書評 『カフェの文化史 ボヘミアンの系譜 スフィフトからボブ・ディランまで』 スティーブ・ブラッドショー ①


1984年出版の古い本だが、タイトルに惹かれて読んでみた。内容はそれなりに面白いのだが、しかし、読みにくい。イギリスのフリーライターが書いたものだそうだが、いかにも知的エリートイギリス人らしく、持って回ったニヒルな言い方の上に、読者サイドに当然のように教養や知識を要求する前提となっている。冒頭のカフェの考察からこうだ。

もう一つ問題となるのは、一軒のカフェを構築しているものは厳密には何だろう、ということであった。アルゴンキンの円卓(1920年代にニューヨークのアルゴンキン・ホテルにつくられた文学クラブ)がカフェでないことは確かだが、モンマルトルのカフェ・コンセールやトゥールズ・ロートレックが出入りしたいかがわしい店ともなると、一口では言えない入り混じった性格を持っている。(略)この本に出てくるさまざまな芸術家たちのグループはなるほど重要であろうが、彼らがともに抱いていたカフェ生活への愛着もクラレットの嗜好以上の意味は持つまい、という議論も当然なされよう。また、印象主義は穴倉(ビア・セラー)のビール店で創始されたかもしれないし、サヴォイ・ホテルに連れて行かれたとしたら、ヴェルレーヌは一層哀れっぽく見えたろう、ということもあり得る。その一方で、カフェだけが、ヨーロッパに紹介されて以来、知的な会合の場として明確な伝統を保ってきたことも事実である。決疑論の学者なら、クールベからアレースター・クロウリーに至るまで、カフェに出かけることによって違いを摸倣し合ってきた人々の伝統をたどるかもしれない。もっと言えば、この本で語られている重要なできごとの数々が、一匹の山羊によって始まったと考えるのも目新しくておもしろかろう。

なんのこっちゃい、という文章である。前提知識として、ロートレックやヴェルレーヌやクールベがどんな人物なのかはもちろん、サヴォイ・ホテル(ロンドン最初の最高級ホテル)やクラレット(イギリスで飲まれたボルドーワイン)やアレースター・クロウリー(19世紀末イギリスのオカルティスト)などといったマニアックなものまで要求される。(ちなみに、最後の「一匹の山羊」は、次章で言及される、コーヒーがアラビアの山羊飼いによって偶然発見されたという逸話を暗示している・・・)これを訳した海野弘先生のような西欧文化を知悉した方なら良いが、極東の片隅で一主婦が読むにはかなりツライ文章である。とにかくウィキペディアさんにお尋ねする回数が多い多い。その上で、やたらと二重否定やら隠喩やらを挟み込んで婉曲的表現が多用されているので、途中、何度も「結局、何が言いたいねん!」と本を投げ出したくなった。

とまあ、前置きの愚痴というか、「私、こんな難しい本読破したのエライでしょ」的アピールはこれくらいにして、内容に入ろう。副題にもある通り、スフィフトらが集った18世紀初めロンドンのコーヒーハウスから、ボブ・ディランが歌を紡いだ今世紀ニューヨーク・ヴィレッジのカフェに至るまで、主にそこに通った芸術家たちを軸に語っている。

ロンドンでのコーヒーハウスには、スフィフトやポープらの文筆家が集い、リチャード・スティールの雑誌「タトラー」や「ガーディアン」、ジョウゼフ・アディスンの編集する「スペクテイター」など、優れたジャーナリズムを生み出した。これらがやがて、クラブ文化へと衰退していくあたりは、小林章夫『コーヒー・ハウス』に詳しい。

賭博の巣として、あるいはまた紳士のための優雅な社交場として、コーヒー店は徐々に特殊化していった。(略)この世紀の半ばまでには、アグリー・フェイス、踵までくるナイトガウンを着るレイジー・クラブ、サイレントクラブを初め、数えきれないほどのクラブが乱立し、コーヒー店を徐々に閉め出していったのだった。(略)クラブの隆盛は、この土地本来の潜在的な島国根性ばかりではなく、ブルジョワ社会において新しい地位の形態が必要とされてきたことを反映しているのだ。

