書評 『江戸とアバター 私たちの内なるダイバーシティ』 池上英子 田中優子 ①


クラブやサロンなど、特殊な場とネットワークのあり方について調べていく中で、日本における江戸時代の都市文化に自然と興味が湧いていった。その中で、連や江戸の特異なネットワークの在り方という点でいつも面白い視点を与えてくれるのが田中裕子氏の著作だ。本書でも、松岡正剛氏監修の『クラブとサロン なぜ人びとは集うのか』の他、『江戸の想像力』や『江戸はネットワーク』などの著作を取り上げてきた。

本書は、その江戸文化を専門とする田中優子氏と、歴史社会学からアバターや自閉症といった現代のコミュニケーションとネットワークのあり方にその枠を広げていった異色の研究者、池上英子氏との共著である。と言っても、テーマに沿って前半に池上氏、後半に田中氏がそれぞれ書いたものをまとめただけなので、欲を言えばもう少し、お二人の対談とか統一的な見解とかが書かれた部分も欲しかったなあ、と思う。

池上氏の著作は読んだことがなかったが、江戸時代の社会学から現代社会のアバターや自閉症に研究が発展していった、という過程が非常に面白い。池上氏は、本書でまず、アバターについてこう述べている。

インドや中国、日本などには「曼荼羅」というものがある。曼荼羅はふつう究極の仏なり神なりが、仮の姿で地上に降り立ってくるさまざまな形の「権現」や「分身仏」をいくつも描いている。究極の存在は本来「かたち」があるものではない。しかしそのさまざまな仮の姿の分身仏や神たちが「権現」つまり「地上に仮に現れた」姿として、より地上的な存在として人間を救ってくれるのである。この「分身」をサンスクリット語で「アバター」という。(略)この「アバター」=「分身」主義的な自己観、曼荼羅的な自己像…それは西洋的な個人主義的な考えとはおよそ異なっている。

身分制度とお家制度にがんじがらめだった江戸時代で、人々がアバターとそのアバターで自由に飛び回れるもう一つの世界を生み出したのは、必然だった。田中優子氏も、後半の江戸時代のネットワーク「連」の特色として《「家」制度のもつ継続性、固定性、非流動性、定住性の対極にある》即興性や流動性を挙げ、《「別世」「隠れ家」だからこその性格》であるとしている。

江戸のアバター的文化の特色については、後で触れるとして、本書を読んで特に心を惹かれたのは、この池上氏の現代社会におけるアバターの位置付けと役割について論じている部分だ。特に、アバターが発達障害を抱える人たちに与える影響に着目して、そこから人間の意識や脳のあり方、ひいてはもっと自然で多様化した社会のあり方について考察しているところが面白い。

江戸のアバター文化を受け継いだ落語という文化を、自身もディスクレシアという発達障害を抱えながら表現している、落語家の柳家花緑さんとの対談も収録されていて面白い。

英語でいうところの「個性」はインディヴィジュアリティ、つまり「分けられない」って意味なんですよ。(略)西洋的な個人主義というのは、どちらかというと一つのブロックのようなもの。「個性」というものがあって、それは分けるべきではない、と。「統合」が根本になるのです。

ところが「アバター」が複数あるような個性のモデルは、それとはかなり違う。発達障害というのは「セントラルコヒーレンス(central coherence)」、つまり、統合する力が弱い、という心理学の説があります。「弱い」と言うとマイナスに聞こえますが、脳のなかではさまざまな分野がローカルに分業で情報を処理していますから、統合する力が弱ければ、他の分野といろいろ繋がることができるとも言えます。だから、かえってユニークな発想ができる場合がある。

ハーバード大学とイエール大学で歴史社会学を研究し、そこから発展した自閉スペクトラム症の研究で米国の財団から援助を受け、現在ではニューヨーク5番街に位置するニュースクール大学で教鞭をとっている、という池上氏。発達障害を病気や障害という括りではなく、多様性の発露や一つの個性や能力として扱おうという考え方は、アメリカの学術的なニューウェーブを反映していると言えるだろう。

この「ニューロ・ダイバーシティ」という言葉は、90年代に米国のシリコンバレーで生まれたと言われている。(略)いわゆる「ギーク」(コンピューターなど何かに特化した世界に夢中になるオタクを指す俗語)のなかにはまるで宇宙人のような天才プログラマーがいて、そうしたひとのなかにアスペルガーの人たちがいた。「ニューロ・ダイバーシティ」という言葉には、たとえば発達障害のような脳の特性について、それを異なる「障害」「症状」としてみるのではなく、「ひとつの個性である」としてその価値を、「ありのままに、まず認めよう」という含意がある。

