読書と書評一覧

書評・小説 『ミーナの行進』 小川 洋子

第42回谷崎潤一郎賞を受賞した、小川洋子さんの長編小説。小川洋子さんの小説は結構好きで、ベストセラーになった『博士が愛した数式』から始まって、『薬指の標本』『妊娠カレンダー』『ブラフマンの埋葬』など読んでいる。実は一番好きなのは『ホテル・アイリス』かもしれない。『ホテル・アイリス』は、初老の男と少女の歪んだ性愛を描いたものだが、彼女の小説はどこかに「危うげなもの」「病的なもの」を奥底に秘めている。それが、どぎつく表現されているのではなくて、ちょっと怖い御伽話のように、どこか甘くひっそりとした感じで潜んでいるところが好きだ。

だから、この『ミーナの行進』も、少女の物語なのだけれど、どこかに病的な危うげなものを隠し持っているんだろうなあ、と思って読んでいた。ところがどっこい、この物語は肩すかしなのである。

芦屋のばかでかいお屋敷に住む病弱な少女ミーナ、ペットはコビトカバ、絵に描いたようにダンディでステキな父親は度々別宅に行方をくらまし、母親は一日中煙草室であらゆる印刷物の誤字探しをしている。ドイツからお嫁にきたユダヤ人のおばあさん、孤独な住み込み家政婦の米田さん、ミーナの宝物であるマッチ箱を届けてくれる水曜日の少年、など、「危なげな」要素は満載なのだが、それらは全て、「危なげ」な余韻を残したままで過ぎ去って行く。ミュンヘンオリンピックとバレーボールの熱狂、不思議な光線浴室での仄暗い時間、ジャコビニ流星群の夜、少女たちの恋とも呼べないような淡い恋、、、そういうもの全てが未消化のまま、少女たちは立派に強いオトナになる。いや、未消化というのはふさわしくない、それらをものともせず、乗り越えて、病弱なミーナも母子家庭の「わたし」もオトナになるのである。

読み終わってすぐは、あっけらかんとした不思議な御伽話感に、「なんだかなあ」という感じなのだが、数日すると、じわじわとその良さが沁みてくる。暗くて危ないものに「敢えて」触れない、そのあっけらかんとした明るさと強さが、いつもの小川洋子らしくなくて、なんかいいなあ、と思えてくるのだ。何もないと深みのないおとぎ話になってしまう。でも、本当はどこかに暗い深淵があって、そこに「敢えて」触れていない、という感じ。

読後に検索してみたら、井上ひさしさんの書評が掲載されていて、おんなじような肩透かし感を「背負い投げ」と述べていたので、なるほどなあ、と思った。

この本は再読なのだが、最近、所用があり、久し振りに兵庫の芦屋に行ってきたので、芦屋を舞台にしたこの小説が読みたくなったのである。小川洋子さんは芦屋市在住らしく、ハイソな芦屋を、御伽話の中の外国の街のように仕立て上げているところが面白い。

ミーナのお屋敷は、阪急芦屋側駅の北西、芦屋川支流高座川に沿って山を登った中腹、千五百坪の敷地に建てられたスパニッシュ洋式の洋館である。玄関ポーチやテラスに多用されるアーチ、南東の角に設けられた半円形のサンルーム、オレンジ色の瓦屋根といったスパニッシュ特有のスタイル、南側の庭は日光がたっぷりと降り注ぐよう、なだらかに傾斜しながら海に向かって開けている。庭は昔小さな動物園として公開されており、今ではコビトカバのポチ子の面倒を、専門の庭師小林さんが見ている。

こんなロケーションを日本で設定しようとしたら、芦屋界隈をおいて他には中々望めまい。現実離れした設定ではあるけれど、昭和40年代の芦屋ならもしかしたら、という感じを漂わせている街である。

新神戸駅に大きなぴかぴかのベンツに乗ってお迎えに来てくれたドイツ人ハーフの伯父様、西宮の洋品店で制服を誂えた後、阪急芦屋駅近くの洋菓子屋さんAで食べるクレープ・シュゼット、打出天神の向かいにある石造りの重厚な芦屋市立図書館、六甲山ホテルからシェフとボーイが出張してつくってもらう本式ディナー、現実と虚構ないまぜになった風情が、芦屋を知る者には読んでいてとても楽しい。

芦屋の魅力は、ただ阪神都心に近い高級住宅街というのではなくて、山と海が近い野趣溢れた土地でもあるところである。

芦屋の夏は海の方角から駆け上ってくるようにしてやってきた。梅雨が明けた途端、それまでどんよりと曇った空に飲み込まれてたい海が、鮮やかな色を取り戻し、視界の隅から隅まで一本の水平線を目でたどることができるようになった。光も風も一度海の上に舞い下り、たっぷりと潮の香りを含んでから山裾に向かってせり上がってきた。あれ、海が昨日より近くにある、と思った時が、夏の訪れの合図だった。

小川洋子さんの、芦屋への愛情が伝わってくる一節だ。




書評・小説 『休暇は終わった』 田辺 聖子

夏にぴったりの一冊。

『ジョゼと虎と魚たち』の記事で、私が好きな田辺聖子小説のエッセンスともいうべきものを綴ってみたのだが、これが、まんまあてはまる作品である。むしろ、この作品を意識して記事を書いた、みたいなところがある。自立した女性と女心のバランス、魅力的なオトナの男と若い男、それから、関西弁や関西独特の風俗やロケーション、どきっとする言葉とタイトル。もちろん、美味しそうな食べ物も。

