『聖なる王権ブルボン家』をお得に読む
言わずと知れた(?)ブルボン家
サロン文化の研究をしていくうちに、フランス王家の歴史が色々と気になってきた。日本ではお菓子メーカーまで名前を使っているくらいメジャーなのに、実際のブルボン王家について説明している日本語の文献は実に少ない。太陽王が「朕は国家なり」と宣うたことと、マリー・アントワネットの夫であるルイ16世が、断頭台の露と消えたことくらいは知られていても、意外と短いこの王朝の歴史について、日本ではあまり知られていないのではないか。
本書は、ブルボン王家の始祖となったアンリ4世から始まって、ルイ13世から16世と順番に並べて、フランスブルボン王朝の歴史を解説したものである。教養書なので、学術的な内容では無論ないが、宮廷内の人間模様だけではなく、フランスの内政、外国との関係や戦争、財政や宗教問題など、様々な点に触れていて、とてもバランス良くコンパクトに纏まっている良書だと思う。
ブルボン家に関わる女性たち
ブルボン家の歴史とか王様自身にあまり目がいかない原因の一つに、ブルボン家を彩る女性たち、王妃や王太后や国王の寵姫たちの華々しさがあるかもしれない。そして、その女性たちと結託したり衝突したりしながら、実際の国政を操る老獪な摂政たち。まずはその観点で、歴史を通観してみよう。
ヴァロワ朝の血をひきながら、プロテスタントに与する母方のナヴァル王位を継いでいたアンリが、フランス宮廷に担ぎ出されたのは、当時の王太后カトリーヌ・ド・メディチが、娘マルグリット・ド・ヴォロワとの結婚によって、プロテスタント派の懐柔を画策したからであった。そして、その婚礼のわずか数日後に、聖バルテルミーの虐殺が起こり、アンリはカトリックへの改宗を余儀なくされ、幽閉の身となる。カトリーヌ・ド・メディチの息子シャルル9世とアンリ3世が相次いで早逝し、彼女自身も病没すると、筆頭親王となったアンリは、いとこのギーズ公アンリやコンデ公アンリらの勢力を抑えてアンリ4世として即位する。ブルボン王家の始まりである。
ナヴァルというのは、ピレネー山脈の麓にあるフランス辺境の地であり、そこの出身でプロテスタント勢力の筆頭でもあったアンリ4世は、当時のフランス宮廷文化からすると異質な存在であった。フランスサロンの祖とも言われるランブイエ侯爵夫人が、「青の部屋」と呼ばれる優雅な自サロンを開いたのは、万事田舎式で粗暴なアンリ4世の宮廷を嫌ってのことだと言う。並居る強豪を押し除け、3度の改宗を経て戴冠したアンリ4世には少し気の毒な言い方だが、川田靖子著『17世紀フランスのサロン』では、アンリ4世の恋文が引用されており、これを読むと、ランブイエ侯爵夫人の言わんとすることも分からなくはない。
アンリ4世は国内の宗教的対立をおさめ、自らの改宗とひきかえに新教徒の信仰の自由を確保した名君ではあるが、女性関係は乱脈を極め、記録に残るだけでも56人も女がいた。根が明るい王様なので憎めないが、恋文の粗野な文体には恐れ入る。
「親愛なるハートよ。いっしょに晩飯を食ったね。すごく腹いっぱいになったね。パリを出発する前にまた会おう。なすべきようにではなく、できるかぎり可愛がってあげよう。使いの者が急かすから、これだけ。おやすみわたしのハートよ。百万遍もキスしてあげる。」
『十七世紀フランスのサロン』 川田靖子
当時の先進国であるイタリアからモードを取り入れたカトリーヌ・ド・メディチの華やかなヴァロワ朝宮廷の後でのこの落差はかなりのものだっただろう。勇敢で豪壮なブルボン王朝の開祖も、こういう観点で見れば形無しだが、ゆりの紋章ブルボン家が、最初から優雅な王朝だったわけではない、ということは覚えておきたい。
お盛んなアンリ4世だが、正妻マルグリット・ド・ヴァロワとの間には子に恵まれず、ローマ教皇に「結婚無効宣言」を出させて、彼女を離縁する。このマルグリット・ド・ヴァロワは、のちにアレクサンドル・デュマによって『王妃マルゴ』として小説化され、何度も舞台化や映画化される女性である。ちなみに王妃マルゴを熱演した女優は、代々ジャンヌ・モローとイザベル・アジャーニー。これだけでも、記事が幾つも書けてしまいそうな女性だが、ここではあっさりと退場していただき、次に王妃として迎えられるのが、ルーベンスの大作『マリー・ド・メディシスの生涯』で有名な、マリー・ド・メディシスである。
