書評・小説 『神様のボート』 江國 香織


『神様のボート』をお得に読む

「あの人のどこがそんなに好きだったのか分からなくなってきた。だから、初めての頃に戻ってみたくなったの」

結婚10年を悠に超えたうちの旦那についてではない。江國香織さんの小説についてである。くだらねーとページを離れることなかれ。いやほんと、以前は、江國香織さんの小説、大好きだったのだ。デビュー長編の『きらきらひかる』も、短編の『つめたい夜に』も『こうばしい日々』も圧倒的な印象だった。彼女の作品はほとんど読み漁った。でもでも、『東京タワー』あたりからちょっと「なんか違う?」ってなり、『スイートリトルライズ』でも「うーん」ってなって、『がらくた』と『左岸』で「もう読まなくていいや」ってなっちゃったんだよね、、、どうしてなんだろう?小説の印象って、読み手の心理や成長度合いで全く変わるから、大体はこっちのせいなんだけども。江國香織さんの場合はなんだか変わり方が急激だし、以前、とある書評SNSで『がらくた』についてかなり辛口コメントをしたところ、「私も同じ!」と同意のコメを幾つかいただいたりしたので、私だけの問題でもないのかなあ、と。

で、勝手に冒頭のコメントのような気持ちに駆られて、一番大好きだった作品、この『神様のボート』を10年以上ぶりに読んでみたってわけです。(相変わらずどうでも良くかつ長い前置きですみません)

《あたしが発生したとき、あたしのママとパパは地中海のなんとかいう島の、リゾートコテッジにいたのだそうだ。晴れた、風のない日で、二人はプールサイドで本を読んでいた。》《ママはシシリアンキスというカクテルをのんでいた。カクテルをつくるのはパパの役目で、パパのつくるシシリアンキスは「倒れそうに甘くて病みつきになる味」だったそうだ。グラスの液体はとろりとした琥珀色で、「午後の戸外の飲み物として、あんなに幸福なものはない」らしい。》

のっけから、いいですねえ〜。これよ、これ。江國香織ワールド。正しい陶酔、芯のある自堕落さ、とでも言おうか。今はいない「パパ」に永遠に恋する不思議な「ママ」とその一人娘「あたし」が、放浪生活を送りながら成長していく、という物語。「私はあの人のいない場所になじむわけにはいかないの」「神様のボートにのってしまったから」。そう言って、旅がらすのように住む場所を変えていくママ。

《ずっと昔、よくあのひととお酒を飲んだ。あのひとは、どんなお酒もきれいな動作で、すうっとしずかに身体に入れた。》《私たちは昼間でもかまわずお酒をのんだ。あのひとの仕事場である楽器屋の奥で。(略)私たちはそこでワインをのんだ。二人で一壜あけてしまうこともあった。そして、音楽について話した。私はたとえばビートルズについてくわしくなり、あのひとはたぶんバッハについて、すこしくわしくなったと思う》《昔、あたしのママとパパが長い長い旅をしていたころ、ママは雨の朝が大好きだったそうだ。たとえばパリで、目がさめると、ホテルの小さな部屋のなかじゅう雨の気配がたちこめていて、しずかで、耳をすますと案の定雨の音がするの、とママはときどきなつかしそうに話してくれる。》

ありえないおとぎ話なんだけれど、物語全体が、不思議なアンニュイさと陶酔感に包まれている。ママが描写してみせる、パパとの素敵すぎる過去。でも、次第に成長していく《あたしはほんとは知っている。ママはパパと旅にでたことなんて一度もないって。》そういう意味では、殆どこの人は病んでいる。だけど、ひとの心の弱さが、重苦しく黒ずんだものではなくて、どこか明るくふわふわとしたようなものに昇華されてしまうのが、江國香織さんの小説の醍醐味なのだ。

大体、こんな優雅なシングルマザーいるかよ、と実はツッコミどころ満載の物語ではある。《私の荷物はそんなに多くない。ピアノと看板と衣類のボストンバックが一つ、それにエスプレッソメーカー》少ない荷物にピアノとエスプレッソメーカーが入っているスノッブさ。果たして、スナックや喫茶店でバイトしたり、出張ピアノ講師をするだけで、それ以外はしょっちゅう推理小説を読み耽ったり、チョコレートケーキを焼いて娘の帰りを待っていたりする余裕ある生活が実現可能だろうか。しかし、もちろん、そんなことを言い出すのは野暮というもの。実際の数多のシングルマザーの窮状など見る影もなく、主人公たちは最後までエレガントである。

もちろん、江國香織さんの小説の良さは、ただ自己陶酔的なスノッブな美しい物語じゃなくて、そこに、自然とか子供とかとってもイノセントな瑞々しい感覚が両立しているところにある。例えば、この物語で言えば、お友達とシーソーで《シーソーは、下に落ちる瞬間より上にあがる瞬間の方がおもしろい、とあたしは思う。上に上がるときは自分で地面を蹴るけれど、下におちるときはなんにもしないでおちちゃうから》という感覚、色鉛筆のうしろをかみながら《かむとじゅわっと木の味がしておいしい》という感覚、海岸に落ちているガラス片が波に洗われてなめらかにまるくなり《表面がちょうど砂消しのように、白く粉を刷いたようになる。水に濡らすとすきとおり、かわくとまた白くざらりとした表面にな》り、「飴みたいでしょ」といって口にいれてみる、その感覚。夏になるたびに読み返したくなる短編集『すいかの匂い』には、そういうのが溢れている。

でも、そういうイノセントさが江國作品の重要な車輪だとしたら、もう片方の車輪は、やっぱりこのスノッブさと自堕落さ、なんだと思う。で、こちらの方は、なんともクセと好みがあって、芳香に酔いしれることができるか、やたらと鼻についてしまうか、この辺りはかなり微妙なラインなのだ。読み手の年齢、環境、はたまた体調まで影響を及ぼしそうだし、もっと言えば、時代感みたいなのもあるかもしれない。だから、『冷静と情熱の間』の女性が毎朝2時間もお風呂に入っているのが「ステキ」と感じるか「いい加減にしろや」と思ってしまうか、は時と場合と人による。『がらくた』に漂うアンニュイさを「やる気がなくてダラダラした」風にしか感じられなくなっているのは、作品を取り巻く環境や読者の時代性が微妙に変わってきているからなのかもしれない。

で、最終的にこの本を読んで何が言いたいかというと、「やっぱり私はこういう自堕落さ、スノッブさ、好きなんだわ」ということ。なんかね、もう最近の小説、面白いのもあるけれど、暗くてリアル過ぎる。確かに、みんな病んでるし、閉塞感すごいし、日本全体詰んでる感あるし、デフレも何十年続いちゃってバブルさも優雅さもどんどん遠のいております。し、か、し、ですね、そんな時だからこそ、この斜め上を行くような陶酔感溢れたスノッブさ、浮世離れした感じ、大事なんではないでしょうか。そんな時こそ酔い痴れたい、というのも人情。そういうおとぎ話の中にこそ煌めく真実と孤独ってのがきっとあるはず。私が今頃しつこく森瑤子を読み直しておすすめしたりしているのも、きっとそのせいなのだ。

コロナで世の閉塞感と困窮ぶりは増すばかり。こんな時代にこそ、出てきてくれないかなあ、とびきりスノッブさと自堕落さに陶酔できる素敵な大人の小説。。。いや、ほんと、正味な話、そんなのでも読んでいなけりゃーやっていけない世の中じゃないですか?誰か、そこのところ一つ、お願いします、ほんとに。

Follow me!


よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次