作家の仕事もうまくいきはじめた30初めの女主人公悦子。若くて美しいけれど、何をやっても続かないだらしない男で、彼女につきまとってヒモのような生活をしている類。そこに現れる類の父親の入江。この父親が『恋にあっぷあっぷ』の記事でも書いたような、ユニコーン並みに実在を疑われるほど魅力的な「デキブツ」男なのである。彼の連れて行ってくれるデートは、田辺聖子さんの小説ではお馴染みのロケーションなのだが、分かっていても、やっぱりいちいち素敵である。

日本海に抜ける街道沿いに車を走らせて連れて行かれた鮎茶屋では、新鮮な天然鮎をあたまから食べるやり方を教わる。六甲山上のホテルでは、庭にいくつも提燈を下げたテラスで、炭火焼いたステーキを食べる。それから鄙びた山の中の料理屋旅館のようなところでは山菜のてんぷらや梅のたれでたべる蒟蒻、山梨の実のたいたものや胡麻豆腐などの箱膳が供される。

で、言う言葉がこれ。

「喜ばせ甲斐のある人というのは、可愛げがありますなあ。あんたは一万人に一人の人ですね」

私がくどいほど、「こんな魅力的なオッサンいるわけないだろ!」と半ば怒りを感じる理由がお分かりか。まあ、その怒りの99%はやっかみである。

でも、この作品のいいところは、その息子のどうしようもない男、類の姿が描かれているとこだ。悦子が昔付き合っていた野呂という男もそうだが、彼らの「ダメ男」ぶりと、それに惹かれてしまう悦子の「ダメ女」ぶりの方が、リアリティがあって良いのである。

私はそこに、彼の可愛げみたいなものを見るのである。もしかしたらそれは「若さ」の可愛げかもしれない。彼にはあんまり定見なんてものがなくて(もしくはまだできていない)、どっちにでもころびそうな感じ、私は正直にいうと、そこが類の好きなところである。要するに類は、何もかもがまだホンモノになっていないのだった。

「何を考えてんのん」私がだまると類はすぐ、いう。そんなこという人、自分の中がっからっぽの人。

結局、悦子は類と別れるが、また、「デキブツ」の父親をも選ばない。オトナの御伽話は、甘いばかりではなくて、ほろ苦いものであることを、田辺聖子さんはよく知っているのだ。

それから、ドキッとするような言の数々。

また、ほんとうはそうじゃなく、男と女と金、という三つ巴は、もっと深いからみあいかたをするものなのである。長く生きてると、あとになってわかるものである

「幸福と面白いこととはちがいます。幸福というのは、面白いことが無くても成り立つ。」ふーん。「たとえば、会社は隆々栄えて儲かり、女房は機嫌よく、子供は健康で順調にすくすく伸びてる。そういう風なとき、男は、幸福と思うやろうなあ。しかしそのとき面白いか、というと、そう思うてないのやねえ、これが」

私は、「幸福でない」ということに拘っていた。私は女だから、幸福と面白いこととを結びつけるのが本当のような気がしていた。

そしてラスト。

つまり、その一枚の写真が、夏の決算報告書というわけだった。私はそれを破った。

夏は過ぎた。私の休暇は終ったのだ。

最後の最後の一文で、タイトルに戻ってくる、この印象的なラストは、読んだ人だけが味わってほしい。


書評・小説 『ジョゼと虎と魚たち』 田辺聖子

ことし6月、田辺聖子さんの訃報を聞いてから、また読み直したいなあ、と思いながら、ずるずると日が経ってしまった。「多作」というだけであまり良いイメージをもっていなかった私が、今から10年くらい前だろうか、田辺聖子さんの本を読むようになったきっかけとなった本だ。久しぶりに読んで、うん、やっぱり、私の好きな田辺聖子さんのエッセンスが詰まった短編集だなあ、と思った。

で、今回は少し、そのエッセンスをまとめてみたいと思う。もちろん、田辺聖子さんは引き出しの多い作家さんなので、ここに挙げたのは、あくまで私が個人的に好きな部分ということだけど。

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書評 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 加藤 陽子

東京大学文学部で日本近現代史を教える加藤陽子先生が、栄光学園高等学校で中高生向けに行った5日間の集中講義をまとめたものである。小林秀雄賞を受賞。

毎年、夏には何かしら戦争についての本を読むようにしているが、インスタグラムで紹介されていたこちらの本のタイトルに惹かれて読んでみた。

司馬遼太郎が太平洋戦争での日本軍の愚行を激しく憎み、「なぜ日本はこんなばかな戦争をしなければならなかったのか」という根源的な問いをもって著作にあたった、というのは有名な話である。確かに、この問いは、日本人なら誰でももつべき問いだろう。それだけ素朴で自然で、だからこそ、難しい問いであると言える。

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書評・新書 『文芸サロン その多彩なヒロインたち』 菊盛 英夫 ②

革命後のフランスでは、文芸サロンの役割は、カフェやそこで発達したジャーナリズムに分散されていき、強烈な愛国者であるジュリエット・アダンのような政治色の濃いサロン、或いは画商アンブロワーズ・ヴォラールが印象派の画家たちを集めたような、パトロン・スポンサー的意味合いの強いサロンなどが登場してくる。また、作家たちが経済的に自立することにより、フロベールやゾラや、現在もフランス最高峰の文学賞として名前を残すエドモン・ド・ゴンクールなど、作家自身がサロンを開くことになってきたのも、資本主義の成熟してきた社会の風潮をよく表していると言えるだろう。パトロンやスポンサーという観点からサロンというものの変遷を考えてみるのも、非常に重要な視点だろうと個人的に考えている。 続きを読む