ロンドンで衰退したカフェ文化は、革命前夜のフランス・パリで花開く。パリには1788年までに1200軒を超えるカフェがあったそうだが、中でも有名な「プロコップ」には、ヴォルテールやモリエールがやディドロらが足繁く通った。また、オルレアン公によって開かれた、パレ・ロワイヤルのカフェ群も人気であったと言う。《パレ・ロワイヤルのカフェは、フランス革命の公開討論の場であった》とある通り、この時期のカフェでの活発な議論と時にエスカレートした民衆の示威行動が、フランス革命の温床となったことは、寺田元一『編集知の世紀』でも触れられている。

革命後、政治色の抜けたカフェは、いよいよボヘミアン芸術家たちの溜まり場として黄金期を迎える。詩人のヴェルレーヌが、その筆頭だ。18世紀後半になると、印象派達の「カフェ・ゲルボワ」「ヌーヴェル・アテネ」には、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロやゴーギャン、ゴッホらだけでなく、ゾラやマラルメなどの姿も見られた。印象派グループが解体するにつれ、カフェ文化の中心はセーヌ川左岸のモンマルトルに移っていき、ピカソやモディリアニといった外国人が「ラパン」や「クロズリー・デ・リラ」や「ロトンド」などを舞台に新たなボヘミアンの主人公となる。これらのカフェは、パリに住む芸術家だけでなく、トルストイやトロツキーなどの外国人がパリ滞在時に訪れる国際色強いカフェとなっていくが、さらに、第一次世界大戦を挟み、新たな「外国人=アメリカ人」達の独断場となるのである。

左岸のカフェは、フランス社会からの逃亡者たちにとっても、常に避難所となってきた。それらが外国からやって来た若い芸術家たちに一時代まるまる侵略されてしまったことはかつてなかった。

ヘミングウェイやフィツジェラルドといった「ロスト・ジェネレーション」たちの登場だ。ヘミングウェイの『移動祝祭日』には、「クロズリー・デ・リラ」の名前が何度も登場し、「リラでのエヴァン・シップマン」という章まである。

ロトンドは、ラスパイユの角のカフェ群のなかでは今なお一番大きく、最もコスモポリタン的であった。「右岸でタクシーを拾ってモンパルナスのどこのカフェの名を告げても、必ずロトンドに連れていかれる・・・」『日はまた昇る』The Sun Also Rises の中で、ジェイク・バーンズがこんなことを言っている。

「モンパルナスは、アメリカ四十九番目の州とみなされてもおかしくなかった」とシスリー・ハドルストンは書いている。(略)

アメリカから渡ってきたボヘミアン芸術家があるいは交流し、あるいはそこで創作活動をし、パリのカフェ文化は最後にして最高の盛り上がりを見せる。しかし、それすらも、次第にただのパフォーマンスとなっていく。

10年ばかりそういう愉快な晩を過ごしたあとで、シスリー・ハドルストンは自分なりの判断を下す、「カフェはいくつかの点で悪影響を及ぼしてきたかもしれない。なぜならあまりに多くの作家たちがー画家たちも同じだがーモンパルナスやモンマルトルのカフェで一日の長い時間、そして夜すらも過ごすことで満足しているからだ。彼らは怠惰な習慣に陥っている。創作するのでなく話すことで満足しているのだ。彼らは朝から晩まで議論している。そしてその議論は何の実も結ばない。

そして、世界恐慌が訪れると、《アメリカ人たちはあっという間にカフェを去った》。第二次世界大戦の嵐が吹き荒れ、復興の必要の無い新しい街、アメリカ・ニューヨークで、ボヘミアン芸術家による最後のカフェ文化の残照が見える。この頃になると、もはやボヘミアンは「ヒップ」という言葉にとって代わられる。前述したように、この本は1980年代に書かれた古いものだが、最後のボヘミアン芸術家としてシンガーとしてだけではなく詩人としてのボブ・ディランにスポットを当てているのは、世間をあっと驚かせた20年後の彼の「ノーベル文学賞受賞」の事実を照らし合わせると、非常に興味深い。

