日本文学一覧

書評・小説 『なかなか暮れない夏の夕暮れ』 江國 香織

主人公は50代の男性、稔。実家は莫大な資産家で、親友の税理士大竹に言われるがままに財産管理をし、財団や親類との最低限の付き合いに顔を出し、利益にはならないソフトクリーム専門店の形ばかりの社長業をするほかは、本ばかり読んで暮らしている。同じく気ままにベルリンと日本を行ったり来たりして過ごしている写真家の姉の雀、元恋人の渚とその間に産まれた娘の波十など、彼の身の回りの人々をめぐる、全くもってドラマティックではない物語。タイトルのように、なかなか終わらない一夏。

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『すいかの匂い』 江國 香織

これも、夏が近づいてくると、なにげなく手にとってしまう類の本。

少女の夏の物語11篇。少女と言っても、10歳には届かない、本当に小さな子供くらいの年齢だ。昭和のノスタルジックな空気が溢れている。今回、読み直してみて、「おしろい花」と「枇杷の木」がよく出てくるなあ、と思った。どちらも、昔はそこらへんにあったのに、あまり見かけなくなった。

なんと言っても、五感のすみずみに届いてくる江國香織さんの文章が良い。

畳に置かれた大きなお盆にならべられたすいかにかぶりつくと、「だらだらとしるがたれ」て、ふと見るとお盆のすいかには真っ黒な蟻がたくさんたかっていてぎょっとする。「ぬかみその様な匂いのする台所」で「紙のカップに入った小さなバニラアイスを、木べらのようなスプーンですくっては口に運ぶ」ようす、壁いっぱいにくっついた小さなかたつむりをはがして長くつで踏んで歩くときの「しゃり、という刹那の、あの儚さ」、真夏の葬式から帰宅し、仄暗い八畳間の中で母が喪服をベンジンで拭くときの「揮発性の匂い、甘い頭痛」、団地のなかを通ると「よその家に入るとする匂いが、家の外まではみだして」いる。

情景だけでなく、味、匂い、肌触り、までが本当にありありと感じられる。文章と物語の力ってなんてすごいんだろう、と、なんだかヴァーチャルアトラクションでも体験したかのように思ってしまう。

このお話、わかる。たぶん、こんなにこれがわかるのは私だけじゃないのかな。僕だけじゃないのかな。・・・江國香織さんのファンは、江國さんの書く小説について、たぶん全員がそう思っているんじゃないろうか。じつは、私だって、そう思っている。

巻末の川上弘美さんの解説。江國香織さんの描く子供は、病気がちだったり神経質だったりいじめられっ子だったりが多い。私は、兄2人の末っ子で、こういうタイプの子供とは完全真逆、むしろ、そういう子達を槍玉にあげて苛めてやるくらいの少女版ジャイアンみたいな子供だったのに、それなのに、この物語を読んでいると、なぜだか「わかる」と思ってしまうのだから、やっぱりすごい。

子供の物語なのだけれど、あけっぴろげな無邪気さはなくて、どれもしんとして怖かったり切なかったりする。団地や田舎をモティーフに、貧しさ、病気、犯罪、精薄といったダークな部分が見え隠れする。(「はるかちゃん」で、幼女に性犯罪する青年の姿がさらっと描かれているあたりは、きょうび出版したらなにかと言われそうなくらいである)それなのに、不思議と暗く重たいだけにはならなくて、それをはねのける、いや、後ろに置いて進んでいくだけの強さがある。少女と夏の強さみたいなもの。

そういう夏から何十年も過ぎた。私はいつしかそういう夏から遠く隔たってしまい、今度は私の小さな娘がその入り口にいる。


書評・小説 『おめでとう』 川上 弘美

川上弘美の短編集。まず何より私がこの本が好きなのは「おいしそう」だからである。

「いまだ覚めず」で、のっけから主人公は列車の中でお土産に買った笹かまぼこを食べている。あんまり美味しくないくせに一袋食べてしまったので、駅前のお店で「半身のきんめ鯛をざっくりとざるに盛りあげたのを無造作に売っていたので、ひとつビニール袋に入れて」もらう。帰りにはタマヨさんと一緒に相模湾の生の蛸を食べさせるとお店に寄って、蛸を「むつむつ」噛む。「春の虫」でショウコさんがつくる、「赤飯のおむすび、蕗、さといも、海老フライ、つけもの数種類、ほうれん草のごまよごし、焼き豚、豆」が「きれいに詰められている」「豪華なおべんと」、温泉旅館で失恋話をしながらほたて貝のひもにわさびをつけて食べるところ、「夜の子供」で元彼のポケットから出てくる「いちごみるくキャンディ」ですら食べてみたくなる。

