『夏に抱かれて 』をお得に読む
サガンの小説は、中高生の頃一通り読んだのだが、『心の青あざ』以降の後期の作品は、急速にサガンらしい魅力を失っているように感じて、あまり好きになれなかった。
今回読んだ『夏に抱かれて』も、昔読んでいるはずなのだが、ストーリーも登場人物も、殆ど印象に残っていない。
『夏に抱かれて』は、第二次世界大戦、ドイツ占領下にあるフランスを舞台にしている。ヒロインのアリスはレジスタンスに参加しており、ユダヤ人の亡命を手助けする為、活動家の恋人と一緒に、彼の幼馴染で、今は南仏の田舎で悠々自適な生活を送っている色男のシャルルを利用しようとする。
舞台設定からもわかる通り、『夏に抱かれて』は、直接「戦争」を主題にしてはいないものの、「戦争」色の強い作品である。タイトルから、サガンらしい、夏のアンニュイなバカンスを想像していた私は見事裏切られることになった。南仏の田舎の美しい自然、夕暮れに屋外で飲むワイン、など、風情があるシーンもあるが、ユダヤ人である夫が失踪し精神的欝に陥ったアリスの暗い過去の回想、ドイツ兵に蹂躙されるパリの街、身をひそめて暮らしているユダヤ人たちの様子、そして、シャルルとアリスがドイツ兵に囚われて受ける屈辱的な尋問など、およそサガンらしくないシーンの描写が続く。
最近、サガンの作品を読み直していて感じたのだが、やはりサガンは、『心の青あざ』あたりでフィクション小説の語り手として、どこか行き詰ってしまったようなところがあるな、と思う。『心の青あざ』は、以前、小説としての出来はかなり???という感じだが、その分、サガンの個人的な思いや心情がストレートに吐露されている文章がたくさんあって、個人的に好きな作品だ。そして、『心の青あざ』の後に出された『失われた横顔』。これは、初期の“サガンらしさ”を集大成した最後の作品だった。『一年ののち』『すばらしい雲』と続いたジョゼ三部作の完結編としてもふさわしい作品だと言える。で、その後のサガンの小説は、どこか精彩と言うか、初期の“サガンらしさ”を欠いているような気がするのだが・・・
『心の青あざ』には、著者のこんな独白がある。
ええ、私は知っている。またもや私は軽薄な世界のまっただ中に落ちこんでいるということを・・・。真の問題が存在しないあの有名なサガン的小さな世界に。たしかにそうだ。そして私もまた苛々し始めた、自分の辛抱強さにもかかわらず。ここに一つの例を挙げよう。有能な女性は、有能な男性と同等の報酬を受けるべきだと宣言し、かつ考え(私はそう考えつづけている)、子供を生むか生まないかは女性が自由に選ぶべきだと宣言し、・・・何千という署名運動にサインをした後、・・・絶対主義、中庸主義、愚鈍、聡明、さまざまな演説を聞いた後で、車をもっていない人たちの傍に自分を再び見出した時---爆竹のようなスポーツ・カーにもかかわらず---これらすべての後で、私は、空想の、架空の、《金銭が重んじられない》世界へこの足で身をひそめよう、というわけなのだ。とどのつまりそれは私の勝手だ、私の全集を買わない権利が誰にもあるように。この時代が私をしばしばうんざりさせる、それはほんとうだ。私は仕事熱心な人間でもないし、安らかな両親は私の得意とするところでもない。でも、これから、文学のおかげで、私は友達のヴァン・ミレン兄妹と愉しく遊ぼう。あーあ!と私は安堵の溜息をつく。
これ以降のサガンの小説からは、良い意味でも悪い意味でも、その世界に“酔いしれた”ところがなくなってしまうような気がする。サガン自身が、そういうお決まりの虚構の世界に、スノビズムに、酔いしれることができなくなってしまったからなのかもしれない。小説にとって、そのフィクションの世界に酔いしれる、ということがどんなに重要なのか、サガンの小説を追って読んでいくことでわかる。
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