ルイ13世の時代
その名の通り、イタリアの大富豪メディチ家の出身であり、トスカナ大公の娘であるマリー・ド・メディシス。五人の子供に恵まれた彼女は、王太后としての地位を不動のものとし、夫アンリ4世が暗殺されてルイ13世がわずか8歳で即位すると、摂政として君臨する。カトリック国との協調路線をとる彼女は、長男ルイとスペイン王女アンヌ・ドートリッシュを、長女エリザベートとのちのスペイン国王フェリペ4世を同時に結婚させるという、スペイン王家との「ダブル婚姻」を実現させた。王太后は寵臣コンチーニと共に、全国三部会の聖職者代表として参加したリシュリューを抜擢し、まだ若いルイ13世、王太后マリー、そしてリシュリュー枢機卿の「三頭政治」体制を確立する。
しかし、神聖ローマ帝国内で始まった「三十年戦争」での外交政策や、プロテスタントへの強硬な姿勢などで、次第にリシュリューと対立した王太后は、最終的にルイ13世がリシュリューを支持したために、ついにはフランスから追放されてしまう。「三十年戦争」で、当初フランスは当然ながらカトリックの皇帝側についていたが、ハプスブルク家の勢力伸長を牽制するため、途中からプロテスタント派のスウェーデンを支援し始め、その後、正式にスペインおよび皇帝側に宣戦布告する。この「三十年戦争」については、「クリスティーナ女王」の記事でも詳しく触れているので参照されたい。また、平野啓一郎の人気小説『マチネの終わりに』では、バッハの音楽と「三十年戦争」について、こんな会話が出てきて、いかにこの戦争が長引く悲惨なものだったのかを物語っている。
「(略)わたしはそのただ中で、初めて本当にバッハを好きになれた気がしたの。やっぱり、三十年戦争のあとの音楽なんだなって、すごく感じた。」
(略)
「わたしはプロテスタントじゃないから、肝心なことはやっぱり理解できていないかもしれないけれど、ドイツ人の半分が死んだなんて言われているあの凄惨な戦争のあとで、教会に足を運んだ人たちは、やっぱり、バッハの音楽に深く慰められたんだと思う。」
『マチネの終わりに』
ルイ14世の時代
この長い長い戦争が終結する前に、まず宰相リシュリューが病没し、後を追うようにルイ13世も結核により41歳の若さでこの世を去る。世継ぎ誕生が遅れたため、またまたルイ14世が5歳という幼さで即位。そして今度摂政となるのは、スペインからお輿入れした王太后アンヌ・ドートリッシュだ。彼女もまた、摂政に就任した途端に、今までの控えめな王妃の仮面を脱ぎ捨て、政治力を発揮する。彼女の片腕として抜擢されたのは、宰相マザラン。このイタリア出身の元外交官は、王太后のバックアップの元、ウェストファリャ条約締結による「三十年戦争」の終結と、ブルボン王朝最大の内戦「フロンドの乱」を平定、という二大難事業を実現する。王太后アンヌのマザランへの信頼は絶対で、王太后がルーブル宮からパレ・ロワイヤルに居を移した途端、宰相も殆ど隣り合わせの部屋に引っ越したというから、同い年の二人の間に男女関係があったのではないか、と疑われるのも、故ないことではないかもしれない。
マザランが60歳で病死すると、いよいよルイ14世の時代である。ここに来ては、王太后らは最高会議から締め出され、リシュリューやマザランのような宰相を置くことも禁じられ、王の絶対的権力が確立することになる。ルイ14世は、マザランと皇太后アンヌ・ドートリッシュとの画策により、スペイン王女マリア=テレサと結婚しているが、ルイ14世が長生きしたこともあり、王太后マリア=テレサが権威を振るう時期は、ついにやってこない。カトリーヌ・ド・メディチ、マルグリット・ド・ヴァロワ、マリー・ド・メディシス、アンヌ・ドートリッシュといった歴代の王妃達に代わって、舞台裏で暗躍することになるのが、国王の寵姫たちである。
