第一次世界大戦前のグローバル一覧

書評・小説 『夜はやさし』 スコット・フィツジェラルド

フィツジェラルドの最長作品で、自伝的要素が強いとされている作品である。若く優秀なアメリカ人の精神科医ディックは、患者である大富豪の美しい娘ニコルと恋に落ちて結婚する。しばらくはディックは富も名声もある華やかな生活を送っていたが、若い女優ローズマリーと恋仲になる。それを境に、次第にニコルの病気の再発や彼女の莫大な財産が重荷となり、酒に溺れて彼女との愛も消え、彼の人生は転落していく。 続きを読む


『21世紀の資本』トマ・ピケティ ②

その前提に基づき、現在、再び大戦前に近い水準で格差拡大が進行していること、これらの問題に対処するために、国際的な枠組みでの資産税を導入する提案や、タックスヘイブンにより多大な資産、所得隠しが見逃されている問題などにも触れている。

私が経済や資本主義について勉強し続けている理由の一つに、「資本主義には自動的に格差拡大するプロセスが内在していているのではないか」という問題意識がある。自分の中にある問いとしては、ほかに、「複利ということの反自然性」とか「資本主義の経済発展の裏には、常に外部依存・寄生するシステムがあるのではないか」とかいくつかあるわけだが、中でも1番目の問題は、色々な書籍の中でも割と明快な答えが出てきやすいものである。

本書の中での例を挙げてみると

もしも差rーgがある閾値を超えると、もはや分配は均衡しない。富の格差はかぎりなく増大し、分配の最高値と平均値の差は無限に大きくなる。もちろん、この閾値の正確な水準は貯蓄行動次第だ。とても裕福な人々にお金の使い道がなく資本ストックとして貯蓄しそれを増やす以外に選択肢がなければ、格差の拡大はもっと起こりやすくなる。(P381)

ある閾値を超えると、資本は自己再生産して指数関数的に蓄積する傾向がある(P410)

複利の法則を考えると、非常に急速な格差拡大がこのメカニズムで引き起こされるのも明白だ。・・・不均等な資本収益率は不等式r >gの影響を大きく増幅し、悪化させる格差拡大の力なのだ。(P447)

不等式r >gに、初期資本に比例した資本収益率の格差が加わると、過剰で持続的な資本集中がもたらされる。いかに当初の富の格差が正当なものだろうと、そうした財産はあらゆるまともな限界も、社会的効用で見たどんな合理的な正当化も超えて、自律的に増加し、存続してしまうのだ。(P460)

P381の指摘については、中高齢者が資本の多くを握っている高齢化社会にも当てはめることができるだろう。

さらに、本書で印象的だったのは、文学についての引用や言及がとても多かった点だ。19世紀初めの西欧の様子を伝えるために、バルザックやオースティンの作品を引用していた。先日記事にした『マネーの進化史』もそうなのだが、読みやすくて面白い社会史や経済史の本というのは、文学や映画などの引用が多い。第一次世界大戦前ヨーロッパのグローバル資本主義格差社会の様子は、現代の我々に非常に共感と示唆を与えてくれるものである。そういう直感は、文学や映画などの芸術作品から得やすいものだと思う。

言い方が難しいのだが、文学に通じた作者は、文章力や表現力が豊かであるという面もあるだろうが、それ以上に、データ分析や史実の研究の中に、独自のコンセプトや思想を生み出す発想力にも繋がっているのではないかと思う。そうやって、文系不要論に一石を投じてみたい、超文系の感想でした(笑)


『21世紀の資本』 トマ・ピケティ ①

数年前に話題になっていたこの本。自分時間ゼロとなる子供たちの長期休暇に阻まれながら、読了するのに何ヶ月かかったかは内緒です(笑)

高校時代は数学の赤点記録絶賛更新中だった私が果たして読めるのか!?と思っていたら、数学は殆ど必要のない内容で、とても読みやすくて面白かった。

本書の要点をものすごくざっくり言うと、(ざっくり過ぎますが)

①資本収益率(=r)が経済成長率(=g)より高い場合には、もともと資本をもつ者が有利になり格差が拡大する

②人類の歴史の大半はr>gとなっている

③非常に長い歴史で見ると、gというのはそこまで高くない。二度の世界大戦後の復興期間は異常値であり、この期間を前提に平等化が進んでいると考えてはならない

特に重要なのは、③の点で、二度の世界大戦がどれほど、富の若返りや平等化をもたらしたか、逆に、その大戦直前には(特に第一次世界大戦前の西欧)格差が激しかったか、ということを非常に長いスパンでの統計データを集めて検証している。