少し話がそれるが、アメリカで発達障害の扱われ方が非常に進んでいるなあ、と思わされたのは、小児科医の高橋孝雄先生の著書『小児科医のぼくが伝えたい 最高の子育て』を読んだ時だった。この中で、アメリカの大学で研究をしたこともある高橋先生が、ある学習障害を抱えた女性医師のエピソードに触れていたのだ。柳家花緑さんと同じように識字障害のあるその女性医師は、その障害にも関わらず、非常に優れた学術論文を提出し、賞を受けたと言う。学習障害を抱えながら芸術などで秀でた才能を発揮する、というのはよく分かる。しかし、強度の学習障害を持ちながらも大学に行って医師の資格を取り、さらには学術的な論文を発表する、というのはなかなかすごい。周囲の理解はもちろん、それだけ教育システムやサポートが充実していなければとても不可能で、日本ではどんなにお金があって努力しても到底無理、という感じがしてしまう。

たしかに、ある文化や考え方の枠組み(フレーム)のなかでは、常識はずれと思われる行動や性格・心のくせが、別のところでは賢いことだということはよくある。実にバカバカしくても、それにこだわって一生懸命やっていく人が、これまで見たこともなかったような新しいモノを生み出すこともある。シリコンバレーに目を向けてみれば、それは一目瞭然だ。逆にいえば、そんな精神がないとそこでは成功できないかもしれない。そんな彼らは、「非定型インテリジェンス」と呼ぶべき才能を持った人たちなのだ。

と言っても、安易な「発達障害者」=「才能ある人」のような図式に当てはめてしまう訳ではない。著者は、イギリスの孤高の詩人エミリー・ディキンスンを引き合いに出してこう述べている。(ちなみに、ディキンスンは詩をあまり読まない私が唯一詩集を持っている詩人だ)

ディキンソンのような天才たちのことを十把一からげにして、「アスペルガーだ」「高機能自閉症だ」などと短絡的に言うつもりは毛頭ない。逆にアスペルガーと呼ばれてきた(2013年に米国で診断基準が変わり、この言葉は最近の診断では使われなくなってきた)高機能自閉症の人たちが皆天才だと言っているわけでもない。むしろほとんどが違うし、障害に苦しんでいるひとが多い。けれども、たとえ社会的に困難を抱えている人たちのなかにも彼らの「知性」の一部に、紛れもない力、強さを含む場合があり、それが「ソト」からだけでは見えない場合がある。社会的にどう見えるか、という外見の現象と、心のなかの経験は一致しないことがある。表面的なそのひとの「社会の見え方」「アウトプット」だけでは測れない、心のなかの豊かな世界。信じることを貫く強さ。その鋭い、普通ではない感覚。その一方で普通のひとが簡単にできることが難しくて、疲れ果ててしまったりすること。鋭い感覚の反動は、情報の過剰負荷によるメルトダウンになること。

確かに、発達障害の抱える人が誰でも豊かな精神世界をもち、それを表現するすべを持っているわけではない。大部分の人はおそらく現実社会との軋轢で苦しんでいるし、また、家族や職場など周囲の人間にとっても、扱いにくかったり厄介な一面を持っていることも事実だろう。それでも、発達障害を受け入れていく必要性、そのことによって社会がより良くなっていくメリットを著者は説明している。

米国でかなりネガティブはイメージをもたれている言葉に、「あのひとはジャッジメンタル(ひとや物の見方について、なにかとネガティブに決めつける癖のこと)という言い方がある。自分の倫理や視点を中心に頭から他人や物事を、ネガティブに判断する、という意味だと思う。そんなジャッジメンタルになるより、他者を知ることはとても難しい、という前提、そこからまず出発してみる。つまり評価の判断を一時停止して、「あれも、まあいいか」と思える社会のほうが、おたがい気が楽に暮らせるはずだ。

それはまた「気が楽」という以上の意味を含んでいると思う。そもそも、そのような多様性を受け入れられない社会、多様なアバターや別世を自由に行き来するような想像力や遊びを受け入れられない社会というのは、人々を息詰まらせ、硬直化して、やがては衰退していくことだろう。《地球の生態系は、多様な種があることで相互に支え合い安定する。一方で、予想もしないような進化が、多様性があることで起こったりする。組織も同様だ。均質な人びとだけのほうが一見効率がよさそうだが、同じような発想を繰り返し続けて突破口にたどり着けず、進化することができないことがある》。

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