書評・エッセイ 『わたしの茶の間』 沢村 貞子


 

女優沢村貞子さんのショートエッセイ集。昔、祖母の家に必ずあった『家庭画報』。ここに掲載されていそうなエッセイの数々・・・と言ったらイメージしやすいであろうか。でも、明治生まれの女性らしいたおやかさと芯の強さに、生粋の江戸っ子らしいちゃきちゃきさも垣間見えて、中々乙である。例えば《ためすことのこわさ》という章。16歳のきらきら、ぴちぴちの女優の卵さん。《「女優の仕事が特別好きというわけではないけど自分の可能性をためしたい」》とはっきり答えるその若々しい姿に、ふと沢村貞子さんは不安を憶える。

 

若い人たちは、このごろしきりにためしたがる。人間、誰しもそういう思いこみの時期はある。私にもなかったとは言えない。ただ、その言葉の意味は、すこし、違っている。
あれは私が小学校三年生だったかしら。お彼岸で、母が得意のおはぎをつくろうと、ちょうど小豆を煮上げたとき、急用が出来た。困っている母のそばへ行って、
「この小豆、私があんこにしておくわ。やりかた知ってるもの。ためしにやらせて・・・」
とせがんだ。とんでもない、手をつけちゃいけないよ、と母が出かけたあと、私はそっと台所へ行った。
やがて帰ってきた母は、お鍋をみて青くなった。中は、小豆の皮だけだった・・・。見よう見まねで、ざるの中の小豆をつぶした私は、その上にザアザア水をかけ、あんこをみんな流してしまったのである。ざるの下に桶をおいて、水にとけたあんこを受けるのを知らなかった。
「・・・ためすというのは、よーく習ったあげくにすることだよ。知りもしないことを、どうしてためすんだよ・・・」
情けなさそうな母の言葉が身にしみた。それ以来、私はどんなことも、よく勉強したうえでなければ、ためさなくなった。
さっきの女優のたまごさんは、役者として、まだ何ひとつ学んでいないし、生活経験もすくない。なにしろまだ十六年しか生きていないのだから---それなのに、自分の可能性をためそうというのは、あぶない。うかうかすると、あの、小豆の皮になってしまう。
もし、あの可愛い容姿と現代っ子らしい持ち味で、ある程度成功したとしても、努力なしの試しでは、ながく保つまい。もし、失敗したら---たちまち自信を失って、容易に立ち上がれなくなってしまうだろう。
試行錯誤という言葉もある。若い人が体あたりでいろんなことに立ち向かってゆくことに不賛成というわけではない。
ただ、仕込みをしないで売ってばかりいたら、たちまち売り切れになるのは眼に見えている。そのあとの、若い人の心のすさびが、私はこわい。

 

情報化と資本主義とスピードが席巻しているような21世紀の日本で、たまに、こういう「こころがまえ」みたいなものを思い出す時間は、ひとときの清涼剤のような効き目がある。

それから、「日々のくらし」の大切にしているようなところもあって、でもそれはだらだらした甘えた態度では決してなくて、ちょっと背筋がぴんと伸びるようなところが好きだ。
昨日のわが家の献立は、甘鯛の酒むし、とり肉いりきんぴら・・・ごくありきたりのおそうざい料理である。
ただ---甘鯛は魚をえらび、きんぴらのごぼうとにんじんは針のように細くきざみ、おひたしの花がつおは、夢のようにうすくけずる。黒豆はねっとりと顎に吸いつくように甘くやわらかく、味噌汁は決して煮返したりしない。柚と昆布をたっぷりいれた白菜漬け、よくかきまわした糠味噌のかぶは香ばしい。
そんな細かい心づくしの食べものを私はおいしいものと呼び、満足しているのだから、考えてみれば罪のない、安上がりな贅沢である。材料があれば翌々日、姿かたちを変えて出す。同じ献立はつづけない。
とは言っても、幼児の育児に追われて、毎度の食事も自分は食べたのか食べてないのか分からなくなるような慌しい日々、毎日そんな余裕はとても無いけれど・・・たまにこういう本を読み返して、出来るだけ心のゆとりは忘れずにいたいものである。

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