たしかに長いことrがgよりも大きかったというのは、論争の余地のない歴史的現実だ。多くの人は最初にこの主張に直面した時、そんなはずはないと言って、驚きと戸惑いを露わにする。(P368)

言い換えれば、今日富が過去ほどは不平等に分配されていない理由は、単に1945年以降まだ十分に時間が経っていないからだ。(P387)

戦争はすべてのカウンターをゼロ、あるいはゼロ近くにリセットし、必然的に富の若返りをもたらした。この意味で、20世紀にすべてを水に流し、資本主義を超克したという幻想を生み出したのは、まさに二度の世界大戦だった。(P412)

これらが今まで見過ごされていた理由として、一番大きいのは2回の大戦のインパクトということであろうが、もう一つ挙げられている理由として、米国での移民流入による人口動態の特殊性がある。過去200年間のアメリカにおける急激な人口増による順調な経済成長率(=g)を、各国にあてはめて或いは世界経済全体に敷衍して考えることは無論できない。こちらも、新興国の経済成長問題や移民問題を含めて、今後の世界経済を考える上で非常に重要な点である。

人口が100倍増した国と、2倍になっただけの国とでは、格差の力学と構造はまったくちがったものになる。特に前者では後者に比べ、相続の要素はずっと重要性が下がる。・・・これはまたある意味で、米国の事例は一般化できないということだ。(というのも世界の人口が今後2世紀で100倍増するとは考えにくいからだ)(P32)


『ヨーロッパのカフェ文化』クラウス・ティーレ=ドールマン

ドイツの作家・ジャーナリストであるクラウス・ティーレ=ドールマンがヨーロッパの古今東西の有名カフェを紹介しながら、それぞれの都市のカフェ文化について綴ったエッセイ。今まで読んだ本は、英仏のカフェ文化に触れたものが多かったが、ドイツの作家だけあって、東欧圏のカフェ文化に言及しているのが興味深かった。

一口にヨーロッパのカフェ文化と言っても、個性的な歴史ある名店はそれぞれの都市文化やお国柄を反映している。

イタリアは、バイロンやジョルジュ・サンドとミュッセ、ラスキンやバルザックやプルーストなど錚々たるメンバーが次々と訪れたヴェネツィアのカフェ・「フローリアン」、ゲーテを始めとしメンデルスゾーン、ショーペンハウアー、ヴァーグナーなどドイツ圏の文化人達が集ったローマの「カフェ・グレコ」など、あらゆる国や文化から訪れる旅行者達がひと時の交歓をするコスモポリタン的魅力のあるカフェ。

スイス・チューリヒのカフェ「オデオン」も、場所柄さまざまな国からの来訪者で賑わい、その様子は、現代に負けじと劣らない第一次世界大戦前のグローバルさを物語っている。ムソリーニ、アインシュタイン、トロツキーにレーニン、レマルクなど、亡命者や政治的活動家の名前が多いのも、中立国らしい。

オーストラリア・ウィーンのカフェは、スモーキングを着たボーイ長に専門用語で飲み物を注文するなど、他とは違う格式ばったマナーがあり、ヨーハン・ユングリングのカフェでは夜な夜なシュトラウスのワルツが生演奏されるなど、ハプスブルク家の残照を感じさせる優雅で重厚なイメージだ。

ベルリンは、それだけで別冊の本ユルゲン・シェベラの『ベルリンのカフェ』が書かれているように、ベルリンの都市文化と魅力を反映した奥深いものだ。少し猥雑ですらある年の活気を反映して、大衆食堂やキャバレーと同時にカフェが発展した。

プラハやブタペストのカフェは、占領者と戦ったりナショナリズム的な政治、文化運動の温床となるなど、チェコやハンガリーの複雑な歴史を背負っている。一方で、作家のフランツ・カフカやデジョー・コストラーニらが集い、ジャンルレスな文化人や芸術家と盛んに意見交換を交わすなど、それぞれの都市に豊かで魅惑的な文学、文化が花開いていたことをうかがわせる。

パリのカフェは、なんといっても、フランス革命の準備をした場所として名高い。このあたりのことは、寺田元一『編集知の世紀』に詳しい。政治的に落ち着きを見せた19世紀以降は、有名な「カフェ・ドウ・マゴ」のように芸術家達の社交場として芸術の都パリの魅力を存分に発揮する場所となった。

ロンドンは、文学や芸術の場というよりビジネスや政治色の強いコーヒーハウスが発達し、男たちのクラブ文化が生まれてくる土壌にもなった。こちらは、小林章『コーヒーハウス』の記事でも書いた通りである。