何気ない描写の中に、食べることを大事にする姿勢みたいのがあって、読む方は素直に食べるのを楽しみたい気分になる。江國香織さんの小説にもそういうところがあるけれど、江國さんの方は、もっときちんとしたオサレな食べ方をしないといけない感じがしてしまうのに対し、川上弘美さんの方は「コンビニ弁当でも美味しいよ」的気楽さがある。実際、「川」の中で恋人たちが川沿いで食べる、おでんにやきとり、山菜おこわにたこやき、といったコンビニグルメも十分美味しそうである。

全部のお話がどことなく(というか、時には吹き出してしまうほど)ユーモラスで、のんびりしていて、ちょっと寂しい。川上弘美ワールド全開の短編集。今流行りの「脱力系」と言われればそうなのだが、そこに繊細できりりとしたところもある。

いくつかのお話は、ちょっとレズっぽいお話だったり(「いまだ覚めず」「春の虫」)、不倫のお話だったりする(冬一日」「冷たいのが好き」)。

ちょっとだらしないところや弱いところのある登場人物たち。その弱さが暖かい哀感に変わっているところが川上弘美の小説のいちばん好きなところだ。哀感、というとちょっと強すぎるというか、悲しい感じがしてしまうけれど。

幼児2人の育児中で毎日ドタバタ、鬱陶しさはあれど寂しさとは無縁の生活で、旦那ともラブラブってわけではないけど特に不満もない生活の私なのに、なぜだか川上弘美ワールドの人たちがちょっぴり羨ましくなってしまう。なんだか「寂しさ」がとっても魅力的なものに見えてきてしまうから要注意の本なのだ。


書評・小説 『異人たちとの夏』 山田 太一

私にとって季節感と読書というのは結構大事で、特定の季節に特定の本を読みたくなる。特に夏を感じたい本というのはたくさんあって、先日記事を書いた池澤夏樹さんの『カイマナヒラの家』なんかもそうなのだが、シドニー・コレットの『青い夏』とか小川洋子さんの『ホテル・アイリス』とか、毎年のように読み返してしまう。この小説は、ちょっと違った感じの「夏」、私にしては珍しいちょっとホラーな「夏」を感じる本として、気に入っている本である。

『ふぞろいの林檎たち』など多くのヒットドラマを手掛けた脚本家山田太一さんが1983年に発表した小説で、第一回山本脩五郎作を受賞、映画化もされた名作である。離婚したばかりで仕事場のマンションに1人住み込むことになったシナリオライターの男性が、同じマンションに住んでいる不思議で魅力的な女性と知り合ったり、幼い頃交通事故で亡くなった両親と故郷の町で再会したりする一夏。

数年ぶりに読み返してみて、主人公の中年男の孤独と哀愁が、ぐっと胸に染みたのはさすがに自分が歳をとったからだと思う(笑)。中年男の脚本家が書いた、中年男のシナリオライターを主人公とした物語なのだから、その孤独と哀愁には自己憐憫と自己陶酔的なものが混じっていそうだが、それすら客観視するような一種のドライさと相反する人情味が両立していて、文章の歯切れもよく、読んでいる者を最後まで惹き付けて離さない。

P59

なんという生活をしているのだろう。次々と目前に現れる出来事に反応し、一時的に興奮し、しかしそれらは次々と遠くなり蓄積にはならず、また私は次々と新しい日に反応して成熟もなく、気がつくとおいさらばえているのだ。

P137

無論それは親が悪い。親としても亭主としても俺が悪い。なにもかも悪い。本気でそう思っているわけではないが、窓から夜景を見て、自分を黒く塗りつぶしていると、小さな快感があった。

全体として不思議な怪奇譚には違いないのだが、あんまりそういう感じをさせないでいて、物語の最後の最後で突然ヒヤっとホラーな展開になるところも好きである。そういう意味では起承転結がはっきりしたストーリーなのだが、大円団とならないところも憎い。うまくいかない息子と打ち解けるわけでも、幽霊となって(かなりお門違いな)恨みを晴らそうとしていたケイと和解するわけでも、主人公の孤独が去るわけでもない。ハッピーエンドではないのに温かみの残るラストである。

