イタリア人ジャーナリストの筆者が、アメリカへ中東・アフガニスタンでの反戦を訴えた一連の寄稿をまとめた本である。発表した当時、テロへの復讐に燃えるアメリカでは相当な反響があったようだ。
筆者は、中東とアメリカとの関係を、アメリカを中心とする国際的にメジャーな世論・ジャーナリズムとは、全く別の角度から捉えている。文化や宗教の価値観にまで踏み込んでいるので、判断するのはとても難しい問題なのだが、そこに敢えて真正面から正しさを追求したところに作者の強さがあると思う。
本書によれば、ビン・ラディンが率いるイスラム原理主義の最たる過激派は、既にイスラムという枠を超えて、《近代化と資本主義が持ち込まれ、自分達の伝統的な価値体系が破壊されたという、宗教的・文化的な危機感を感じている人々》さらには、《資源と大国同士の利権の奪い合いとに踏みにじられ、度重なる戦争と略奪によって荒廃し、徹底的に搾取されたという人々》の、鬱積した怒りと不満を集約する役目を果たしている。その勢いは中東地域にとどまらず、アフリカや中国ウイグル地方などにまで及んでいると言う。或いは、姿もない神に絶対的な服従を強いるという「イスラム」が、民族や文化的体系を超えて、あらゆる想像を絶する厳しい環境下におかれている者たちの、怒りや不平等や不条理を昇華させる、という信仰的性質をもっているのかもしれない。「イスラム」は、もともと非常にグローバルな宗教だから。
いずれにせよ、アフガニスタンやイラクへの攻撃により、アメリカが日に日に小さなビン・ラディンを増やし続けているという筆者の指摘には、戦慄を覚える。誰が想像したって、「ビン・ラディン」や「フセイン」などの、超異分子を取り除きさえすれば、イスラム原理主義を唱える反米勢力が一気に瓦解し、突然平和な世界が戻ってくる、なんて楽観的なことは考えられない。ビン・ラディンやフセイン、その個人が問題なのではないのです。彼らは、何かの象徴に過ぎないのである。本書の中で、アメリカからの攻撃によって荒廃しきったアフガニスタンで、男の人が呟く言葉が物語るように。《覚悟しておくがいい。いまアフガニスタンでおこなわれているこの不正義がまた、無数のオサマを生み出すことだろう。》
《「難民こそ、われわれがほんとうにその対策をねるべき罪なき人びとだ」と、ある国際機関の係官は言う。「彼らはテロリズムとなんのかかわりもない。新聞も読まないし、CNNも見ない。第一、彼らの多くはツインタワーになにがおこったのかも知らないんだよ。」》
本書には、非常に感銘深い文章が多々あるが、その中でも一番強く胸を打たれたのは次の文章である。
《わたしがそのほんの一部をかいま見てきたばかりの狂信者たちの社会は、憎しみに満ちていた。だが復讐のために、あるいは、ことによればほんとうに中央アジアの天然資源に手を出すためだけに、二十年にわたる紛争ですでに廃墟と化した国に、さらなる爆撃を加えているわたしたちの社会のもつ憎悪が、彼らのそれにより弱いと言えるだろうか。わたしたちの暮らしをまもるためであれば、幾万の難民を生み出し、数知れない女子どもを殺すこともやむをえないという道理が成り立つものだろうか。ワールド・トレード・センターで死んだひとりの子どもの無実と、カブールでわたしたちの爆弾が殺したひとりの子どもの無実とのあいだにどんなちがいがあるのか、だれか専門家がいるものならば、わたしにはっきりと教えてほしい。》
「絶対平和」を訴えることは、理想主義的過ぎる、と誰もが思う。そして、実際に自分が攻撃された時(自分が愛する人を含めて)、相手に報復をしない、という選択をすることはは非常に難しい。それでも、常々私が感じていたのは、まさに著者が言っているこの部分である。
《ワールド・トレード・センターで死んだひとりの子どもの無実と、カブールでわたしたちの爆弾が殺したひとりの子どもの無実とのあいだにどんなちがいがあるのか、だれか専門家がいるものならば、わたしにはっきりと教えてほしい。》
戦争では、常に無実の人が死んでいく、何よりも、無実の子どもたちが死んでいく。怒りで振り上げた腕、その一振りで、どこかにいる無実の子ども未来が吹き飛ぶ可能性がある。その事実を考えると、私も、もしそのとき、出来ることならば振り上げた自分の腕を静止する強さを持ちたい、と思ってしまう。
この本は、すごく重たい問題を投げかけているけれど、手紙のかたちで語りかけてくる筆者の文章は、論理的に明快で、平易で、とても読みやすい。多くの人に一度読んでもらいたい一冊である。
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