書評・小説 『ペスト』 アルベール・カミュ ①


コロナ旋風が吹き荒れる2020年春、主人公がコレラで亡くなる『ヴェニスに死す』や『コロナの時代の僕ら』を緊急刊行したパオロ・ジョルダーノの小説『素数たちの孤独』を読んだのは偶然だけれど、こちらの小説は、流行に乗って(?)読んでみました。

カミュは、『異邦人』は昔読んで結構気に入っていたはずなのに、それ以来読んだことがなかった。初めて『ペスト』を読んでみて、もっと早く読めば良かった!と後悔。本のタイトルからして、疫病やパンデミックのストーリーを想像していたのだけれど、そういうのを遥かに超えている。不条理な暴力と悪に、人間がどう立ち向かえば良いのか、それを宗教や哲学を超えて普遍的に問うた、重たいけれど素晴らしい力作。

とりあえず、本を読むきっかけとなった、伝染病と人間との戦い、という側面で興味深かった点を幾つか挙げる。

まず面白いのは、舞台となるアルジェリアのオランという植民地都市の描写である。適度に近代化され、富裕層が暮らしている平和な都市。みんなが《つねに金持ちになるため》に大いに仕事をし、《特に取引きに関心が深く、そしてまず第一に、彼らの表現に従えば、事業を行うことに専念する》都市なのである。《換言すればまったく近代的な町で》あり、こういう町では《男たちと女たちとは、愛欲の営みと称せられるもののなかで急速に食い尽し合うか、さもなければ、二人同士のながい習慣のなかにはまりこむか》しかなく、また、《すべてが健康を要求している》ので、《病人はこの町ではまったくひとりぼっちである》。なんだか、東京を含めて、現代のアジアの新興都市のどれかを描写しているかのようではないか。この極めて近代的な都市で、突如、鼠が大量死し、猫が消え、ペストの病魔が忍び寄ってくる。

この点、世間一般と同様であり、みんな自分のことばかりを考えていたわけで、別のいいかたをすれば。彼らは人間中心主義者(ヒューマニスト)であった。つまり、天災などというものを信じなかったのである。天災というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになり、それも人間中心主義者たちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。わが市民たちも人並以上に不心得だったわけではなく、謙譲な心構えを忘れていたというだけのことであって、自分たちにとって、すべてはまた可能であると考えていたわけであるが、それはつまり天災は起りえないと見なすことであった。彼らは取引きを行うことを続け、旅行の準備をしたり、意見をいだいたりしていた。ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられただろうか。彼らはみずから自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである。

ペストはあっという間に広がり、突如オラン市は閉鎖される。当たり前の日常が突然遮断され、初めて人々はペストという天災が我が身に実際に降りかかり、自分たちの生活を根こそぎ変えてしまったことを悟り始めるのだ。外部との接触は断たれ、ある者は愛する人との終わりの見えない別離を余儀なくされるし、物資も不足してくる。

この見慣れない光景にもかかわらず、市民たちはあきらかに彼らの身に起ったことを容易に理解しかねていた。別離とか恐怖とかいうような共通の感情はあったが、しかし人々はまた依然として個人的な関心事を第一に置いていた。誰もまだ疫病を真実には認めていなかったのである。大部分の者は、彼らの習慣を妨げたり、あるいは彼らの利益を冒すことがらに対して、特に敏感であった。彼らはそのためじれたり、いらだったりするものの、それはこの場合ペストに向ってぶっつけることのできような感情ではなかった。

これがペスト流行の第一段階になるわけだが、コロナウイルスは、ペストウイルスとは致死率が段違いに異なるので、疫病が社会にもたらす影響として参考になるのは、これくらいのレベルかもしれない。初めは個人的な関心事とウイルスが激変させた環境との折り合いをつけることに、人々は苦心している。しかし、その状態があまりに長く続き、そしてまた、近いうちに平和な日常が取り戻せるという予感があまりに遠のいてしまうと、やがて人々は個人的なものを断念してしまうようになる。

すでに理解されたことと思うが、これは結局のところ彼らの有する最も個人的なものを断念するということであった。ペストの初めの時期には、彼らは、他人にとってはなんの存在ももたないのに、彼らにとっては大いに問題であるような、些細な事柄がたくさんあるのに驚かされたものであったし、またそれによって個人生活なるものを体験していたわけであったが、今では反対に、彼らは他人が興味をもつことにしか興味をもたず、一般的な考えしかもたなくなり、その愛さえも彼らにとって最も抽象的な姿を呈するに至った。彼らがどれほどペストの蹂躙にゆだねられていたかは、ときどきもう睡眠中にしか希望などいだかなくなり、(略)彼らはじつはすでに眠っていたのであり、そしてこの期間全部が長い眠りにほかならなかったのである。

しかし、小説の中では、この運命に抗おうとする一人の男性がいる。偶然、この街を旅している間にペストによる閉鎖という災禍に見舞われた新聞記者ランベールは、パリに残してきた愛する女性に会いたいと願い、あらゆる手段を使って街から脱出しようとする。彼は市民ではないが、ペストが蔓延している街に滞在していることは事実であり、羅患している可能性がある以上、他の人々と同様、隔離されなければならないのはある意味当然である。しかし、ランベールは、愛する人との別離が耐えられない、という理由で、それを突破しようとする。つまりは、「公共の福祉」と「個人的人権」が対立しているわけだが、日本人だったら「愛する女性と一緒にいる」という権利をここまで強固に主張するのは、憚られてしまうだろう。しかし、ランベールは、まさに「公共の福祉」の為に全身全霊を捧げている医師リウーと、この点で真剣に議論をする。(結局、脱出は果たせないわけだが)ランベールの主張は、一顧だにされない要望ではなく、極めて重要な権利として扱われており、このあたりは、とてもフランス人らしい感覚だなあ、と思った。(だから、今回も、マクロン大統領から強烈な外出禁止令を出されてしまうわけだが)

「いや」と、ランベールは苦っぽく言った。「あなたには理解できないんです。あなたの言っているのは、理性の言葉だ。あなたは抽象の世界にいるんです」(略)

「いや、わかっています」とランベールは言った。「つまり公益のための職務っていうことをいわれるんでしょう。しかし、公共の福祉ってものは一人一人の幸福によって作られてるんですからね」

ややあって、医師は頭を振った。あの新聞記者の、幸福へのあせりは無理もないことだ。しかし彼が自分を非難するのは無理のないことだろうか?「あなたは抽象の世界で暮しているんです」。ペストが猛威を倍加して週平均患者数五百に達している病院で過される日々が、はたして抽象であったろうか。なるほど、不幸のなかには抽象と非現実の一面がある。しかし、その抽象がこっちを殺しにかかってきたら、抽象だって相手にしなければならぬのだ。

同情がむだである場合、人は同情にも疲れてしまうのである。そして心の扉がおのずから叙々に閉ざされていくその感じのうちに、医師はこういう圧しつぶされそうな日々の唯一の慰めを見出していたのであった。(略)抽象と戦うためには、多少抽象と似なければならない。しかし、どうしてそんなことがランベールに通じえたであろうか?抽象はランベールにとって、およそ彼の幸福と相反するものであった。そして、じつをいえばリウーもランベールがなるほどある意味においては正しいことを知っていた。しかし彼はまた、抽象が幸福にまさる力をもつものになることがあり、その場合には、そしてその場合にのみ、それを考慮に入れなければならぬ、ということを知っていたのである。

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