたい忠君細川忠利でさえも、真面目すぎてけむたいというだけで「なんとなく」家来を疎んじて差別してしまうのである。そりゃそういうこともあるだろう、と今までの上司や上役を思い浮かべて、現代の我々は思うわけであるが、そこから端を発して最終的には一族郎党皆殺し、ついでに討伐する方まで次々殉死という大飛躍は、江戸時代初期とはいえ中々のトンデモ感である。

極め付けの異様さは、まさにこの物語の土台をつくったとされる又七郎(物語の中では柄元又七郎)の姿である。物語の中盤、突如として登場する又七郎は、年来懇意にしていた阿部一族に同情し、立てこもった彼らを妻にこっそり見舞わせる。四面楚歌となって追い詰められた阿部一族は、彼の厚意に狂喜する。そうやって人情に厚い姿を見せた又七郎と思いきや、討伐の前夜になって『武士たるものがこの場合に懐手をして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である』と、命じられてもいないのに、突然阿部一族討伐に加わることを決意するのである。

読者が「え、なに、そのどさくさ感!?」と思う間もなく、阿部一族の討伐シーンが始まり、又七郎は筆頭の弥五兵衛を討ち取る一方で、まだ前髪の残る幼い七之丞から隙を突かれて深傷を負う。彼は勝手にこの討伐に加わったのであり、この物語に吹き荒れる「殉死」の嵐の中にはいないから、家来に運び出されて生き延びる(この時に家来の一人は主君をかばって討ち死にするという無味簡潔な一文があるが、いい迷惑である)。

かくて、阿部一族の討伐が終わった後は、当主の光尚からその功績を讃えられ、屋敷地まで封ぜられる。挙句の果てに、その裏にある『藪山もつかわそうか』と問われると、戦争時には竹がたくさんいるという理由で辞退するという美談を添え、『元亀天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった。阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ』と笑うのである。先に述べた『阿部茶事談』というタイトルは、この言葉が元になっている。この物語で初めて人情味のあるところを見せたかと思いきや、呼ばれてもいないのに悲遇の阿部一族の征伐に参加し、家来には無駄死にさせ、自分はちゃっかり恩賞を貰い受けた上に美談でアピール、過去の自分の豪傑自慢の笑い声で幕を閉じる、なんと気味悪い存在であろうか。

こういう異様さが繰り返されたところで、最後に、阿部一族討伐の当日に見せる主君細川光尚の冷酷な姿が際立つのである。阿部一族を討ちにやった当日、近くの家へ遊びに出かけるついでに物音を聞き「今討ち入ったな」とつぶやいて駕籠に乗る。出先の庭先で、血みどろの姿で阿部一族討ち取りの成果を報告する家来たちを迎え、最後に座を立ちながら「皆出精であったぞ。帰って休息いたせ」の一言。男でなくとも、読む者に万感の思いを生じさせる見事と言うしかないシーンだ。

森鴎外は確かにこの異様さを強調したのだと思う。それを評価したかったのではないかもしれない。でも、殉死という悲劇の陰に潜む喜劇的なほどの必然性の無さや、それをめぐる打算的一面についても客観的に描くくらいには、批判的だった。

余談だが、軍隊とか官僚組織とかには所属した経験がないので、私にとっての男社会は、大企業のイメージである。池井戸潤あたりが、大企業を舞台に『阿部一族』の現代版でも書いてくれたら面白いのになあ、なんて思う。(本当は山崎豊子先生にお願いしたいかも)柄山又七郎みたいなバブリー世代の部外役員あたりが、ロスジェネ世代の阿部弥五兵衛や竹内数馬を踏み台にしての仕上がり、「俺たちの時代はなあ・・・」なんて過去の栄光自慢して幕を閉じ、読者サラリーマンに万感の思いをさせる小説なんて、ちょっと読んでみたいではないか。ものすごい余談ですみません。


