書評・小説 『イギリス人の患者』 マイケル・オンダーチェ


 

原作は英国で名誉あるブッカー賞に輝き、映画化された作品はアカデミー賞を受賞した、という何かと話題の多い作品。今回、先に原作を読んでみたのだが、なるほど、映画化したくなる気持ちがわかるくらい、美しくて「視覚に訴える」作品だった。物語が過去と現在、虚構と現実が交錯する構成なので、映画化された作品は大分原作と変わっている、というのも、さもありなん、と思わされる作品である。

 

第二次世界大戦の末期、イタリアの片田舎、崩れかけたさる貴族の邸宅で、一人の若い女性ハナは、飛行機事故で記憶も顔も失った一人の男を看護している。軍隊も看護隊も全員立ち去った後で一人残り、男の語る物語に耳を傾け看護を続けるハナ・・・そして、そこに呼び寄せられるように集まってくるの叔父のカラバッジョ、インド人で英国軍の爆弾処理班として働くキップ・・・みんなが、戦争によって心のどこかに傷を負っている。やがて、患者の男の道ならぬ愛の物語が語られ、キップとハナとの間にみずみずしいけれど、どこかはかなくて壊れそうな愛が生まれ、邸宅の人々にとって少しづつ戦争の傷跡を癒されるような穏やかな日々が続いたのも束の間、日本への原爆投下をきっかけに、物語は戦争の悲劇に断絶されたまま幕を閉じる・・・

 

素晴らしい本の中には、時折、なぜかしら、ものすごく読者の「視覚」を刺激するものがあって、こういう本は、文章の美しさや物語の巧みさよりも、ひたすら、ある印象的な場面の映像だけが、読み終えた後でもなお生き生きと心の中に残る。

 

そういう種類の感動を、私が初めて感じたのは、中学生の頃マルグリット・デュラスの『愛人(ラ・マン)』を読んだ時だった。
冒頭の、メコン河を横切る渡し舟に乗っている少女の描写
わたしはよくあの映像(イマージュ)のことを考える、いまでもわたしの眼にだけは見えるあの映像(イマージュ)、その話をしたことはこれまで一度もない。いつもそれは同じ沈黙に包まれたまま、こちらをはっとさせる。自分のいろいろな像のなかでも気に入っている像だ。これがわたしだとわかる像、自分でうっとりとしてしまう像。・・・
言いそえれば、わたしは十五歳半だ。
メコン河を一隻の渡し船がとおってゆく。その映像(イマージュ)は、河を横断してゆくあいだじゅう、持続する。
この、「映像(イマージュ)」という言葉が、とても印象的だった。言うまでもなく、英語の「image」のフランス語バージョンなのだが、デュラスのこの作品の、この場面で使われたことで、私にとって特別な意味をもつようになったのである。何と言うか、視覚的にはっきりとした「映像」ということに加えて、「心象的」な意味が加わっている気がするのだ。日本語にも「情景」という美しい言葉があるが、この言葉だとちょっと叙情的過ぎると言うか、主観的な想いやメッセージが籠もり過ぎてしまう感じがする。「イマージュ」はもっと客観的で、人の想いとは独立しているものだ。心の中にしかないのに、目の前にあるように、いや、目の前にあるものよりもはっきりと、鮮やかに見える映像、それが私にとっての「イマージュ」なのである。
勿論、魅力的な小説に引き込まれたときにはいつでも、読者はありありとその場面を心に浮かべてみせるのだが、強く心に残る「イマージュ」を喚起させる作品というのは、一種独特のムードを、その作品の中に持っている気がする。
その種の作品で、デュラスの他に印象的だったのは、ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』、チェーザレ・パヴェーゼの『月とかがり火』、リチャード・アダムズの『ブランコの少女』、エルサ・モランテの『アルトゥーロの島』などなど・・・
余談だが、リチャード・アダムズという作家は、日本ではあまり知られていないのかもしれないが、私は江國香織さんのエッセイで紹介されていたのがきっかけで読んでみた。(江國香織さんが紹介しているのは『ウォーターシップダウンのうさぎたち』という、うさぎを擬人化した楽しい物語で、こちらもとても素晴らしい)『ブランコの少女』は、今まで映画化されていない(たぶん)のが不思議なくらい、エロチックでミステリアスで、視覚に強く訴える作品でであった。私が映画人だったら、真っ先に映画化したい・・・
閑話休題
多分、人によって、強く心に訴える「イマージュ」って違うと思うのだが、私はどうやら砂漠とか荒野とか、どこか荒涼として寂寞とした風景に心を揺さぶられる傾向があるようだ。『シェルタリング・スカイ』の、吹き荒れる砂漠に足をとられるヒロインの姿、『月とかがり火』の、黄金色に輝きどこまでも続いていく人気のない一面の小麦畑、『嵐が丘』の狂気に満ちた嵐と幽霊たちが跋扈する荒れ野、『ブランコに乗った少女』の物悲しいイギリスの邸宅の裏庭、『アルトゥーロの島』の美しい自然に囲まれながらも貧しくて侘しいイタリアの孤島・・・どれも、実際に見たことが無い風景なのに、生まれた時から知っていたような強い「イマージュ」が心に刻まれている。大げさだけど、人が心の中に初めから持っている原始の風景、みたいなもの。世界のどこかにあるはずだけど、全く同じものは多分ない、という気がする。それでも、ベルトルッチ監督の『シェルタリング・スカイ』を観た時のように、それに近いイマージュをこの目にすると、心がざわざわしたり。
すっかり本のレビューからははずれてしまったのだが、『イギリス人の患者』は、こういう今まで漠然と感じていたことを、しみじみと再考させられるような、素晴らしい作品だった。殆ど廃墟と化した屋敷の中で夜毎ハナが踏み入れる荒れ果てた図書室、若いキップとハナがカンテラの光が漏れるテントの中で語り合う美しい夢、そして、変わり果てたキャサリンを抱き上げて砂漠をさまよう男の姿・・・やっぱり、どこかで一度目にしたことがあるような気持ちで、なんだか映画を観るのがもったいない気がしてしまい、未だに映画をみていないのである(笑)



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