『すばらしい新世界』 池澤 夏樹


池澤夏樹は、須賀敦子が本の中で絶賛していたのをきっかけに、作品を読み始めた作家。
芥川賞を受賞した『スティル・ライフ』を初めて読み、その言葉と世界観の透明さ、美しさに心を打たれた。

風力発電を専門とする一技術系サラリーマンである主人公林太郎は、ひょんなことから、ネパールの山奥に灌漑農業用の風車をたてるプロジェクトを立ち上げ、ヒマラヤ奥地に赴くことに。思いつきで与え、その地に定着せずにやがては葬られてしまう、今までのような先進国の身勝手な援助のやり方ではなく、永久的にヒマラヤの奥地で風車が回り続けるために、できるだけ低コストでシンプルな風車を開発し、さらには土地の人々に基礎的な構造や修理方法を教育することまで行う林太郎。チベットの文化や宗教に触れ、日本に残してきた妻や子供とのEメールでの対話などを通して、徐々に先進国の文化の在りかた、たや信仰の意義などを見つめ直していく・・・というストーリー。本書は700ページ以上に及ぶ大作で、ボランティアやNGOなどの存在意義、消費偏重文化の行き詰まり、先進国と途上国の関係、信仰を失った生活への疑問、さらにはチベットの民族問題など、様々な問題が取り扱われている。

私は池澤夏樹さんの作品は、どちらかと言えば短編の方が好き。短編の方が、池澤夏樹さんの選ぶ言葉の美しさ、清々とした世界観のきらめきが、はっきり感じられるように思えるから。逆に、文学賞を受賞している『マシアス・ギリの失脚』『花を運ぶ妹』などの長編小説も、悪くはないけど、ちょっと論理的に明快過ぎて、池澤夏樹さんのせっかくの風味が失われるような気がしてしまうのだ。

本作品も、重要な問題を幾つも扱っていて、掘り下げ方も深いし、着眼点も素晴らしいのですが、やや説明が明快過ぎるきらいがある。特に、登場人物たちの会話が論理的過ぎて、ちょっと興ざめしてしまう。ストーリーの進展とともに、意図的に、作者の主観的意見や考察が述べられますが、これがまたテレビ番組のナレーションのような滑らかさ。でも、こういう純文学的な感じがしないところがまた、池澤夏樹さんの良さなのかもしれない。虚構の世界に酔いしれる楽しさではない。でも、透徹した世界観を、それに耽溺するのではなく、客観的で理知的に、何ていうか「節度をもった感じ」で、描き出す。

この作品は、2003年に初版発行となっているが、十数年後の今になって読んでみると、近い未来への預言に満ちていたことがわかります。中国のチベット弾圧、原発、非営利活動の発展などの問題は勿論のこと、現代社会の閉塞感、消費型社会への疑心、そして信仰の喪失という大きな問題について、今まさに、岐路に立たされているような気持で途方に暮れている私たちに、ぼんやりとした薄明かりで往くべき道を照らしてくれている。本書の登場人物たちの発言の方がよっぽど論理的に明快なので、幾つか抜粋してみよう。
イワシの頭を落とし、骨をはずしながら、このイワシだってずいぶん遠くから来たのだろうと考える。それでも鮮度がいいのは、保存や運搬の技術が進んだからだ。世界中からいろいろな食べ物が運ばれてくる。全部まちがいなくおいしいまま届く。値段だって自分たちが毎日でも食べられるのだから、高いとは言えない。
 それなのに、こんなことをしていていいのだろうかという不安がある。さっきの車の件も同じだ。なにもかもうまくいっているはずなのに、これでいいのかと不安になる。
 なんだか、借金で贅沢をしているような気持ち。イワシを食べて贅沢もないものだが、そのイワシをこのまな板の上まで届けてくれるシステムは借金で作ったものかもしれない。それが返せるという保証はない。あるいは森介たちの世代が苦労するのか。子供の名義で借金をしている親たち
人類は密度を高めることで文明を進めてきた。狩猟採集生活では人は散らばって暮らすしかなかった。農業を始めてようやく村ができた。それが町になって、都市になって、大都会になった。そうやって密度が高まるにつれて知的生産性も高まった。集積回路と同じですよ。隣が近いほど伝播速度が速い。」
「そのとおり」
「ニワトリを飼うのだって、放し飼いよりケージの方が効率がいいという考えかたですね。密度の勝負。でも、風力発電というのは違うんです。これは集中ではなく拡散。今までとは逆の方に針路を取らなければならない。だから普及がむずかしいんです。」
「もの考えかたを逆転させる?」
「そうです。高密度の、ハイ・テンションの象徴が原子炉だとすれば(あれこそ高温、高圧、高速の極みですからね)、対照的に、ゆっくりのんびりの、ぬるい、ゆるい、遅いエネルギー源が風車です」
「人はそれに慣れなければならない」
「そうなんです。ウインド・ファームは風車的哲学の妥協です。本当なら村ごと、家ごとに立てるのがいい。それに逆らって風車にできる精一杯の都会ごっこ、それが風車の林立というあの光景なんです」
あの戦争が間違いだったと思います。国が、危急存亡の時という終末論的なスローガンで人々の魂を宗教から奪い取った。そしてそのまま捨ててしまった。扱えるはずのない魂というものを、無責任な官僚たちがその場しのぎの不器用な手つきで扱って、取り落として壊し、敗戦と決まると捨ててしまった。
 だから、それ以来、この国では魂の問題はないことになったのです。考えないことにしたのです。
 危ないということだけをわたしたちは学んだ。魂の問題は火薬のようなもので、うまく使えば山を崩して道を造れるけれど、間違えるとたくさんの人が死ぬ。気をつけなければならない。
しかし、人間の場合、どうしてもその問題を無視できない。なぜ自分は生きているのか、何のための苦労なのか、死の後には何が待っているのか。そういう問いが次々に頭に湧いてくる。仮にも答えが得られれば、彼は生活の向上と子孫の繁栄の準備に専念することができる。得られなければ迷いつづける。その導きのために僧という役割が生まれた。
 いったい日本の場合はどうなっているのだろう。なぜ、日本人はあれほど宗教と無縁に生きてこられたのか。自分も信仰なき者の一人だから、信仰がある生活の感じがわからない。すがれるものがあるというのは、心の中に絶対の信頼の柱があるというのは、どのくらいの安心感なのだろう。
密集し、効率化を追求する社会から、拡散し、ゆるやかに循環する社会への転換。それを風車というコンセプトの中に凝縮して、先進国で消費主義の日本と山奥の秘境チベットとの対比の中に、自然への畏怖と祈り、信仰を通して初めて得ることのできる「生きることの確かさ」を問い直している。特に、最後に引用した信仰についての文章は、自分自身がもやもやと心の中にあった想いや疑問を、アカデミックな議論や余計な哲学無しに、本当にストレートに表現してくれていた。テーマは非常に重たいし、大作の長編だが、池澤夏樹さんの文章はそこをすっきりと読ませてくれる。タイトルが示している「すばらしい新世界」が、どこかにまだあることを信じたい、と思わせてくれる。

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