様々な名店カフェの発祥を眺めてみて思うのは、カフェの求心力というのはなんでもありなのだなあ、ということだ。カフェが初めて誕生した時には勿論、エキゾチックで健康にも良いとされる不思議な飲み物コーヒーを鳴り物として人を読んだ。美味しい焼き菓子やケーキ、当時は珍しかったクロワッサンなどを売りにしたところもあるし、東欧圏の多くのカフェではビリヤード場を兼ねていた。ウィーンのようにカフェコンサートで人を呼んだところもあれば、ロンドンやベルリンのように怪しげな商売や投資情報が盛んに行き交う場所でもあり、逢引や裏取引の場として使われることもあった。当時は珍しくて貴重な雑誌や新聞などを置いていたところもある。

いずれにせよ、カフェの魅力を決めるのは最終的にそこに通う人々であり、決して居心地の良さや華麗な装飾ではないということだ。きっかけはなんでもいい。人が人を呼び情報が情報を呼んで魅力的なカフェは花開く。その、なんとも分析と定義のしがたいところがカフェの魅力なのだと思う。


『ロビンソン・クルーソー』 ダニエル・デフォー ②

『ロビンソン・クルーソー』は、ニーチェが「神は死んだ」と宣う200年近くも前に書かれた小説であり、娯楽小説と言えども、やはりそこには敬虔なピューリタン思想が全篇に満ちている。主人公のロビンソンは繰り返し神の救いと刑罰に言及し、長い孤独な生活の中でやがて本当の神の教えに目覚めていく。

そういう宗教的な基調とは別に、この物語には、孤島に漂着した主人公が、家屋、家畜、小麦やパン、土器に至るまで生活に必要なあらゆるものをどのように一人でつくり調達したのか、その様子が実に細々と書かれている。何もここまで、というくらいに細々と書いているのは、たとえ創造小説であっても、出来るだけ科学的・実証的に物語を描こうという、当時の啓蒙主義的考えの表れだろう。はっきり言って読んでる私は食傷気味になるくらいなのだが、これが、アウトドア好き&仕組み好きの世の男性読者の興味を惹き、この本が長年愛されてきたゆえんなのかもしれない。

それから、先に述べた突然の貸借対照表の他に、物語終盤で、ロビンソンが所有するブラジルの農園の所有権や利益分配についてのやたら詳細な記述も印象的である。物語のクライマックスでこれ?と思うくらい、具体的な法的手続きについての詳細な説明が並ぶのだ。『ロビンソン・クルーソー』は、18世紀初めに書かれたフィクションでありながら、西欧の資本主義の萌芽が如実に現れた経済史的史料としても興味深い作品なのである。

と、ここまでダラダラと書き連ねて何が言いたいかと言うと、この古典的名作には、西欧近代の敬虔なピューリタニズムと共に、明らかな啓蒙主義、合理主義、そして資本主義的考え方が見事にないまぜになって成立しているのである。これらが矛盾なく両立しえることの違和感というのか不思議さというのが、私にとってはある意味長年のテーマでもある。その不思議さを解明したくて、マックス・ウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』を読み、ジェイコブ・ソールの『帳簿の世界史』を読んでいるのだが、その不思議さは増すばかりである。

そして、これらの行き着く先に植民地主義がある。植民地主義は、グローバル資本主義と壮絶な格差社会として現在に生き残っている。そして、もちろん『ロビンソン・クルーソー』には植民地主義も顕著に現れている。

面白いのは、ロビンソンが食人を習わしとする蛮族を激しく軽蔑しながらも、それを許されている神の摂理との整合性に悩むシーンがあることだ。そして、たとえ食人が忌むべき風習であっても、神がそれを許している限り自分が彼らを裁く権利はないのだし、自分が攻撃されたわけでもないのに蛮族だからと言って無分別に殺すようなことは正しくない、として、スペイン人が行ったアメリカ原住民の大虐殺を厳しく批判しているのである。

しかし、ロビンソンの高邁な思索はそこでストップしてしまう。そして、自分の保身のために実際には攻撃される前に数多の蛮人を殺害し、食人の生贄とされかけていた蛮人の1人を救出して絶対服従の上に改宗させ事実上の奴隷にしてしまう。そこには一片の良心の呵責もなく、物語は大円団に向かう。敬虔なピューリタニズムと合理主義と啓蒙主義と資本主義とそして植民地主義の圧倒的勝利である。

小説の古典的作品が常にそうであるように、『ロビンソン・クルーソー』も、社会史的史料としても思想史的史料としても十分に参考になる作品である。