『帳簿の世界史』 ジェイコブ・ソール

タイトルに惹かれて読んでみた。松岡正剛さんの『千夜千冊』でも取り上げられていたのに気づいたのは読み始めてからだ。

後にロストジェネレーションと呼ばれる超就職氷河期世代の文学少女が、何の興味も知識もない金融業界に就職することになって、簿記会計を一から独学で勉強した。無理やり頭に叩き込んだ仕訳の仕方や会計規則が、超文系の私でも、これは実はひとつの哲学的とも言える世界観を内包してるな、と気づかせてくれた。詰め込み学習も全く意味がないわけではないな、と思う(笑)

前置きが長くなったけど、本書は、会計の歴史を辿りながら、折に触れ、その文化的解釈をしているところが面白い。会計の文化的側面は、大きく分けて二つあると思う。宗教的な側面と合理的思考方法という側面だ。私は、後者の方がより印象的で惹きつけられるが(『千夜千冊』をみると松岡正剛さんもそのようだ)、著者は前者の方をより強調しているように思える。その違いに、なんとなく、西洋人と東洋人の思考法や哲学の違いを感じてしまう。

帳簿の起源として、1086年、ノルマン・コンクエスト後のイギリスで世界最初につくられた土地登記簿「Domesday Book 」が挙げられる。名前は知っていたが、Domesdayがそもそも「最後の審判」という意味なのを知らなかった。現生の行いを審らかにする、善行と悪行の帳尻を合わせる、といったキリスト教的考え方が、帳簿や会計の根本にあるのだ。

例えば、14世紀に共同出資と複式簿記を活用した国際貿易で巨万の富を築き、フィリッポ・リッピの傑作「聖母戴冠」の中に寄進者の一人として書き込まれているトスカーナ商人フランチェスコ・ダティーニ。

ダティーニは自分が神のために金儲けをしているわけではないことをわきまえており、そのことは繰り返し手紙にも書いている。彼は自分の富と罪を数え上げ、神に対する負い目(debt)を計算した。

リーズで成功を収めた仕立屋で非国教とのジョゼフ・ライダー

日記に、「人間を合理的な被造物としてくださった神の善」を称えるために日記や帳簿をつけるのだと書き記している。富は信仰と几帳面な会計の産物とみなされた。心の会計を日記に、財産を帳簿につけるのはカトリック教徒だった。

そして功利主義者の創始者として名高い哲学者で法学者のジェレミー・ベンサム。

ベンサムは「最大多数の最大幸福」の原則を提唱し、そこに「快楽計算」を組み合わせて幸福度を計測しようと試みた。この計算では、快楽を複式簿記方式で評価する。つまり「一方であらゆる快楽の価値を、もう一方であらゆる苦痛の価値を合計する。」

一方で、会計の考え方、その思考法というのは、非常にシステマティックにまた物事や世界の二面性を明らかにすることによって、相対的かつ合理的に世界を捉える、という側面がある。そのたびに、常に記帳する行為自体を重要視するのも特徴的だ。松岡正剛は、このことを「ノーテーション」とか「スコアリング」とか言っている。

こういう会計の特徴がある意味世界観にまで浸透している典型的な例として、ベンジャミン・フランクリンが上げられている。

ベンジャミン・フランクリンの場合には、会計が世界観の形成に役立ち、国家建設の重要なツールとなった。

 

 

フランクリンがさまざまな技術に習熟し、進取の気性に富んだ、博学多彩な人物だったことはまちがいない。・・・フランクリンの帳簿を見ると、生活のあらゆる面を会計の原則に従って管理していたことがわかる。別の言い方をすれば、分散する興味を結びつけるものが会計だったと言えよう。

私としては、本書では、もう少し、会計の思考方法的なところに踏み込んでほしかったのだが、もしかしたら、西欧知識人にとって、そんなところは自明の理過ぎて興味を惹かないのかもしれないな、と思った。むしろ、会計の裏に、宗教的意味がある、という点の方が重要なのかもしれない。ただ、いくら、西欧文化にキリスト教が深く根付いているとは言え、混迷を究めるグローバル資本主義経済で、≪いつか必ず来る清算の日を恐れずに迎えるためには、こうした文化的な高い意識と意志こそを取り戻すべきである≫って、具体的にどうすりゃいいの、と思ってしまうのだが…