(ヴィレッジのカフェ「コモンズ」で)簡単なメモを走り書きしグラスを干すと、ディランは帰って『風に吹かれて』Blowin’in the Wind を作り始めたのだった。この曲は、市民権運動の賛歌(アンテム)となり、ディランをコーヒーハウスの外の世界でも有名にした。シェルトンはこう結ぶ。「彼はどこにいても躍り出ただろう。だが、カフェ社会という布石が決定的だった。彼は現に怒っているあらゆることを総合し、強調し、それらを通して稲妻を放ち、玉虫色に光らせた。

大まかな流れを説明したが、本文では、ここに、19世紀末ロンドン、オスカー・ワイルドら頽廃的芸術家達が跋扈した「カフェ・ロイヤル」や、やはりハプスブルク帝国治下ウィーンの「カフェ・グリーンシュダイドル」などの挿話も挟まっている。特に、ウィーンのカフェは少し独特で、格式張ったマナーや内装をしていたこと、図書室や文化クラブを兼ねたような場所であったこと、シュニッツラー、キルケゴール、ホフマンスタール、ツヴァイク、カール・クラウスら文学者や哲学者の他に、フロイトやアルフレッド・アドラー、エルンスト・マッハー、ブルックナーにマーラー、シェーンベルクら多彩な人物達が集まった様子は、クラウス・ティーレ=ドールマン『ヨーロッパのカフェ』にも描かれている。

政治的生活というものがなかったので、ウィーンのブルジョワジーーはその精力を芸術に注ぐ傾向にあった。貴族たちはもはや芸術の積極的な庇護者とはいえなかったし、(略)ブルジョワには対抗する相手がほとんどいなかった。何にも増して彼らは、その演劇的な性質が自分たちの情況を反映しているかのように見える芸術や娯楽の形態を助成した。(略)暗黙の内にも至るところに姿を現わす性の妄想も、その執拗さの一部はこうした政治的フラストレイションから発しているようであった。ワルツの中に、ウィーン人はエロティックでかるまた現実から目をそむけさせてくれる芸術形態を見出していたー独特の友情と敵意の儀式、流動的な知的同盟を形づくろうとくっつけられた大理石のテーブル、煙の立ちこめた部屋を隔てて射かけるまなざしによって成立したり破られたりするロマンティックな関係・・・・こうしたものを含むウィーンのカフェ社会の性格もまた、このエロティシズムと演劇という感覚によって説明できるのだ。

シュテファン・ツヴァイクが書いているように、ウィーンのコーヒー店は「入会金がコーヒー一杯の料金ですむ民主的なクラブのようなものであった」

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コメント一覧 (1件)

  • […] フィリップ・クックは生粋のイギリス人という感じで、『印象派はこうして世界を征服した』でも、フランス人とフランス文化を揶揄する時の饒舌さが際立っていて印象に残っている(多分、アメリカ人はハナからちょっと見下しているのでそこまでムキにならない)。本書も、いかにも知的エリートイギリス人の文章らしく、ほのめかしやシニカルな表現が多くて、とにかくまわりくどい。ザッツ・イギリス人、という感じである。思わず『カフェの文化史 ボヘミアンの系譜 スフィフトからボブ・ディランまで…の著者、スティーブ・ブラッドショーの文章を思い出した。フィリップ・クックはさすがにオークショニアとして抜群のセールス力と社交術を身に着けているので、ここまでペダンティックだったりしないし、適度にユーモアも効いていて読んでいてクスリとさせられる部分もあるのだが、それでも、ほのめかしや持って回った言い方に度々イラっとさせられたことも事実である。英国に長らく住む人が、イギリス人は京都人みたいなもの、と言っていたのを聞いたことがあるが、なんとなく頷ける。 […]

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