この本は、村上春樹が《ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえて》《その音を聞いているうちに、どうしても長い旅に出たく》なって、約3年間、ギリシア・イタリアを中心にヨーロッパをあちこちめぐる旅に出る、その日々を綴ったエッセイである。途中、ヘルシンキやロンドンや、ザルツブルクなんかにも立ち寄るが、基本的にはギリシアの島々とイタリアでの生活が中心。村上春樹らしい、洞察力とユーモアに満ちていて、どんどん文章に引き込まれていく。
特にいいのは、やはり彼の思い入れも深い、ギリシアでの島の日々。スペッツェス島で奥さんと映画館に行ったりオールド・ハーバーを散歩したりして過ごすのんびりとした生活と、クレタ島の酒盛りバスや子供たちに期待通りのカンフーを披露する話のあたりが、一番好きだった。イタリアにいたっては、イタリア人やイタリア社会についての飄々としてかつ的確なコメントの数々がとても面白い。ローマの駐車事情、イタリアの郵便事情・泥棒事情については、思わず「ふふっ」と声を出して笑ってしまうくらいだった。
村上春樹は、自分で料理をする人なので、食べ物や料理についての記述も多く、これがまた食いしん坊の私にはたまらない。私はこの本を読んでる間ずっと、「あー、海辺のタベルナで冷たいワインとよく知らない魚のグリルと山盛りフライド・ポテトが食べたいー」と騒いでいた。(沢木耕太郎の「深夜特急」を3度目に読み直している旦那は「俺は、香港の屋台で、なんだかよくわからないけどやたらと上手い麺が食べたい!」と答えていた。)ちなみに、私はワイン一滴も飲めないのである。でもでも、ギリシアでなら飲める気がするのである。ま、間違いなく、気分だけの問題だが・・・ともかく、それくらい魅力的に書いてある。
一方で、ローマのポンテ・ミルヴィオ広場で新鮮な魚や野菜をどっさりと買い込んで、鮭と鰯の寿司、蕪の簡便漬け、いんげんの梅あえ、などのご飯を奥さんと台所でつくりながら食べてしまう、なんてエピソードもあって素敵。
村上春樹は、この旅の間に、超ヒット作となる『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げたそうな。『ダンス・ダンス・ダンス』は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と並んで、村上春樹の中で私が一番好きな作品である。『遠い太鼓』も、この頃の村上春樹さんの作品と同じような、軽やかさと明るさがあると思う。この後の村上春樹は、だんだん影と闇が濃くなっていくような気がする。勿論、そういう作品にもそれなりの良さがあるのだが。村上春樹の旅のエッセイとしては、『辺境・近境』という本もあって、これも面白いのだが、やはりちょっと暗いところがある。『遠い太鼓』は、ほんとに気楽な感じで読めて個人的に好き。
エッセイなのだが、村上春樹の小説そのままの感じで楽しめる。例えば、私が気に入った章のタイトルは、「パトラスにおける復活祭の週末とクローゼットの虐殺 1987年4月」。これ、まんま、『羊をめぐる冒険』とかに挟まっていそうなタイトル。文章も、『ダンス・ダンス・ダンス』の「ぼく」が話しているみたいな感じ。こんなに洞察力が鋭くて、的を得た文章を書いて・・・それで、小説の主人公と同じように飄々としている村上春樹さんて、やっぱり相当な変人なんだろうな・・・と改めて思った次第である。
ギリシアもイタリアも、ひどいところだ、という情報は正確(過ぎるくらい)に伝わってくるのだが、それでも行ってみたくなる、そういう不思議な魅力をもった本である。現実逃避したい気分のときに読むと、思わず長い旅に出てしまうかもしれないので、注意が必要。
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