あと、歳くってからこの小説が面白いと思う理由はもう一つ、書かれた時代80年代感の漂う懐かしさである。主人公の業界の人たちのバブルっぽさ、主人公の住むマンションのオートロック機能をわざわざ詳細に説明していたり(当時は最新で珍しかったからだろう)、主人公が一人でレンタルビデオでエディ・マーフィーの新作を借りてきてビールを飲みながら見るところなど、なんとも言えず80年代でもはや新鮮でさえある。

調べてみたら、映画化作品の主人公役は風間杜夫、ヒロインの幽霊ケイ役は名取裕子と、これまた80年代を感じられそうなキャスティング。両親役片岡鶴太郎と秋吉久美子というのもぴったりでないか。あまり邦画に興味のない私でも観たくなる。そんな懐かしさで心を動かされているあたりが十分おばさんである。


書評・小説 『若冲』 澤田 瞳子

2016年に東京都美術館で開催された「伊藤若冲展」が、今年になって再び福島県立美術館で開催され話題となっている。遅まきながら、直木賞候補作でもあるこの小説を読んでみた。

一応、大学で美術史を専攻していた身としては、芸術家の内面を描く小説、というのはどうもあまり好きにはなれない。個人の内面的葛藤や感情を作品で表現するといういわゆる「芸術家」的捉え方が、極めて現代的過ぎる気がするのだ。西欧でも日本でも、18世紀くらいまでは、真の純粋芸術家などは存在せず、と言うかそもそもそういう考え方すらなく、芸術家はかなり職業人的要素が濃かった。工房とか流派で作品を仕上げていたことからもよく分かる。絵画を純粋な観賞用作品として仕上げるのではなく、屏風や襖絵など、権力者達の調度品の一部として用いることを前提としていた日本美術の文化ではなおさらのことだ。もちろん、その事実が作品の芸術的価値を減じるわけでは決してない。むしろ、そうやって経済的あるいは物理的な制限を受け、時代の特殊性を反映し、パトロンの趣向や欲望を代弁し、なおかつ数百年経った後まで時代や国を超えて鑑賞者に情動的なインパクトを与えうる作品とはなんと素晴らしいものだろう、と思う。だから、芸術作品を作者の個人的な側面から分析するのはあまり好きではないのである。

作者の澤田瞳子さんは、小説家であると共に同志社大学大学院博士課程を修了したれっきとした美術史家でもある。本作は、伊藤若冲の個人的な人生や内面にスポットをあてた完全なる創作物語にはなっているが、美術史家としてはタブーなことを、小説家として自由にやってみたかったんだろうなあ、という感じがする。しかし、さすが、豊富な知識に裏打ちされた時代考証や当時の風俗描写の確かさ、漢語の多い格調高い文章で、感情的な安っぽい物語になはっていない。与謝蕪村や池野大雅、円山応挙、谷文晁などの脇役も面白い。

ストーリーの大きな鍵として、美術史界では大きな話題となっている『鳥獣花木図屏風』(プライスコレクション)の真贋問題を持ってきたのは美術史家らしい。従来、伊藤若冲で最も有名な作品と言えば、静岡県立美術館所蔵の『樹花鳥獣図屏風』と、それとほぼ同じ構図をとったプライスコレクションの『鳥獣花木図屏風』が双璧であった。しかし、近年、東大美術史学科教授の佐藤康弘氏が、後者は「稚拙な模倣作である」と主張。『奇想の系譜』を著し日本美術史の大家としても有名な同大学名誉教授惟雄氏の主張と真っ向から対立し話題となった。本作では、実在の画家市川君圭が若冲を憎む義弟であるという設定になっており、彼が『鳥獣花木図屏風』を描いたのを知りながら若冲が「これは自分の作品だ」と言明し、「あの屏風が誰の手になるかなぞ、若冲どのを知らぬ百年ーいや千年先の暇人どもが、言い争えばよきことでございまするな」と粋な言葉で結んでいる。

この論争について知りたい方は、日本美術サイト「ARTISTIAN」の記事がわかりやすい。ちなみに、佐藤氏と辻氏はどちらも私の在学中の専攻科目の教授であるが、何か逸話を付け加えれるほど授業に出席しておらず、向こうも不肖学生の名前も顔も記憶しておられぬであろうから、これ以上語ることもない(笑)

とにもかくにも、奇矯の画家、伊藤若冲は人目を引かずにはいられない作家である。いや、作家である、というより、人目を引かずにはいられない作品群である。こんな絵を描く人物ってどんな人なんだろう、と興味が沸かずにはいられないのだが、また、そんなことどうでもいいくらいに完結していて素晴らしい、とも思う絵なのである。

<参考>

日本美術サイト「ARTISTIAN」の記事はこちら