王妃マリア=テレサは殆ど国政に関与しなかったが、その出自は大きくフランス国政に影響した。スペインのフェリペ4世が亡くなると、ルイ14世はマリア=テレサの持参金要求を盾に、スペイン領ネーデルランドに一部譲渡を要求し、フランドル戦争に突入する。また、フェリペ2世の息子カルロス2は、ルイ14世の孫にあたるフィリップを後継者に指名したことをきっかけに、スペイン継承戦争が勃発した。度重なる海外との戦争に、フランスの財政状況は逼迫し、国民は疲弊していく。
1683年に、王妃マリア=テレサが亡くなってから、ルイ14世の愛人となったのは、弟の妃であるアンリエット・ダングルテール、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールイ、そして、モンテスパン夫人。最後は、秘密結婚までした有名なマントノン夫人である。
ルイ15世の時代
ルイ14世亡き後、後を継いだ曾孫のルイ15世は、わずか5歳。ルイ14世は非嫡出子は多かったものの、マリア=テレサとの間で唯一成人したのはルイ・ド・フランス(グラン・ドーファン)のみ。彼の長子であるブルゴーニュ公ルイ(プチ・ドーファン)も、父親の死の一年後に、麻疹と思われる病気による急死している。幼少の王を支えたのは、ルイ15世の叔父にあたるフィリップ・ドルレアンだった。
ルイ15世の結婚相手となったのは、元ポーランド国王の娘、マリ・レクザンスカヤである。彼女もマリア=テレサと同じく、自身は国政に関与しなかったが、その出自により、ポーランド継承戦争が勃発。この結果、フランスに隣接するロレーヌ国を手に入れることになる。
ルイ15世の幼少期を支えた摂政フィリップ・ドルレアンは放蕩家だったことで有名で、彼の摂政時代から、宮廷の雰囲気は次第によく言えばおおらかに、悪く言えば風紀が乱れてくる。フィリップ・ドルレアンが摂政を退いて後に風紀が改まるどころではなく、国王ルイ15世の好色ぶりはさらに加速した。五人姉妹のうちの三人に手をつけた、という逸話をもつルイ15世であり、ベッドを共にした女性は無数だが、数々の愛人の中でも、ポンパドゥール夫人は別格であろう。
本書は決して、国王の妻や愛人関係に詳しく触れているわけではなく、例えばルイ14世の歴代愛人などについては《フランスの政治に何の影響も与えなかったと言われる》としているが、ポンパドゥール夫人については《ポンパドゥール夫人を語らずしてルイ十五世の治世を語ることはできない。彼女の存在無くしては、おそらく十八世紀フランス史を語ることも不可能だろう》と述べている。しかし、彼女の影響力のせいで、有能な大臣が罷免されてさらに国内の不満を高めることになったり、七年戦争において、オーストリアとの同盟関係を強化して、結果的にプロイセンとイギリスという2つの強国を敵にことになったことも事実である。
彼女に対して厳しい評価を下すのは、同時代人といい、後世の歴史家といい、その数は少なくない。(略)より客観的な見方ができる後世の歴史家は、彼女が私情を絡めて大臣の人事に大きく干渉したことを非難する。適切な人事もあれば、不適切な人事もあったことは確かであり、これも頷ける。さらに国王の心と時間を独占し、その分、国王を国民から引き離し、孤立させてしまったという、手厳しい批判もある。これもあながち当たってなくもないだろう。しかし、文芸・芸術の庇護者としての彼女の貢献に一言もふれなければ、不公平になるのは明らかである。
ポンパドゥール夫人の文芸庇護者としての功績については、サロン関連の記事でまた触れることもあると思うので、ここでは詳しく触れない。彼女の死後、国王の寵愛を一身に集めたのはデュ・バリー夫人だが、彼女は主体的に政治に関わったわけではなく、国王の寵愛を理由に政争に巻き込まれただけである。ルイ15世が天然痘に罹り、終湯の秘蹟の前にデュ・バリー夫人がヴェルサイユ宮を後にする頃には、既に、政治の実質的コントロールも、国民からの期待も、国王の元を離れつつあった。
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